第八話 アマルの森

 息を切らしてネスは走る。待ち合わせ時間に遅れたらどうなるか……想像するだけでも恐ろしかった。



 ──あの漆黒の炎の破壊力。



(あの人は──アンナは一体何者なんだ。あの漆黒の炎は明らかに異質だ)



 ティリス──殺し屋── 破壊者デストロイヤー


 それだけの情報では本当の彼女が見えてこない。



 殺し屋に相応しい冷たい表情の彼女。それとは対照的に、恥ずかしそうな少女のような表情の彼女。



(もっと、もっと彼女を知りたい──)



 ネスは知的好奇心が強すぎた。その上、抑え込む術を身に付けていなかった。これからそれが身につくか否かはまだ不明であった。





 吸い込まれそうなほど暗い、鬱蒼とした森の入口が見えてきた。できるだけ一人で近づきたくはないのだが、入口で待つと言ったはずのアンナの姿が見つからない。


「あれ?」


 ネスがキョロキョロと辺りを見渡すと、木の陰に血色の髪の毛がちらりと見えた。なんだか様子が変だ。近寄ってみるとアンナは座り込み、苦しそうに肩で息をしていた。


「アンナ!」


 駆け寄ってその肩に触れる。先程のサラとは比べ物にならないくらい熱い。アンナの右腕を見ると、それはもう一つの生き物のようだった。先程にも増した速さで刺青は蠢き、肩を通り越して彼女の首や胸にまで達している。 苦しそうに背けた額から汗が零れ、その滴がネスの腕を伝った。


「なんだよこれ……」


 脳裏にという言葉が過った。



『元々彫っていた刺青に呪いを植え付けられた。実兄によって──』



「うぅ……」


 一度だけ苦しそうな声を上げたアンナは、がばっと顔を上げると同時に後腰の刀を引き抜き、その切っ先をネスの喉に突き付けた。エメラルドグリーンの瞳がぎらりと光る。ネスは一瞬息が止まった。


「……なんだ、ネスか」

「なんだじゃねえよ、死ぬとこだ!」

「……ごめん、つい癖で……それにしてもっ……ハァ……早かったわね、まさか……十分もかからずに……到着するなんてね……」


 ネスがよく見ると、常に鋭いアンナの目元はぼうっとしていて、息も絶え絶えだった。しかし彼女はそれを隠すかのように目を閉じ、眉間に皺を寄せた。

 小さく息を吐くと、流れるような動きで刀を鞘に戻し、立ち上がろうとするアンナ。その足取りは見ているこっちが不安になるほどふわふわと覚束ない。腰を起こす前にふらりとバランスを崩し、倒れそうになった彼女の両肩をネスは両手で掴んで支えた。


「おい、大丈夫かよ」


 支えた肩から右腕にかけて見ると、刺青の動きは収まっていた。


「こんなことで……あたしともあろうものが全く、情けないったらないわ……」


 森の奥からひゅうっと冷たい風が吹き抜けた。春先に吹くこの風は、ガミール村の者にとっては慣れたものだったが、ノースリーブのドレス姿、ましてやあんなに汗をかいた後だ。アンナの体はすぐに冷えきってしまうに違いない。


「風が冷たいけど大丈夫か? その……あんなに汗をかいた後だし」

「心配してくれてるわけ?」

「そりゃ……一応。あんなの見た後だし」


 アンナはふん、と鼻を鳴らすとゆっくりとした足取りで森の内部に向かって歩き出した。


「これでもあたしは『 ルース』を操るのよ。あんなことでもない限り、自分の体温とその周りの気温くらい調節出きるわよ」



(……ん? あれ、なんだろうこの違和感……昨日の雨の中でも似たような会話をしたような)



「その、さっきの腕のやつ、一体何なんだよ」

「出た。ネスの質問コーナー」

「なんだよそれ」

「……あの黒い炎を使うと反動で、ああなっちゃうのよ」


 アンナはやれやれと呆れるような素振りで、両手をひらひらとさせている。


「ああなっちゃうのよって……」


 自分の体のことなのに、どうでもいいような軽い口振りだ。


「使わなさすぎると反動が大きくなるし……使いすぎると命が縮まるし。全く不便なものね」

「なら、全く使わなかったらいいだろ」

「馬鹿ね。そうもいかないのよ。どうしても使わなきゃいけないっていうのがあるのよ」


 段々と森が深くなってきた。まだ村からそこまで離れていないのに、大木が生い茂り太陽の光があまり届かないせいか、辺りはひっそりと薄暗い。


「命が縮まろうがどうなろうが、どうでもいいんだけど。別に長く生きようとか思ってないし、 刺青これがある以上、どうせ長くは生きられないし」


「は?」


「今まで犯してきた罪に対する罰よね。あたしはね、殺人における罪っていうのは償えないものだと思うのよ。どんな罪にも罰は必要よ。殺した人間は蘇らないものね」

「何言ってんだよ……」


 ネスの前を行く彼女の顔色を窺うことはできないが、その声の調子からきっと、またあの氷のような表情が張りついているであろうことは想像できた。


「罪は償えない。だから裏切り者は必ず殺す。例えそれが兄であろうとね」




(──ああ、思い出した)




 この人はという言葉を使う時、とても苦しそうな声を出す。それは同時に寂しそうにも聞こえた。この人の前で、実兄の話は禁句なのだ。それを重ねれば重ねるほど、瞳の闇は深くなる。


 いつも冷たく、寂しそうな彼女の瞳。


「あなたは……本当に殺し屋なのか」


 アンナが立ち止まり振り返る。ふっと、かすかに笑ったように見えた。


「そうね。初めて会ったあの時、言った通りよ。あたしは殺し屋。現在この世界において最強の殺し屋一族の娘」

「そっか……」


 なんとなく胸のつかえが取れた気がした。


 ネスの心の隅の方で、この人が殺し屋でなければいいのにという思いが浮遊していた。それが泡のように音もなく消えていく。



(俺は何を期待していたのだろう。自分の命を助けてくれた人が、自分の命をこれから守ってくれるという人が殺し屋だったなんて、腑に落ちないのか? 殺し屋が人を助けるだなんて、矛盾した行動が許せないのか?)



 どちらでもよいことだった。アンナは殺し屋。本人がその事実を認めた以上、心の中でくだらない一人討論会を開いても、それは何も意味を持たない。


「聞きたかったことって、ひょっとしてこのこと? 全く、くだらない」

「くだらないってなんだよ! 人が心配してやってんのに!」

「ふん、大きなお世話よ。大体ね、あんたのその知的好奇心どうにかならないの? 少しは自粛しなさいよ」

「な、なんだと!」


 ネスがアンナに詰め寄ろうとした瞬間。ガサガサと背後の木々が音を立てた。


「伏せろ!」



 ──ヒュ──タンッ────!



 アンナが後腰の刀「 陽炎かけろう」を抜いた。ネスの手前で大きく飛び上がると、彼女は音の方向に向かって刀を振り下ろした。



(早いっ──!)



 早すぎるアンナの動きに、ネスの目はついていくことが出来ない。




 ────ザシュ────ズバンッ!




 肉の切れる嫌な音にネスが振り返ると、そこには見上げるほど大きな体躯のアグリーが眼前に迫っていた。


 伸び放題で丸々太った糸杉のような体に、人の顔がうっすらと浮かび上がっている。頭頂部には、色の濁った大きな目玉が一つ付いていて、皮膚は人のより暗い肌色だ。蛸のような足が無数に生え、その足一つ一つは人のそれと同じ形を成している。


 その体の一部がぼとり、とネスの足元に落下する。


「ゔっ……」


 命を失ったそれは、紫色の血を撒き散らしながら、びちびちと嫌な音をたてて暴れている。一瞬血の気が引いたネスは、口許を押さえて顔を地べたに伏せかけた。


「ぼさっとしないで走りなさい!」


 矢のように飛んできたアンナの声でネスは我に返る。アンナに右腕を捕まれ、力任せに走り出した。


「何で逃げるんだ! 戦わないのかよ!」

「バカ! 周りを見なさいよ!」


 右を向くと先程と同じ種のアグリーが三体。左を向くと視界に入る限り五体、並走している。振り返ると三十メートル程後ろに二十体以上。二人は囲まれながら追いかけられていた。


「ここで ってしまってもいいけど、こんな森の入口でで暴れたりしたら、村にまで被害が及ぶわ。とりあえずこの場を離れて、まとめて一気に殺るわよ」


 こくんと頷き、ネスが後ろを振り返った次の瞬間、後ろにいたアグリー達が揃って目から光線を発射した。物凄い勢いで木々を薙ぎ倒し、それは真っ直ぐこちらに向かって飛んでくる。




 ギュィィィィンワワワワワワワワワヮヮヮヮ────────ッ!!




「うわっ、ビームだ! しかも目から! 格好いいっ!」

「何言ってんのよっ!」


 アンナは、ずさあっ、と急ブレーキをかけ、ネスを後ろにかくまうと左手から紅蓮の炎を生み出した。美しく弧を描いたそれは、鞭のように しならせアグリーの光線を打ち消した。


「ビームじゃなくて『 獄光ヘラ』よ。 神力ミースで打ち消せるんだけど、あたしの場合使った火が森に飛び火して……」

「飛び火して?」

「森林火災が起こる」

「それはまずいだろ!」

「うん、だからあんたの神力で鎮火してくれる?」

「んな無茶な!」

「大丈夫大丈夫。さ、頑張って!」


 言ってアンナは真顔で親指を立てるのであった。


「いや、大丈夫じゃねえよ!」

「大丈夫大丈夫。さあさあ集中集中!」


 アンナは適当な風に、ぱんぱんと手を叩いた。乾いた音に無関心な瞳。ネスに対する期待値はそれほど高くはなさそうであった。


「あんたはこの二日間で何度もあたしに触れている。だから発動できるはずよ」

「そんなこと言われても」

「大丈夫だから、早く集中しなさい」 


 ネスは不満げに目を瞑り、意識を一点に集中した。







 ふわふわと体の中に漂っている力を探っていくと、ネスの意識は大きな水槽に辿り着いた。水槽の中に沈殿した泥──その水槽に石を落とす。石の重みで泥がぶわりと浮かび上がり、それを掬いとる──!




『────ネス!』



(なんだ──)



 深い深い意識の底で、誰かがネスの名を呼ぶ。



(誰だ──?)







「────うおおおおおおっ!」



 ネスが目を開くと、目の前に背の高い水柱が五つ立っていた。ぐるぐると渦を巻き、触れたものを切り裂いてしまいそうな勢いだ。



(なんだろう、この感覚。自分の意のままに操れそうだ)



「いけっ!」


 その水柱一つ一つが意思を持ったように動き出す。二つの柱は森の炎を鎮火し、残り三つは直進してアグリーを攻撃する。


「想像以上だわ……」


 呟いたアンナの額に一筋の汗が伝う。体温調節の出来る彼女が汗を流すということは普通では有り得ないことであった。精神的に不安定で、体温調節が疎かになっているか、あるいは漆黒の炎を多用した時、彼女は汗を流す。今回は圧倒的に後者なのであった。


 ネスの見ていない所で呼吸を整える。



(迂闊だった……この程度のことで、こんなにもダメージを受けるなんて。若い頃はもう少し無理が利いたのに……あたしの最盛期はきっと二十年前なのね)



 振り返ったネスが手を上げて何か叫んでいる。



(全く、こいつは……本当にシムノンそっくりだ。一挙一動イライラする所が多いくせに、あたしを遥かに凌ぐ可能性を秘めているような、そんな目)



「走るわよ!」



(大丈夫、まだ動ける。 戦姫いくさひめと呼ばれたあたしが、こんなことでへばるわけがないわ。動ける、じゃない。確固たる意思を持って動くんだ)





 二人は道なき道をただひたすら走る。


 ネスはアンナの後ろを走っている間、彼女が時折右手をぐっと押さえる姿が気掛かりだったが、敢えて何声を掛けなかった。下手に心配をすると、意地を張って無理をするタイプであろうことは、今までの行動から推測できた。


 不思議と息は上がらなかった。



(普段から鍛えているつもりだっけど、こんなにも体力がついているなんて)



 仮にアンナが走れなくなっても、おぶって走るくらいのことは出来そうだった。


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