第十八話 十八年前の悪夢
熱いシャワーを浴びて一日分の汗を流し、ホテルの一階にあるレストランで食事を済ませて、ネスが部屋に戻ってくる頃には、時計の針は午後九時を指していた。
日が暮れるまで修行に付き合ってくれた上、裸足で走り回っていたネスを見兼ねたシナブルは、途中から靴まで貸してくれた。
そんな彼を何度食事に誘っても「結構です。お構い無く」の一点張りで、ネスは結局一人でだだっ広く格式高いレストランで食事をするはめになった。
(場違いだ……)
明日からは部屋食にしよう。毎日一人で行くには恥ずかしい場所だった。
一日中刀を振り手足は疲れきっていた。集中して
目に映る肉体が自分のものではないように思える。大人びた肉体。太くなった腕に足、厚くなった胸板、広くなった肩幅。鏡に映る顔も幼さが隅のほうへと追いやられ、気が付けば大人びた顔つきに成長をとげていた。あと数日もすれば隅に追いやられている幼さも、消え去ってしまうのだろう。
急激に成長をとげた自分に、ネスは少し恐怖していた。体の成長に対して心が追い付かないことが、こんなにも恐ろしいとは思いもしなかったからだ。
早く大人になりたいと思うことはあったが、こんなにも早足で体だけ大人になるなんて──なんだか気味が悪かった。
風呂から上がって体を拭き、下半身だけ服を身に付けバスルームを出た。ネスが部屋を見渡すも、やはりそこにシナブルの気配はなかった。必要時以外は呼ばないで下さい、と言われているので声を掛けるのは止めておくことにした。
──一人きり。
村を出てからずっとアンナと行動を共にしてきたせいもあり、ネスの心は無性に人に飢えていた。彼女は今どの辺りにいるのだろうかと思いを馳せる。
──あの時。
「じゃあ一つだけ教えて下さい」
土下座の体勢から顔を上げようとしなかったシナブルにネスは問いかけた。
「なんでしょうか」
「誰の命日なんです?」
マリーが言っていた。「サンリユスの帰りにうちに寄りなさいな。皆の命日に間に合うように」と。
「それは──それは……」
シナブルは明らかに動揺していた。顔を上げていたが、言葉を発すると同時にまたしても下を向いてしまった。
ネスはそれ以上、無理に聞き出そうとは思わなかった。いつもの純粋な知的好奇心ではなく、彼女の──アンナの事について知りたいと思う、ただそれだけのことだった。
「分かりました……ただし、姫には内緒にしていて下さい」
「……ああ」
シナブルは語り始めた。立ち上がりバルコニーまで歩いて行き、閉めたままの窓から外に視線を投げて。
「かれこれ二十年近く前のことになりますが……あの時、沢山の者が死にました──いえ、殺されました」
「二十年近く前? それに、殺されたって誰に……」
「レン様……いえ、レンブランティウス・F(ファイアランス)・グランヴィ──アンナ様の兄によってです。彼の暴走を止めようとした国民達、姫の祖母上、姫の弟君、産まれてくるはずだった弟君、そして沢山の臣下達……」
「産まれてくるはずだったって、まさか……!」
「ご想像の通りです」
ファイアランス王国、国王エドヴァルド二世──アンナの父とマリーは当時仕事で国を留守にしていた。それぞれの臣下達は、遠方での仕事の時は
当時城に居たのはアンナの祖母、王妃であるアンナの母、アンナの弟、アンナ、それに臣下達。
「もちろん俺も城に居ました。あの時はちょうど屋外で、共に姫に仕える臣下のフォード達と三対一で、姫の修行の相手をしていました」
シナブルは続ける。
「突然でした。城から悲鳴が聞こえたんです」
悲鳴を聞いて四人は城へと向かった。するとそこにはレンに仕える臣下が一人、首から血を流して倒れていた。
「レン様に仕えていた彼女は俺の姉……マンダリーヌでした……全身が震えたのをよく覚えています」
長い長い回廊を抜け、四人は王の間に辿り着いた。途中で何人もの死体を目の当たりにしながら。
王の間の手前にはアンナの弟が倒れていた。アンナが駆け寄った時、既に息はなかった。
「姫は怒りと悲しみで震えていました。そして閉じられていた王の間の扉を開いたのです」
王の間には背の高い玉座があった。アンナの祖母はその背もたれに張り付けられるようにして死んでいたという。
「俺たちが辿り着いた時、レン様は王妃様と刀を抜いて対峙してしました。しかし、レン様は俺達の存在に気が付くと」
──母の腹を刺したのだという。
「そんな……そんなことって……」
「腹の子は死に……王妃様はなんとか一命を取りとめました」
そしてレンは言い放った。
(アンナ、俺の愛する妹よ。俺はここにいる全てのものを殺す。だから俺と一緒に来い)
──広間に響き渡る声で。
────アンナだけを見て。
「レン様は姫を溺愛していました。あまり表面には出しませんでしたが、いつも姫に付いている俺からしたら、一目瞭然でした」
その愛は異常なものだった。兄が妹に対するそれの度を遥かに越えていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれシナブル。レンがアンナを溺愛していたことと、一族を殺したことと何の関連性があるんだよ」
「レン様は気が付いていたんです……情など皆無、呼吸をするように人を殺める強く美しい自慢の妹が、臣下に──フォードに想いを寄せているということに」
一呼吸置いてシナブルは続ける。
「俺には……姫のその想いは愛情とは少し違うように思えました…………いや、多分俺自身がそう思いたくなかっただけで、二人が想い合っていたことは確かだと思います」
「分からない……その想いは愛情とは違うのか?」
「俺個人の意見ですよ。二人の想い、気持ちは同じだった。しかし実際二人が愛し合うことはありませんでした。相手に気持ちを伝えることもありませんでした」
「どうして──」
「お互い立場というものがありました。一国の姫と臣下ですよ? 結ばれることは許されません」
──叶わない恋。実らない愛。
「殺し屋にそんな感情は不要。姫のそんな感情を認める家族も不要。とりわけ可愛がってきた自分の妹が初めて抱いたその感情を、他の男に注がれるくらいなら──」
「殺してしまえ、と? そういうことか」
シナブルはネスに向かって小さく頷いた。
「王妃様が刺された直後、俺は姫を庇って斬られました。意識は朦朧としていて、その後のことははっきりと覚えていないんです」
シナブルが斬られた後、レンの攻撃対象はフォードという臣下に移った。アンナはフォードを守って戦った──しかし。
「三対一でもレン様に敵わなかった……姫は人を守りながら戦うことに慣れていなかったんです」
ずっと一人で戦ってきたから、全てを壊して生きていたから──彼女は大切な人の守り方が分からなかった。
「姫を守って、フォードは死にました。あれから姫は変わってしまいました。今あの御方は復讐の為だけに生きておられる……俺はそんな姿を見ていてとても辛いのです」
*
ベッドに仰向けの姿勢でネスは目を開く。あの時シナブルは、それ以上は語らなかった。アンナの腕の呪いは、その時かけられたものらしかったが、詳しい経緯については彼も知らなかった。
いつの間にか枕が濡れていた。これはアンナを哀れみ流れた涙か。同情、という言葉は彼女には不似合いだ。きっと彼女もそれを嫌うだろう。
辛い。こんなのおかしいじゃないか。人を想うこと、愛とは何か知らなかった孤高の殺し屋。その彼女が初めて抱いた感情は害となされ、否応なしに消し去られたのだ。
そしてアンナは今も、復讐という柵に自分を縛り付けている。雁字搦めのその体に自らの手で杭まで打って、誰も近寄れないよう棘の中に身を投じている。
「これがシナブルの言っていた束縛された過去、か」
アンナが「兄」という単語を聞いて、あんな顔になるのも無理はない。
(──俺は、アンナの為に何が出来るだろう)
知ってはいけないことを知ってしまった。心の中は後悔で溢れ返っていた。自分にも何か出来るんじゃないかと期待していた。自分自身に期待していた。
彼女の力になりたかった。好かれたかったから。嫌われたくなかったから。いつも笑顔でいて欲しかったから。彼女は全力で俺を守ってくれるのに何も出来ない自分が嫌だった。だから救いたかった。
自分は賢者になるのだ、傍で闇を抱えている女一人くらい救えるだろうと過信していた。
(無様だ、愚かだ──いや、ただの馬鹿だ)
「本当に馬鹿みたいだ……」
(そうか、この涙は自分自身を哀れんだ涙なんだ。俺は滑稽で未熟な、ただの子供なんだ)
*
ネスが目を覚まし、もぞもぞと布団から這い出て外を見ると、太陽は昇りきっていた。
時計を見ると時刻は午前八時。
なんだか全身が怠く重たかった。昨日の稽古の疲れだろうか。それにしては異常だった。気持ちが悪く動きたくなかった。
今日は午前中に買い物を済ませ、午後からシナブルと昨日の続きをする約束をしていたので、ネスは重い体を引きずりながら、のろのろと身支度をした。
体がまた成長していることに気が付く。 昨日着ていた服と同じサイズの物に袖が通らなかったので、アンナが用意してくれていた紙袋から、ワンサイズ大きめの物を取り出して身に付けた。昨日シナブルに殴られた頬に触れてみると、どうやら腫れは無事に引いているようだった。
それから動けなくなった。腹も空いているのに動きたくない。動くくらいならこのまま飢えていたほうがましだと思った。ただ、なにもしたくなかった。
どうしようもなく怠惰。
「……どうしちまったんだ」
よろけながらベッドに倒れ込んだ。それからネスは少し眠った。
目が覚めた時には、きっといつも通りになっているだろうと思っていたが、現状は何も変わっていなかった。時計の針は三十分しか進んでいなかったし、体も気持ちも怠いままだった。
「シナブル……」
ベッドに仰向けのまま小声で呼びかけると、彼はやはり音もなく現れた。
「はい」
と仰向けになったネスの顔を覗き込むと、シナブルは「ネス様?」と首を傾げた。
「ネス様、今朝、鏡をご覧になりましたか?」
「いや」
シナブルはネスに歩み寄り、刀を少しだけ抜いて刃をネスに向けた。
「見えますか?」
「うん……え? あれ?」
──違和感。
「俺の髪……」
うっすら橙ががった茶色だったネスの髪は、茶色よりも、橙色が強みを増していた。母レノアと同じくらい橙色が濃く、まるで別人だ。
「今日は髪の色が変わる日か……この怠さと関係があるのかな」
「どうでしょうね」
シナブルに午後からの稽古を断って、ネスはのろのろと立ち上がった。部屋の入口まで行き、ドアを開けて『ルームサービスお断り』の札を出した。洗面所まで行ったが、鏡で自分の全てを見るのが怖かったので、寝室に引き返した。
ベッドに倒れ込む。目が覚めた時この現状が改善されていますようにと願いながら。
*
夢をみた。女を抱いた夢だった。初めてみる夢だった。顔は──分からない。合ったこともない女かもしれなかったし、知っている女かもしれなかった。サラだったかもしれないし、アンナだったかもしれない。
肉体の生々しい感触が全身を震わせた。夢の中での自分は乱暴だった。欲望のまま空腹を満たすかのようにその人を食らっていた。
いつまでも。いつまでも。
*
最悪の目覚め。全身汗でびっしょりだった。夢の影響だろうか、着衣は乱れシーツは皺だらけだった。
どんな夢をみていたか忘れていなかった。体に感触が残るくらいはっきりとした夢。その手は触れていた女の肌の質感まで記憶していた。それが誰だったのかも分かっていた。
きっと時間が経てば忘れてしまう。夢とはそんなものだ。早く忘れてしまいたい。自分の心に潜む欲望なんてみたくなかった。
しかし願いとは裏腹に夢の中で聞いた彼女の苦しそうな息遣いは、一日中ネスの頭から離れないのであった。
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