第七十五話 その身が朽ち腕一本になろうとも
開かれた扉の向こうに広がっていたのは、圧巻の一言で片付けてしまいたくなるくらい、壮大で荘厳な空間。正に王家の居城に相応しい空間だった。
「さあ、どうぞお入り下さい」
正面にはとても屋内とは思えないくらい広い、赤々とした絨毯の敷かれた廊下。その終点にはガラス張りの窓壁。ガラスの向こうには城の前庭と同じくらい豪奢な庭園。天井を見るとそれは格子天井で、薄い衣を纏った天使や女神がぎっしりと描かれていた。
「もう言葉が出ない……」
「だな……」
「ですね……」
「さあ、こちらです」
皆は開いた口を塞ぐ間もなく、シナブルの背に着いていく。
城に入ってすぐの通路を、シナブルは直進せずに右に曲がる。
「あ! あれは」
ネスが指差した先──天井と廊下の壁との境にに、まるでこちらを見下すような鋭い角度で、この国の漆黒の国旗が高々と掲げてあった。
「シナブル、あの国旗のデザインの意味って何なの?」
黒で塗りつぶされた生地の中央に、三枚羽の白い片翼が描かれているだけのシンプルなものだ。シンプルといっても片翼の描写は非常に緻密で、視力の上がったネスの目には、この距離でもその羽の一枚一枚まではっきりと見て取ることが出来た。
「たとえその身が朽ち腕一本になろうとも、命が続く限り戦い続ける──という意味が込められているのです」
「「
エディン以外全員の声が、重なった。
「ん、でも羽じゃん?」
「あれが羽ではなく腕だと、もっと怖いでしょう?」
「「たしかに……」」
「皆様、仲がよろしいですよね」
何度も重なる皆の声にシナブルは、ふっと控えめに声を漏らした。
(あれ、シナブル今、笑った……?)
「王家の人間の右肩には皆、あれを模した刺青が彫られています」
「へえー!」
シナブルのそんな解説を片耳で聞きながら、ネスは伺うことの出来ない彼の表情が気になって仕方がない。
「さて、皆様。どうぞこちらで御寛ぎ下さい」
立ち止まり、開かれた扉の向こうでは、先行してこの城に向かっていたウェズを含む第一陣が──
「おっせーよお前らー!」
長いテーブル席に着き、豪勢な料理を頬張っていた。
「なに、なにやってんの? ていうか人数少なくない?」
席について食事をしているのはウェズを含めても三人だった。残りの六人は何処へ行ったのだろうか。
「んー、地下とか?」
「ウェズ、ざっくりすぎて分かんないよ」
「屋上とか?」
どうやらまともに説明をするつもりがないらしい。ウェズは皿に盛られたパイのような、グラタンのような料理を取り分けるのに必死だ。
「あ、これ
ネスの鼻元にまで芳醇な香りが漂ってくる。
「他の皆様は地下や屋上にいらっしゃいますよ」
そんなウェズを見かねて、シナブルが口を開いた。
「いや、ええと……シナブル、そうじゃなくって」
「……? ああ、わかりましたネス様。皆様は地下の遊技場や屋上の浴場に行ってらっしゃいます」
「遊技場?」
「はい。この棟の地下には劇場、カジノ、射撃場、プールといった娯楽施設が完備されています。一階から三階は客室で、その屋上には浴場がありますので、皆様は思い思いの場所で過ごされております」
「想像していたよりも凄い回答がきた……」
「凄い、ですか?」
この環境で生まれ育ったシナブルからすれば普通なのかもしれないが、ごく普通の家庭──でもないが、庶民のネスにしてみれば、家の地下にカジノがあるのは異常だ。屋上に浴場があるなど、想像もつかない。
ネスとシナブルが話し込んでいる間にも、一緒に来たルイズ達は席に着き食事を始めていた。
「ネス様も、よろしければ」
「ありがとう。じゃあ俺も──」
「いい匂いがするーっ!」
廊下に響き渡るのはレスカの高い声。その後ろには残りの船員達がぞろぞろと続く。どうやらここに至るまでの道程で、合流したようだ。
これだけ広い空間だというのに、流石に四十人近く人が集まると、少しうるさい。
「皆様! こちらへどうぞ! お疲れになられたでしょう、お食事が用意してありますので、御寛ぎ下さいませ!」
そのうるさい声を抑圧するでもなく、突然その場に凛と響いた声の主──
「ヴィウィ」
凛とした声とは対照的に、レスカ達一行を率いて現れたのは可愛らしい顔付きの女性だった。見た目にはシナブルよりも少し年下に見える。くすんだコスモスの花びらのような色の髪を、側頭部でお団子にしている彼女。
着ているスーツの襟を正すと、彼女──ヴィウィはにこりと微笑んだ。その笑顔に釘付けになるものが数名。
「なんだあの子、可愛いぞ……!」
「お顔と声のギャップがたまらんっ!」
そして再びざわつきだした室内。
────パァンッ!
耳をつんざく渇いた衝撃音が廊下と部屋に響き渡る。それは笑顔を崩さないまま、ヴィウィが手を打った音だった。
「お し ず か に」
(怖っ……!)
「に」と言った直後、ヴィウィは片目を開いて皆を睨んだのだった。
「ヴィウィ、皆様にご挨拶を」
「そうですね、忘れておりました」
シナブルに促されたヴィウィは、スリットの入ったタイトスカートの裾をちょんとつまみ胸に手を当てると、深々と頭を下げた。
「マリーローラーン様直属の臣下、ヴィウィ・トワクアライトと申します。以後お見知りおきを」
「トワクアライト?」
「ええ、私はネヴィアス王妃の姪になりますので、姓が違うのです」
「なるほど!」
ネスが納得している間にも、ヴィウィの挨拶を受け取った船員達は、パラパラとばらけて、思い思いの場所に足を向けている。一番人気はやはりこの豪勢な食事のようで、彼女の背中を追って室内に入る者がかなり多い。
────と。
「何か聞こえる」
「…………誰か叫びながら近づいてくるな」
ネスとエディンの会話を不思議そうに眺めるルイズ。流石に人間である彼の耳には、まだその叫び声が届かない。
「ん、あれは────アンナ?」
柄にもなく彼女は、大声で何か叫びながら
「うっ……」
「どしたのシナブル?」
「いや、その……」
「あ……お気の毒に……」
シナブルに向かってネスは手を合わせて頭を下げ、目を閉じた。
「諦めてはいけません……」
「って言ってもほら、あれ」
言ってアンナを指差すネス。
この距離で見る限り、アンナの表情は
「シィィィィナァァァァブゥゥゥルゥゥゥゥッッ!」
そして彼女はその怒りの形相で叫ぶ。
「ほら、シナブルって言ってるでしょあれ」
「うぅ……」
「覚悟は出来てるって言ってなかったっけ?」
「言いましたよ。言いましたけども……まさかあそこまでとは」
剥き出しのシナブルの額に汗の粒が浮かび始めた。
「──おい」
あっという間にシナブルとの距離を詰めたアンナは、
「……申し訳ございません、姫」
「あたしまだ何も言ってないわよ」
「はい……」
「ちゃんと目を見なさい」
「はい……」
ぐいっとシナブルのネクタイを掴み、自分の顔に引き寄せるアンナ。眉間には深い皺が刻まれ、鋭い目元はいつにも増して鋭利な刃物のようだ。
その場に残っていた船員達は、なんの騒ぎかと足を止めこちらを見ている。
「今、サーシャとエルディアに会ったわ」
「……はい」
「四年前に生まれたって聞いたわ」
「……はい」
「あたし、何も報告を受けた記憶がないんだけど」
「……はい」
「なんで何も言ってくれなかったの?」
「申し訳ございません……」
シナブルのほうがかなり体格が良いのに、この距離で見ると、彼はまるで獣に怯える小動物のようだった。眼前の獣から目を下に反らし、早く解放されないかと視線は宙をさ迷っている。
「目を見ろって言ってんだろ」
「はい……」
「ったく……まあいいわ、後でゆっくり聞かせてもらう。今夜
「う…………わかりました」
そこでようやく彼は獣から解放された。手を膝について、大きく息を吐き出す。
「はあ……」
「お疲れ、シナブル」
「ネス様……ありがとうございます」
「ところで……」
「「やるって何をっ!?」」
タイミングを見計らっていた船員達が、一気に輪の中に押し寄せる。目を輝かせ、中には鼻息荒く興奮気味の者もいる。
「何がです?」
額の汗を拭きながら、シナブルは眉をひそめた。
「とぼけんなよ、シナブルさん!」
「そうだそうだ!」
「綺麗な嫁さんいるくせに!」
「今夜ヤるってアンナさん言ってたけど、どうなってんだよ!」
「やるってそういう意味なのっ?」
最後に言ったのはレスカだった。目を剥いた彼女は、隣で叫んだ男の顔を見ながら自分も大声で叫んだ。
「なっ………皆様何を言っておられるのです?!」
真っ赤な顔の前で両手を振り、
「なんでそんな発想に────」
「アンナさあんっ!」
左右に振られるアンナの首に、細い腕が絡まりついた。
「ベ……ベル!?」
「そうですー」
アンナの体にまとわりついているのは、第二騎士団団長ベルリナ・ベルフラワーだった。あれから直ぐにファイアランス王国へ向けて転移魔法を使った彼女は、数日前からこの城に滞在し、役者が揃うのを待っていたのだ。
「ってベルっ、やだっ……ちょっと……どこ触ってんのよっ」
「左胸のトップです」
「そういう意味じゃないから! って……ちょ、いゃっ……」
小柄なベルリナは思い切り手を伸ばし、あろうことかその手をアンナのドレスの胸元に差し込んでいた。状況が状況なだけに、誰も彼女の暴走を止められない。
「…………んっ……っ」
身を震わせて足下から崩れるアンナの表情に、誰もが釘付けになっていたその時────
「ひぃぃぃぃぃぃぃめぇぇぇぇぇぇぇぇええっっ!」
何者かが叫びながら猛烈なスピードで駆けてくる。
(このパターンばっかりだな……しかし誰だ?)
駆け寄る人物の姿を、ネスは捉える。濃紺のスーツ姿の男だ。見覚えのある、美しい髪色。
「姫! 姫姫姫姫っ!! ひぃぃぃぃめぇぇぇぇ! とうっ!」
掛け声と共にその男は跳びはねた。
「っ!!」
「えっ!?」
そして跳びはねた彼は、ベルリナごとアンナに抱き付き、どすん、という音を立てて彼女達を押し倒したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます