第五十六話 ルヴィスとシナブル
「五百七十二……五百七十三……五百七十四……」
縦横がそれぞれ五メートルはあろうかという大窓の前──爪先程度の小さく白いタイルがびっしりと敷き詰められたスペース。
「五百七十五……五百七十六……五百七十七……」
逆立ちをし、右手の親指一本で体重を支え、見ているこちらが少々戸惑うような態勢で、筋力強化という名の上下運動をしている男が一人。
「五百七十八……五百七十九……五百八十……ハァッ……ハァ……」
額には無数の汗が雫となって張り付き、
「ハァッ……五百八十一……五百八十二……」
衣服を身に付けていない上半身には、至るところに刀傷が点在している。明るい星空のような美しい色の髪は乱れ、鋭い彼の目元を控えめに隠している。
彼の名はシナブル・グランヴィ。ファイアランス王国第二王女アンナリリアン直属の臣下。
「五百八十三……五百八十四……はあー…ッ……五百八十五……」
──彼が
(あんな……あんな夢をみるなんて……一体いつのことを思い出していたんだ、俺は)
ノルの町でシナブルがティファラと対峙した時に、ティファラが彼に見せた、ネスと同様の「夢」。
皮肉にも夢をみた記憶だけは残され、ティファラと対峙した記憶は綺麗に消されてしまった、ネスとシナブル。
そして二人は揃って「それ」に苦しんだ。
シナブルの場合、ティファラの魔法によって「過去の記憶」が呼び起こされた、といった方が正確なのだが──どちらにしても彼は、もう思い出すまいと堅く誓っていた過去に触れてしまった──ティファラの悪意によって。
(煩悩を断たねば──サーシャに合わせる顔がない。いくら「当時」独り身だったとはいえ──俺は──姫に──────)
「……っち、くそ……っ」
あれは国王自ら出した
血色の絨毯が敷き詰められた王の間で、背の高い玉座に腰かけた国王──エドヴァルド二世があの時言った言葉を、シナブルは今でも鮮明に覚えていた。
『命令だ、よく聞け。俺はもうすぐ死ぬらしい。しかしだ、俺の跡継ぎは馬鹿な上に無鉄砲者だ。いつ死ぬかわからない。跡継ぎを残していないにもかかわらずだ。そこでだ、お前たち、今からエリックが戻ってくるまでいい、毎日──』
「帰って来たならそう言えよ、シナブル」
エナメル質の黒い靴先が、シナブルの視界に入り込む。
軽く上半身を振り、シナブルが片足ずつ床に着地すると、目の前の男は真っ白なタオルを差し出した。
「兄上」
兄上、と呼ばれた人物──ルヴィス・グランヴィ。美しい髪の色は弟のそれと同じだが、髪型が少しだけ違う。似たようなオールバックなのだが、ルヴィスは前髪の一部を少しだけ垂らしている。一つ付け加えるならば、ルヴィスはシナブルほど目付きが悪くなく、彼と比べると柔らかく、優しげな雰囲気である。
「お前……」
ルヴィスには長年共に過ごしている弟が、今何を考えているのか、顔を見てすぐにわかった。
(またか……)
「兄上、人の部屋に勝手に入ってくるのはやめろよ」
シナブルは、受け取ったタオルで汗を拭きながら言った。
「いやいや、ノックしたよ俺? お前が気が付かなかっただけだろ?」
「そうか、悪い────ところで、何か用?」
体の汗を拭き、タイル
相変わらず、分かりやすい弟だと思う。普段あまり感情を表に出さないせいもあって「こういう時」には、兄として直ぐに気が付く。
(何かあったんだな)
弟のこんな顔を見るのは何年ぶりだろうか。
「なに戸惑ってんだよ、兄上」
兄が何かに戸惑っていることくらいは、少し鈍感なシナブルにもわかった。
(この野郎……人が心配してやってんのに!)
不思議そうに首を傾げるシナブルを恨めしく思いながらも、ルヴィスはそれをおくびにも出さずに口を開いた。
「シナブル」
「何?」
「お前の一番大切な人は誰だ」
「アンナ様だ」
「──俺もだ」
「……?」
右に傾いていたシナブルの首が、今度は反対側に傾く。
シナブルの答えは臣下として当然のものだったが、今のルヴィスには、それが一人の男としての愛の言葉に聞こえた。
「用ってそんなことなのか? 当然のことを言わせるなよ」
「いや、違う」
「だったら何?」
「お前、サーシャには会ったのか?」
「……いいや」
ファイアランス王国は北と東を除く二方向が海に面している。国に入国するための入口は北側にしかなく、東側は領土拡大に向けて日々交戦中だ。
王族達の住む城は、国の最南に海を背に建てられていて、国内の混乱を避けるために、彼等は西側や南側から敢えて入国することも多い。その為、常に軍人達が警戒体制を取っている。
悪名高い独裁国家として有名なこの国に、国外の人間が西の海側から入ろうものなら、軍に引き留められ、多くのものは牢獄行き。南の王城の背中側から入ろうものなら、有無を言わせず殺される。
そんな王城へ続く敷地の入口──そこの門番守を務めるのが、シナブルの妻サーシャだ。今は
この度の帰城でシナブルは、あえてサーシャを避けて南側から入城した。いつもなら自分の帰りを待ちわびてくれている妻を抱き寄せて、帰城の挨拶を交わすのだが、今回は敢えて避けた。
どんな顔をして妻に会えばいいのか、わからなかったからだ。
あんな夢をみておいて。
妻への裏切りに等しい、あんな夢をみておいて。
「汗を流したら直ぐ次の仕事に向かう。サーシャに会うのはそれからだ」
「待てよシナブル」
「何だよ」
「お前、アンナ様の所で……何があった」
「何も」
否定をしておきながら、シナブルの視線は足元に落とされる。それは何もなかったと断言し、納得できる素振りではなかった。
「いい加減、お前は……」腰に手を当て、首をガクッと下げたルヴィスは、飽きれ顔になりながらも、自分の靴に向けていた視線だけをシナブルに移す。
そして彼を睨みつけ、忠告する。
「断ち切れ」
全ての事情をルヴィスは知っていた。国王が出した命令も、シナブルの思いも、アンナの気持ちも、二人が交わした
ルヴィスは全てを聞いていたからだ。国王の命令によって、二人の行為を
ルヴィスは国王の信頼が厚かった。というのも彼は、グランヴィ家の内乱──
内乱の最中、レンによってアンナ直属の臣下フォードが殺されたのを境に、ルヴィスはアンナに仕えるように国王直々に指示をされた。
そんな厚い信頼を向けていたルヴィスに、エドヴァルド二世はあの時こう言ったのだ。
『ルヴィス、お前は二人がちゃんと俺の命令に従うか、見張れ』
と。
ルヴィスには分かっていた。こんなことが起こるより以前から、弟は
(こんな時、姉上ならなんと言うのだろうか)
内乱時、己の
「断ち切っているさ……断ち切っている……けど、今回は……」
シナブルの視線は、床に落とされたままだった。
「今回は、何だ?」
「──っ……なんでもない」
シナブルはバスルームへと続く扉を乱暴に開けると、逃げるようにその中に消えた。
「なんでもないって顔じゃねえだろうが……」
これ以上詮索をしても、きっと弟は何も語らないだろう。
「姉上──姉上ならこういう時、どうしますか」
窓の外の青い空を見上げながら、もうこの世にはいない姉に、ルヴィスは問う。
勿論、その問に返ってくる答えなど、あるはずもなかった。
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