第五十話 シムノン・カートス
フロラ大陸の北西。ソート地方──ソート王国の港町。
一人の男があばら家の屋根の上で、気持ち良さそうに日光浴をしている。
頭の下で腕を組み、煙草を
遠くから自分を呼ぶ声が聞こえたので、男はしぶしぶまぶたを開き、淡いブルーの瞳でぼうっと空を眺めた。
「無視すんなっ!」
「っぶ!」
あばら家の屋根に飛びっ乗って来た女の鋭い蹴りによって、男の視界は青空から一辺、薄汚いトタン屋根へと移り変わる。
「あんたも手伝いなさいよ」
男を跨いで仁王立ち姿の女の髪は短く、その色と瞳の色はエルフのそれだった。美しい金髪の間から、長い耳が覗いている。
「なんだよソフィア……うん、今日も綺麗だな」
「私じゃなくて、『空が』って言うんでしょ」
「空もお前も綺麗だよ」
「はいはいはいはい」
ソフィアと呼ばれた女は慣れた調子で言葉を返すと、屈み込んで男の額をつついた。彼女は短い丈の上着を着て浅い腰履きのズボンを履いているので、屈むことにより白く透き通った背中が一段と露になった。
「町の皆さんあんたを待ってんのよ。『大賢者シムノン・カートス様がいらっしゃったからにはもう安心だ!』って言って頑張ってんのよ、復興!」
「痛い痛い! 指針は示しただろー」
何度もソフィアにつつかれ赤くなった額を押さえながら、シムノンは面倒臭そうに言った。
「あんたねえ、指示したらそれで終わりで良いと思ってんの? 実行するこっちの身にもなってみなさいよ……って聞いてんの?」
ソフィアはシムノンの口から煙草を取り上げ、それを手の中で燃やし尽くした。
「レノアに会いてえなあ……」
「はあ? レノアさん?」
「ああ……なんか、ここ最近ずっと、あいつが俺を呼んでいる気がするんだよなあ」
「この仕事が一段落するまでは帰さないわよ、シムノン」
「わかってるって」
大きな溜め息を吐きながら、のろのろと立ち上がったシムノンは「レフは?」と聞いた。
「早く来いって怒ってる」
「みんな俺がいないと何も出来ないのかよ」
「出来ないんじゃなくて、あんた一人だけさぼるなって言ってるの」
「はいはい」
「ったく、行くわよ」
ソフィアがいつものようにシムノンの背中を叩いて気合いを入れてやろうと力んだ、次の瞬間──地面が大きく揺らいだ。
「な……地震!」
「ずいぶんでかいな」
二人の足下のあばら屋が音を立てて崩れてゆく。周りの家々もあっという間に木っ端微塵になる。その足場から二人は
「こりゃ……町は一溜まりもないぞ」
「まあ、『皆』がいるから大丈夫でしょ……」
「しかし、やべえな」
崩れ去ったあばら家は瓦礫と化し、二人が着地する足場など到底見つけることは出来そうになかった。
「やべえな」
「──来るわね」
「ああ」
澄んでいた海の方から、ごごごご、と不気味な音が聞こえてくる。その音は徐々に大きくなり、辺り一体の全ての音をかき消した。
「あれだな、『ハマの大水害』思い出すな」
「あれよりでかいわよ」
「そうみたいだな」
二人の目の前に広がるジュサン海の──海水が、四方八方から目にも止まらぬ速さで、陸地めがけて押し寄せてくる。ペアピンのようにカーブした海に囲まれたこの陸地では、逃げ場などない。
「震源は北西のようね」
目を閉じて、自慢の耳で様々な音を広い上げながらソフィアが言った。
「んじゃ俺は北西側を止めるから、お前は東側を頼むわ」
新しい煙草に火を点けながら、軽い調子でシムノンは言った。
「……やってみるわ」
攻め来る大波を見つめながらソフィアは小さな声で言った。
「出来ないのか?」
「あまり自信がないわ」
「お前らしくないな」
「……」
「お前の炎は海水なんかじゃ消えやしないだろ」
「そうだけど……」
「大丈夫だ。お前なら出来る」
剥き出しのソフィアの肩を軽く叩くと、シムノンは北側の海岸沿い目がけて飛んで行った。
「そんなに軽く言わないでよ」
ソフィアは溜め息を吐くと、東側の海岸沿いへ急いだ。
「こりゃあすげえな」
迫り来る荒波を目の前に、シムノンは一人声を張り上げていた。
「ハマの大水害とは比べ物になんねえわ」
彼が何処と無く嬉しそうなのは気のせいだろうか。口角を引き揚げにやりと笑うとシムノンは、大きく広げた両腕を前に突き出した。
「ふんっ!」
その二本の腕で海を受け止める体勢をとる。シムノンの腕の手前でぐにゃりと
「あ……やっべぇ……」
駆け戻って行く海水の勢いがあまりにも強すぎる。このままでは更に大きな波となって、再びこちらに押し寄せるだろう。
「ったく……」
シムノンは両腕を伸ばしたまま目を閉じ、海水と意識を共有した。自身が押し戻した波の山──そこに意識が追い付く──
「捕らえた!」
対面する海水を操り、押し戻した波を打ち消す。見渡す限りの水平線が、大きな波しぶきを上げて衝突し合うと、荒れ狂っていた海は次第に落ち着きを取り戻していった。
ソフィアの方は大丈夫だろうかと、シムノンは飛び上がりくるりと体を捻って海を見た。シムノンが心配するまでもなく、ソフィアは見事に自分の仕事を果たしていた。
シムノンの強大すぎる
そんな自分の力を誇示する趣味など全くないシムノンは、穏やかになった海原を見つめながら一人呟く。
「──世界の終わりの始まりか」
そして『それから』逃げ出してしまった自分の代わりに、それに立ち向かう運命にある息子を案じながら新しい煙草に火をつけた。
(俺は弱いんだよ──どこまでも、誰よりも弱い。嫌なことから逃げ出す為に力を身に付けた)
「いや、違うか──」
身に付けたのではない。彼には初めからその力が備わっていた。それだけのことだ。
──息子達と同じように。
煙草の煙を吐き出したシムノンの足下には、あまり凝視したくないほど恐ろしい地割れの列が、どこまでも、どこまでも広がっていた。
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