第八十九話 歪な想い
「あ、遅いですよう」
ベルリナの不満げな声にネスは顔を上げた。
ファイアランス王国──フィアスシュムート城入口前。ベルリナは一番最後にやって来たアンナの姿を見つめながら頬を膨らませた。
「アンナさん、一番最後ですよ」
「あんた達が早すぎるのよ」
城の入口前にはネス、ベルリナ、エディン、ウェズ、レスカ、そしてアンナが揃った所だ。
「あれ……アンナ、見送りは?」
「はあ? そんなもの済ませてきたわよ」
Vネックのシンプルな黒いミドルドレス。その裾を翻しながらアンナはネスを威圧するように数歩近寄った。
「どうせ直ぐに戻ってくるんだし、仰々しくする必要なんてないもの」
そう言って胸の下で組んだ腕──ほっそりとした左手の薬指には、金色の結婚指輪が輝いていた。
「そうだ、アンナこれ……返すよ」
自分の胸元のダークブラウンのネクタイを、ネスは指差す。
「ああ……いいわよそれ、あげたつもりだったから使って」
「え、そうなの? なら遠慮なく……」
なんだろう、アンナの態度が素っ気ないような気がする。それにこの場の空気──妙にピリピリしているなとネスが首を傾げると、ウェズと目が合った。
(……ん?)
顔を青くし、額に冷や汗を浮かべるウェズ。どうしたのだろう、具合でも悪いのだろうか。
その隣に立つレスカは堅い顔をしているものの、冷や汗はかいていない。エディンとベルリナはいつも通りだ。
「ウェズ、どうしたの?」
「え……あ、いや……」
明らかにウェズの挙動はおかしい。身に付けているグレーのヘアバンドと真っ青なタンクトップの背中は、汗が滲んでその色を濃くしていた。
「ウェズ、暑いの? それとも寒いの?」
「……どっちかって言うと
「そんなに寒いんなら、エディンのコートでも借りれば?」
ネスはエディンが肩に掛けている、金色の肩当ての付いたボルドーカラーのコートを顎でしゃくりながら言った。
「は、はあ? ばーか、何言ってんだ……つーか、お前……」
「なに?」
「何も感じねえのか?」
「え、なにが?」
呆れたような、困惑したような顔になったウェズは、すがるような眼差しをエディンに向けた。
エディンは眉間に皺を寄せ大きく息を吐くと、アンナに向かって「おい」と声を掛けた。
「アンナ、それをどうにかしてくれ」
「は?」
「ウェズが耐えられないらしい」
「……あ、ごめん……全体気が付かなくて。抑えてたつもりだったんだけど」
「漏れ漏れだ」
アンナが胸に手をあて深呼吸をすると、ウェズの顔色はいくらか良くなった。心なしか、堅かったレスカの表情もほぐれていた。
「……で、なんだったの?」
「あ? ああ、さっきのな……」
首を傾げたネスの耳元に、ウェズが近寄って耳打ちをする。
「アンナさんの殺気だよ」
「さ、殺気!?」
「声がでけぇから!」
「ごめん……!」
空気がピリピリしているように感じたのはそのせいか。そのままの体勢で二人は更に小声で続ける。
「ネス、お前アンナさんの殺気……分かんなかったのか?」
「……分かんなかった」
「どんだけ鈍いんだよお前」
「なんだかちょっと空気がピリピリするなあ、とは思ったんだけど」
アンナの放っていたという殺気──覚悟を決めた彼女の、溢れんばかりの負の感情。それは間違いなく兄レンに向けられたものだった。
「ごめんね、ウェズ」
冷たい眼差しを伏し目がちに、アンナが気まずそうにウェズに声を掛ける。
「ちょっと抑えきれなかったみたい」
「いや、俺は大丈夫なんで……」
顔の前で手をブンブンと振るウェズの唇はまだ青い。
「ネスは本当に大丈夫なの? レスカですら ……」
「大丈夫、大丈夫」
アンナは本気で心配してくれているようで、ネスの顔を下から見上げる表情は不安げだ。
「平気だって」
「そ……ならいいんだけど……」
──誰も気が付いていなかった。
ネスは鈍さ故にアンナの放つ殺気に気が付かなかったのではない。その重圧に耐えうる力を身に付けていたのだ。
自覚もなく、周囲も気が付かないその強大な力は──……。
「済みました? そろそろ行きますよう」
しびれを切らしたのか、押し黙ってきたベルリナがいつもの調子で言う。
「すみません」「はいはい」
ネスとアンナの声が重なる。
「さーてと……じゃあ皆さん輪になって手を繋いで下さい」
「「はあ?」」
場に似合わず、すっとんきょうな声を上げたのはアンナとエディンだ。
「なにエディン、恥ずかしいの?」
「う……」
腕を組み唸るエディンの左手を無理矢理取ったレスカは、悪戯っぽく笑いながら彼の指に自分の指を絡めた。空いた左手をネスに差し出しながら、「早くっ」と催促をする。
そんなネスの左手をウェズが掴み、ウェズの左手をアンナが取る。最後にベルリナがアンナとエディンの手を取ろうとしたその時。
──ピピピピ ピピピピ
────ピピピピ ピピピピ
「もーう、誰ですかあ」
ベルリナの通信機の受信音だ。彼女は繋ぎかけたアンナの手を名残惜しそうに見つめると、左耳に手をあてた。
『団長ぉぉおおおおおおおっ!』
「うわ、うるさっ!」
慌ててボリュームを下げるベルリナ。手を繋いでいた者達はあっけにとられ、スッとその手を放した。
「待てよ……この声……」
「ネス?」
「まさか、そんなはずは」
「どうしたの?」
怪訝な顔のアンナの眉間の皺にも気が付かず、ネスは目と口を開いてじりり、と後退する。
『約束忘れてたでしょ!? 今朝そっちから連絡してくれるって言ってたのに!』
「忘れてないですよ、ちょっと待って下さい」
(────え?)
「はい、どうぞ」
左耳から通信機を取り外したベルリナは、それをネスに差し出した。
「ネスさん、あなたにです」
「……どういうことですか」
「本人と話せば分かりますよう」
唇を歪めて首を傾けたベルリナの
「嫌な予感しかしません」
「どうぞ、ゆっくり話して下さいね。積もる話もあるでしょうし」
「ベル、どういうこと?」
「嫌だなあ、私は何もしていませんよ。彼からの要望なんです。話が済むまで待ってあげて下さい」
「大丈夫なの」
「さあ?」
「あんたねえ……」
「大丈夫かどうかはネスさん次第ですよ」
*
「もしもし……」
『よう』
「なんで……なんで!」
『ベルリナ団長が村に来たとき、騎士団に入れて欲しいって頼んだんだよ』
通信機の向こう側──ネスの幼馴染カスケ・ ラフストは、ネスの気を知ってか知らずか、声を弾ませいつもの調子で言った。
「なんで、なんで騎士団なんかに……」
『
騎士団の任務には常に危険が伴う。命を落とすこともあるというのに。
基本的に騎士団に入団するには実技と筆記の試験があるのだが、騎士団長が実力を見込んだ者を己の権限で入団されることも多々あるらしい。
『俺が騎士団に入団した理由を知りたいんだろ?』
カスケの場合は後者で、
「どうして……」
『サラだよ』
「なっ……! サラ……」
ネスとカスケの幼馴染サラ。カスケと交際をしていたが、ネスが村を立つ際「あなたの気を引きたくてカスケと交際をしていた」と告白した、ネスの────恋人。
別れの口づけを交わし、カスケにもちゃんと話すと言っていたサラ。
そのサラが──。
『お前、サラのことが好きだったんだってな』
この場にいる者は皆、聴覚が優れている。通信機越しとはいえ、カスケの声まで丸聞こえだ。
「…………」
カスケの言葉を聞いたレスカは、複雑な表情を浮かべた。
(初めて会った時、ネスが言ってた恋人……その存在を知りながらアタシは、ネスを……)
「好きなら、なんだ」
『はっきり言うねぇ』
「う……」
『俺だって好きだ。だから交際を申し込んだんだ。なのにあいつは……お前の気を引きたかったから俺と付き合っていたと言った』
「…………」
『酷くねえか? 傍で守ると言う俺よりも、いつ帰ってくるかも分からねえお前を待つとサラは言った。俺の立場、虚しすぎるだろ。情けないったらねえよ』
「それが、騎士団に入団した理由とどういう関係が、」
『最後まで聞けよ』
カスケは凄んだ。それは仲の良い幼馴染に向ける声色ではなかった。
『俺は見たんだ。出発前にお前がサラとキスしてるのを……半ば自暴自棄だよな。仲間内で笑いの種にしかならねえ俺の気持ちがお前に分かるか? 分からねえだろう? 俺は騎士団で勝手に強くなって、勝手に幸せになるからよ。お前も親父さんの手伝いを済ませたらさっさと村に帰って、サラを幸せにしてやれよ』
「──俺は……」
『……?』
レスカと目が合う。彼女にも多少の罪悪感はあるのか、ネスから目を逸らした。
ネスに恋人がいても構わない、一族の繁栄の為だと言って彼に身を委ねたレスカ。いけないことだと分かっていながら、己の欲に負けて何度もレスカを抱いたネス。
(こんな俺に、サラを幸せにする権利なんてあるのか)
『ネス……?』
(目の前の悦楽に目が眩み、俺は何度もレスカを──)
「俺にサラを幸せにする権利なんて、もうないのかもしれない」
『何言ってんだ、お前』
「俺は……村には帰れないかもしれない」
嘘。
どんな顔をして帰ればいいのか分からないといった方が正しい。嘘を吐いて村に帰りたくない理由を作らねば、サラもカスケも必要以上に傷付けてしまう。
(サラに会わせる顔がない)
『帰れないかもしれないって、どういうことだよ』
「カスケ、俺は……父さんみたいな賢者になりたいんだ、だから……すぐには帰れない、いや……帰らないよ」
『そうか』
会話が耳に届いているアンナとベルリナは不満げな、何か言いたそうな顔をしている。エディンとウェズはレスカに対する親心の現れか、怒りを乗せた目付きでネスを睨む。
レスカは──泣き出しそうな、申し訳がなさそうな顔をしていた。
「ごめんカスケ……だからサラは、」
『お前が帰ってこないっていうんなら、サラは俺がもらう』
もらうと言われてネスの心がチクリと痛んだ。
(なんて未練がましいんだ俺は)
サラを好きだと言いながらレスカと関係を持ち、会わせる顔がないからと言って、帰郷から逃げる。
(……最低だな、俺は)
「ごめん……」
『俺に謝ってどうすんだ、ちゃんとサラに謝れよな』
「……うん」
『いいか、約束だぞ、絶対だぞ』
「ちゃんと、謝るよ」
「いい加減にしなさい」
低い声で割って入ったのはアンナだ。ネスの耳から通信機を取り上げるとそれを一睨み。
「決戦前にうちのネスの精神を煽るんじゃないわよ」
『え、だれ──』
────ぐしゃり。
「ああっ! 私の通信機!」
「予備、持ってるんでしょ」
「ありますけど……」
握り潰した機械の欠片を手の中で燃やし尽くしたアンナは、怖い顔のままネスの後頭部をパシッと叩いた。
その場にいる皆が目を剥く中、アンナはひどく苛立った表情のまま、ベルリナを睨む。
「ベル」
「いやだなあ、私は何もしてませんって。あなた以外に意地悪をするメリットなんてないですもん」
「偶然ってことなの」
「そうとしか言えませんね」
「……そ、疑って悪かったわ」
「ア……アンナさんが私に謝るなんて!?」
何故かうっとりするベルリナを尻目に、アンナはネスの首に両腕を回した。
「な……ア、アンナ?」
「黙って聞きなさい」
「いや、待ってくれ……その、む……胸が……」
アンナの身長を疾うに追い越していたネス。そのアンナがネスに抱きつくと、ネスの胸から腹にかけて、彼女の豊かな胸が押し付けられる形になる。
「我慢」
「……う」
「まだ変態は治ってないのかしらね」
「そういうこと今言う!?」
出会ったばかりの頃、アンナはネスのことを変態変態と何度も罵った。
(──すごく昔のことのように感じる)
まだあれから一ヶ月半も経っていないというのに。
「ネス」
「……はい?」
「あの子に……サラに何を謝るっていうの」
「それは……」
「あの子の耳には何も入っていないのよ」
事実、サラは何も知らない。
ネスが
「俺、最低じゃないか……」
「どこが?」
「どこがって……レスカに迫られるまま、欲に負けて何度も……。いくらライル族の復興の為だからって俺は、サラの気も知らないで」
「でもあの子はその事実を知らない」
「そうだけど……」
「前にも言ったでしょ? 黙っているのも優しさだって。自己満足で真実をあの子に告げても、いたずらに傷付けるだけよ」
アンナは恐らく──過去の自分とネスの姿を重ねていた。
絶対に逆らうことの許されない父親の命令とはいえ、
(あの人をあんなに傷付けたのに、あたしはシナブルと──)
「……アンナ?」
(こんなことをネスに知られる訳にはいかないものね。絶対軽蔑されるもの)
「全てが無事に済んだら、あの子の元へ帰ってあげれば……それでいいと思うわ」
「うん……」
「とりあえず今は、忘れなさい。自己否定なんてしてたら、勝てる戦も勝てないもの」
「うん……でもそんな急に忘れろなんて言われても」
「それならこんなのはどうですか? えいっ!」
「ッ……やあっ!」「ぶへっ!」
あろうことかベルリナはネスの後頭部を掴むと、そのままネスの顔をアンナの胸へと押し込んだ。アンナの柔らかな胸に顔を埋めたネスは、体験したことのないその感触に、体が痺れて動けない。
「ばか! のいてよぉ!」
顔を上げる気配のないネスを、アンナは突き飛ばす。無様に転倒したネスに、ウェズが駆け寄った。
「大丈夫かよ!?」
「柔らかすぎて、死ぬかと思った……」
「羨ましいなあ、おい!」
「ウェズッ!」
「ひいいぃ……すんませんアンナさん!」
腕を交差させて胸を押さえつけたアンナは、真っ赤な顔をベルリナに向けて叫ぶ。
「もう、ベルッ!」
「手っ取り早かったでしょ?」
反省の色など全くみせないベルリナは、鼻息荒く得意気に腕を組んだ。
「しんみりされたら困るんですよ。今から何処に何をしに行くのか、分かってます?」
「分かってるわよ、うっさいわね」
「じゃあさっさと行きましょうよ」
右手にアンナ、左手にエディンの手を繋ぐとベルリナは、何やら呪文を唱え始めた。皆が急いで手を繋ぎ合うと、次の瞬間転移魔法は発動した。
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