第十九話 奮闘する男たち
翌朝。
昨日の怠さが嘘のようだった。馬鹿みたいに全身が軽い。腹も空いていた。丸一日以上何も食べていないので、当然といえば当然だった。
ネスは歩きながら服を脱ぎ、汗を流すためにバスルームへと向かった。
「うおっ……」
洗面所に備え付けられた鏡に映る男。いや、ネス本人なのだが、
しかし──
「誰だ……いや、俺か」
口周り全体が髭に覆われていた。豪奢な洗面台に備え付けてある戸棚を開けると剃刀が入っていたので、生まれて初めて髭を剃った。多分こんな感じで大丈夫だろう。
少し切れたけれど。
髭の下に隠れていた顔。うむ、なかなか整ってきた。これなら子供扱いされることはないだろう、という顔になっていた。
「うおっ……!」
バスルーム内の全身鏡に映る自分の裸体は、どこを見ても立派な成人男性のそれだった。
「おお……」
初めの頃こそ急激に成長する自分の体に恐怖したものだったが、今となってはそんなこと、どうでもよくなっていた。いずれ来る成長期が二晩で完了したというだけのことだ──そんなネスの心はまだ子供のままだったが。
着替えを済ませ、部屋に朝食を運んでもらった。相変わらずどれも美味しかった。食器を片付けに来た女性に礼を言うと、彼女は恥ずかしそうに下を向いて、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
なんだか良い一日になりそうな気がした。鏡に映る成長した自分は想像以上に男前に見えたし、味も量も抜群の朝食も食べた。着ている服の真新しい匂いも、滑らかなその生地の質感も、晴れ渡った空も。全てが完璧だった。フロントの凛とした美人にルームキーを預け、ネスは街へと出掛けた。
一番始めに靴を買った。その後、大きいサイズの服も買った。それから下着も。もちろんアンナのカードで。このカードを使い会計をすると、どの店でも店員は目を丸くした。こんな一般人が使っていいような種のカードではないらしかった。
一通り必要な買い物を済ませ、それを
情報屋を探さなければならなかった。ネスは道の脇に避けて建物の壁にもたれ掛かり、この町の入口でアンナに蹴り飛ばされた門衛に貰った地図を広げた。
暇潰しに何度か地図を眺めていて分かってはいたが、この町は結構広い。今、ネスがいるのは町の中心部。この辺り一帯にはホテルや商店が密集している。東側に住宅街があり、西側には何も書き記されていない。南側には採掘場があるようだった。
「西側は無法地帯か何かかな……」
「そうだ」
独り言に返事があり驚いて顔を上げると、そこにはスキンヘッドにタンクトップ姿の大男が立ち塞がっていた。その周りには同じような体格の男達が五人。
「えーっと」ネスはその男達の顔を順番に見て「どちら様?」と作り笑顔を浮かべた。
スキンヘッド男の隣にいるモヒカン男が、手に持っている紙切れとネスの顔を交互に見た。
「それっぽいけどなあ。なんか違うんだよなあ」
「貸してみろ!」
スキンヘッド男がモヒカン男からその紙切れを取り上げた。
「腰に刀を挿して……青い瞳……オレンジっぽい髪の……背の低いガキ。こいつだろ」
スキンヘッド男は乱暴にそう言うと、ネスに詰め寄った。酒臭い息が鼻を掠めた。
「おい、にーちゃん」
「な、なんですか」
あまりの臭いにネスは顔を背ける。
「ひょっとしてネス・カートスか?」
「え」
嫌な予感しかしなかった。
「特徴は……ばっちりぴったりなんだが『背』が情報と違うんだよなあ」
首を傾げながら隣にいる帽子の男にその紙切れを渡すと、スキンヘッド男はさらにネスに顔を近づけた。
「成長期で背が伸びたか? ガッハッハ!」
周りの男たちも同調して笑った。
まずいことになった。こいつらが探しているのは間違いなく俺だろう。上げられた特徴の全てがこの町に着いた時点での自分に合致している。それに名前まで。しかし何故──
「俺達はそのガキを探してるんだ。えらくイイ値がついてやがる」
帽子の男が言った。
そうか、と今更ながら理解する。アンナが言っていた──他所の刺客に追われる、と。そいつらがばらまいた情報に懸賞金でも付けて、荒くれ者達に自分を探させているのかもしれない。
逃げなくては──後ろは壁、正面には五人の大男。街の中。周りには大勢の一般人。無関係な人達を巻き込むわけにはいかなかった。
「おい、なんとか言えよにーちゃんよぉ」
「……俺ですよ」
「あぁ? 何だって?」
「俺がネス・カートスだ」
はっきりと決意を表明するように断言した。これがまだ村に居た頃の自分だったら、きっと声が震えていただろう。
スキンヘッドの男は、驚いたようにネスを見ると「そうかそうか。よーし、それなら着いて来い」と言い背を向けた。
「大人しく着いて来れば手荒なことはしねえよ」
皆ネスに背を向けて歩き出す。最後に長髪の男が、ネスが着いて来るのを確認して歩き出すと、ネスは「……シナブル、まだ動かないでくれよ」と小声で呟いた。
五人が五人ともネスの正面を歩き出す。壁際に追いやられていた陣形があっという間に崩れた。
(……今だ!)
ネスは隙を突いて街の西側に向かって走り出した。男達から十メートル程離れたところで、ようやくモヒカン男が、ネスが逃げ出したことに気が付く。
「アニキ! あの野郎逃げやがった!」
「何だと! 何で誰も見てなかったんだ!」
男達の怒声が飛んでくる。ネスは人混みをくぐり抜けながら細い路地を目指して走った。五人の男達は、通行人を押し退けながらネスを追いかける。男達が作った道辺り一帯で騒ぎが起こった。転倒した女性の悲鳴が聞こえた。子供の泣き声もする。ネスは背中で謝りながら、路地に飛び込んだ。
「いたぞ! 追え!」
振り返るとモヒカン男の姿が見えた。後ろに他の四人も続いて追ってくる。流石にここで追い付かれたら『手荒なこと』をされて連れていかれるだろう。だからといって危害を加えられる前に、こちらから手を出すのも躊躇われた。
「とりあえず逃げるしかなさそうだ……」
ネスは細い路地を全力で走り出した。
*
二つ目の角を左に曲がった所で、道幅が三倍に広がった。見通しが良くなった分、相手にも見つかる確率が上がったように思えた。
そこはまさに無法地帯。鮮やかな中心街とは正反対に、目の前に広がる風景は殺伐としていた。立ち並ぶ家屋の外壁はくすんでひび割れ剥がれ落ち、とても人が住んでいるようには見えない。
「おはようございます、ネス様」
左を向くとシナブルが並走していた。今日も美しい色の髪をぴっちりとオールバックに整えている。
「おはようシナブル。さっきの、聞こえてた?」
さっきの、というのは小声で発した「まだ動かないでくれよ」のことだった。
「はい、聞こえていました。街の人々を巻き込まない配慮とは……余裕ですね」
「いや、余裕はないんだけどね」
苦笑いでそう答えると、シナブルはネスの顔をじっと見つめた。
「どうかした?」
「……顎、けっこう切れていますね」
「え」
ネスは思わず右手で頬を触った。シナブルは表情を変えず淡々と言い放つ。
「剃刀の使い方くらい教えて差し上げたのに」
「今言うのそれ!」
この人は思っているよりも、味のある人なのかもしれないとネスは思った。
背が高く、色褪せて古ぼけた建物の角を右折すると、背後から野太い叫び声が聞こえてきた。
「いたぞ!」
ネスが振り向くと三十メートル程後方に、モヒカン男の姿が見えた。後ろには見覚えのない男達が五人、それに脇道からスキンヘッドの男が、見覚えのある男達を引き連れて現れ、総勢十人が列を成しこちらに向かって走ってくる姿が見えた。
「……殺します」
腰の刀を抜いて身を
「待て待て待てぃ!」
急に腕を掴まれたせいで、というよりもあれだけの速さで動いたにもかかわらず、ネスに腕を掴まれたということにシナブルは驚いていた。追い付けないだろうという速さで動いたにもかかわらず、だ。
「むやみやたらに殺しちゃ駄目だって!」
自分の腕を掴んだネスは必死な顔をしていた。彼はいつだって必死だ。何事にも一生懸命。
「では、殺さずに止めます」
ネスに掴まれた腕を優しく振りほどき、シナブルは男達の方へと飛び出した。刀は鞘から抜いていない。
「シナブル!」
自分の名が背中に降りかかってきたが、耳に届く頃には既に、追手の全員を華麗な足技で蹴り飛ばしてしまった後だった。
シナブルが振り返ると、呆然と立ち尽くすネスと目が合った。
あまりにも事が一瞬にして終息してしまったので開いた口が塞がらず、ネスは目の前の光景を理解するのに多少の時間を要した。シナブルの動きが速すぎたのだ。なんとか目で追うことは出来たが、しかし人間離れしたあのスピード。と、ここでネスは彼がティリス──エルフと人間のハーフ──であることを思い出す。
当のシナブルはというと、蹴り倒した男達が全員意識を失っているかどうか、慣れた手付きで確認をしている。最後の一人を確認し終えたところで、ネスの方を向いて立ち上がると、頭の上に両手で丸を作り掲げた。何のサインだろうか……。
「死人ゼロです」
(そういうことか……わかりにくいな)
「しかしティリスの動きってすごいな」
「シナブル・グランヴィ、彼は大したものねえ」
独り言に対し返答があり、ネスはぎょっとして振り返った。女性が一人背後に立っていた。
「あなた、いいボディーガードを連れているわね」
顔の上半分を覆い隠す、控えめな装飾の施された仮面を着けているので分かりづらかったが、口角を上げ、仮面の奥の深い緑色の瞳を細めて彼女は微笑んだ。
腰まで伸ばした白みの強い透き通った金髪が風に揺れる。女性にしては背が高く、二晩で二十センチ近く身長の伸びたネスよりもこぶし一つ分ほど高く見える。
「彼を知っているんですか?」
「ええ、有名だもの」
彼女は再び微笑んだ。仮面の下はどんな顔なのだろう、きっと美人だ。そう思わせる魅力が彼女にはあり、ネスは彼女にどんどん引き込まれているのを感じた。
「誰が有名人だ」
そんな二人よりも遥かに背の高いシナブルが、こちらに向かってつかつかと歩み寄ってきた。背の高い二人に前後を挟まれて、ネスは威圧感で押し潰されそうになった。
「あなたのことよ、シナブル・グランヴィ」
彼女の言葉を受けてシナブルの表情に珍しく苛立ちの色が差した。
「何故俺の名を知っている」
「だから、有名人だからよ」
不穏な空気が流れ始めた。ネスは一歩後ずさった。
「有名なはずがあるか。俺は殺し屋というよりも
「その殺し屋から情報が流れているとしたら?」
彼女は得意気に言う。
「シナブル・グランヴィ──二十六歳──既婚者よね──父はファイアランス王国現国王の実弟コラーユ・グランヴィ──あなたはその次男で──幼少より王家に遣えているわよね? 刀の名は──」
「やめろ」
「どうして?」
細い首を小さく捻り、人差し指を立てて顎につけ、考える仕草をとる彼女。
「兄と姉が一人ずつ、それに弟が二人いたわよね? 姉と二人の弟は一族の内紛の時に殺されたみたいだけど」
「貴様!」
シナブルの顔色が変わった。刀の柄に手をかけ抜こうとするも、そこに伸びてきた彼女の手によって遮られる。
「私は情報屋──これくらい知っていて当然」
これが身分証よ、と取り出した一枚のカード。顔写真の部分は握った手で隠れてしまっていたが、そこには彼女の名前と四桁の数字、それに世界政府の紋章もきちんと記されている。
「この数字は情報屋の管理番号ですよね?」
「よく知っているわね、おにいさん」
おにいさん、と呼ばれてそれは自分のことを指す単語だと認識できず、ネスは戸惑った。つい先日までは『お子様』だったのに──
「偽造だと思うのならば、周りにいる他の情報屋に確認してもらっても構わないわよ」
彼女に気を取られ気が付かなかったが、ネスが首を左右に動かすと、建物の壁沿いに薄汚れたコートを着た男や、背の低い老人の姿が確認できた。彼等も皆情報屋なのだろう、無言でこちらの様子を伺っている。
「あなたが情報屋なら、教えて欲しいことがあります」
「ネス様!」
シナブルはひどく驚いていた。当然かもしれない。いくら情報屋だとしても彼女は知りすぎていた。警戒するほどに。
「ネス様、おやめください、この女は危険です」
ネスを庇うようにシナブルは一歩前に出る。その様子を見て彼女はくすくすと笑い出した。
「シナブル・グランヴィ、ひょっとして情報屋は初めて?」
シナブルは一瞬躊躇ったが「……いや」と言った。
「身内にいるが、しかし──」
「しかし、なに?」
見透かしたような、問い詰めるような彼女のこの物言いは何だろう。答えの全てを知っている傍観者のように、網を張り、罠を仕掛け──そこに獲物がかかるのをじっと待っている。
「大丈夫だよシナブル。聞きたいことは一つだけだから」
「ですが、ネス様……」
「大丈夫だって」
根拠のないネスの想いが通じたのか、シナブルはそれ以上何も言わなかった。口を閉じ、いつものように姿を消した。
「ティファラさん」
身分証で確認した彼女の名前を呼んだ。ティファラは嬉しそうに微笑んだ。
「人に名前を呼ばれるのは久しぶり。私は自分の名前が好きなの。愛しい人が一番初めに褒めてくれた私の宝物だから」
そう言うとティファラは、ネスに背を向けて歩き出した。
「場所を移しましょう。私は私の知っている情報を同業者に漏らしたくないの」
*
コツコツと細い脇道に二人分の足音が響く。それ以外何の音もなく、そこだけ切り取られたような無音の空間が広がる。
歩きながらネスは一人考えていた。さっき彼女が言っていたことの全てが正しいのであれば、シナブルはアンナの従兄だということか。笑った時の雰囲気が似ていると感じたのはそのせいか。
「静かですね」
「結界を張っているからね」
当たり前のように言うとティファラは「そうだ」と呟いた。
「今日の私は気分がいいから、無料で夢占いをしてあげようかと思うんだけど、どう?」
「へ?」
突然何を言い出すんだこの人は。ネスが何も言わないでいると彼女は立ち止まり、大きく腕を広げて楽しそうに言った。
「サービスでね、たまにするの。さあさあ、おにいさん、一番最近みた夢はどんな夢?」
「最近みた夢……」
今朝夢でみた頭から離れない『
「どうしたの?」
いやらしく口許を歪め、ティファラはネスの顔を覗きこむ。全てお見通しと言いたげな口許。
「終わりのない階段をかけ上がる夢──だったと思います」
差し障りのない嘘。しかしティファラは容赦しない。広げていた腕をネスの両肩に置き、逃がさないと言わんばかりにその手に力が込められる。
「嘘はよくないわ」
「な──」
小首を傾げる彼女。ネスは後退りするも、その体は彼女によって押さえつけられている。
──動けない。
「あなたのような真っ直ぐな人は、無駄に嘘をつかないほうがいいわ」
「何なんですか、あなたは……」
「さあ、教えて」彼女は答えない。「どんな夢をみたの」
まるで誘導尋問だ。顔を背け無言の抗議をしても、その手に込められる力が一層強くなるばかりで、ティファラの言うところの『夢占い』とは名ばかりの質問に答えない、限り放してもらえないらしい。この状況を突破せずに、知りたい情報を得ることは不可能だろう。
ネスは意を決して言葉を選ぶ。
「女の人を、抱いた夢──」
渇ききった口をゆっくりと開いた。心臓がかなりの速度で脈打っている。
「抱く? 抱きしめる、という意味? それとも……犯す、という意味かしら?」
「……後者です」
「どんな女性だったの?」
「……髪の、美しい人」
「あなたの知っている人?」
「……一緒に旅をしている人」
「そういう願望があったのかしら?」
「……」
「あったのね」
「…………」
「夢精でもしたのかしら?」
「…………」
「ふふふ、素直な子」
ティファラは心底面白そうに声を上げて笑う。
ネスは力一杯目を瞑った──そうだ、あれは、あの夢で自分が組み敷いていたのは、紛れもなくアンナだったのだ。
俺の、アンナに対する想い、感情はそんなものなのか。恋愛感情なんかじゃない、ましてやただの性欲対象でもない。守りたいし、守られたい。それなのにいつも手の届かないところにいる、遠すぎる彼女、眩しすぎる彼女、強すぎる彼女。この距離感が心地いいのに──
それなのに何故この人は──ティファラは、こんなにも自分の心を揺るがすような言葉を突きつけるのだろう。
こいつは何を──何を知っている。知っていて何をしようとしている。
心の隙間に入り込んできて、自分の知らない自分を内面からえぐり出されているようで、気持ちが悪かった。
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