第九話 面影
二十分近く走っただろうか、森の中腹に開けた広場が見えてきた。そこだけ鬱蒼とした闇から解放され、日の光がさんさんと射し込んでいる。
広場の中央でアンナが足を止める。その広場全体を、数えきれないほどのアグリーが取り囲んでいる。
「
ネスの心配を知ってか知らずか、アンナは殺る気満々に見える。彼女は腰の刀「
「ネス、あまりあたしから離れないで、守りきれなくなる。刀に頼りすぎるのも駄目。不慣れな分、無駄に消耗しかねないから、練習がてら
「お、おう!」
「あの種の弱点は目よ」
「おう!」
「緊張してるの?」
「してないし!」
(この数のアグリーをたった二人で倒しきれるのか――?)
そんなネスの心配をよそに、ぐん――っと、アンナは飛ぶように駆け出した――
右足を大きく前方にぐっ、と踏み込むと同時に体の左下から刀を振り上げる――――!
「――ふん、汚い血ね」
胴のあたりで斜めに分断されたアグリーの巨体から、紫色の血液がびちゃびちゃと溢れ出す。
アンナは分断したアグリーを左手に躱し、今度は後方に踏み込んだ右足を軸にし――――
「――――っ!」
左足を前に踏み込みながら、飛び出してきたアグリーの目玉を突き刺し、抉り取る――!
――――キィィィギャァァァァァアアアッッ
目玉を抉り取られた猛烈な痛みに、アグリーは耳に障る声で叫ぶ。
「あら、口なんてあったの? 気が付かなかったわ」
言いながら姿勢を低くし、先程よりも速い速度で迫り来るアグリーを斬りつけるアンナ。
――ギャァァァァァァアアッス
「ほんっと、うるさいわね」
三体のアグリーが同時に叫びながらアンナの進路に立ち塞がる。一体目の口を横凪ぎに切り裂き、流れるように腕を動かし縦に真っ二つに両断する。
「はいはい」
左足を軸にぐるんと回転し、そのまま右下から刀を振り上げると、またしてもアグリーは真っ二つになった。
「くどい」
そして振り返らぬままアンナは言うと、背中から
「すごい……」
次々にアグリーを斬り倒していくアンナ。その身のこなしは流れるように美しく、それでいてどことなく力強く見事なものだった。
ものの数十秒しか経っていないにもら関わらず、彼女の通過した所には次々とアグリーの亡骸が列を成す。
アグリー一体を倒すのに、二秒もかかっていないようだ。いつの間にかあの大量にいたアグリーの三分の一は動かぬ肉塊となっていた。
(あれ、これ俺必要なくないか?)
ネスが呆然と立ち尽くしていると、振り返ったアンナと視線がぶつかった。なんとなく不機嫌そうな顔の彼女。
「ちょっとあんたやる気あるの! ないならその辺に座ってなさいっ」
「いや! ないわけじゃないけどっ!」
「けどなにっ!」
「俺必要あるかっ?」
「はあ?」
アンナは数十メートルの距離を、つかつかと走り寄ってくる。そしてネスの前まで来ると、ちょこんと地面に座った。
「そんなこと言うんならあんた一人でやりなさい」
三角座りをする姿が、なんとなく色っぽい。
相変わらず不機嫌な表情だが、ドレスのスリットから覗く張りのある太腿。それに押し当てられる柔らかな胸。細身ながらも筋肉質な二の腕。ちらりと見える脇――。
「顔がいやらしいわ」
軽蔑された。
「すいませんね! そーゆー年頃なんだよ!」
「変態」
(ひでぇ……)
「うるさいわ!」
「それよりほら、アグリー来てるわよ」
表情を変えずそのままの姿勢で、アンナはすっと前方を指差した。正面から十体近く迫ってきていた。
「おおおおお! これはまずい!」
――その距離、約五十メートル。
「ほら、集中してさっさと
「そう簡単に言うけどな、けっこう難しいぞこれ」
「とりあえず頑張って」
と、またしてもアンナは親指を立てるのであった。
(とにかく集中しないと――)
ネスがふっと体の力を抜いた次の瞬間、先程とは比べ物にならない数の水柱が、二人の周りを取り囲んだ。
(――――ネス)
(まただ。また、誰かが俺を呼んでいる)
(ネス――――!)
(――――!)
水柱が今度はネスの意のままに動く。念じた方向に向かって、その矛先を向けることが出来る――まるで自分の手の延長――体の一部のようだ。
うねり出した水柱は次から次へと的確にアグリーの目玉を貫き、数分もしないうちに広場一帯全てのアグリーの動きを止めた。
刀は一切使わなかった。水柱に貫かれたアグリーの亡骸が無造作に積み重なっている光景は、あまり凝視したくないものであったが、ネスは目を背けられずにいた。
自分がやったのだ。
息は上がり、顔を上げることが出来ない。刀を握る右手は小刻みに震え、背中は汗だくだった。足元に広がった水溜まりに映った自分の顔が、見たこともない表情を作っている。
俺の
気持ちが悪かった。一人になりたかった。誰にも見られたくない自分の精神が、
自分の中の絶大な力に飲み込まれてゆく。自分が分からなくなる。
(――――ふふ)
(――誰なんだ。一体、君は誰なんだ)
「ネス! しっかりしなさい!」
ばん、と背中を叩かれたようだ。全身を走る痛みのおかげでネスは現実に引き戻される。はっと、後ろを振り返ると、そこにはアンナの姿があった。
「
「あぁ……」
「ちょっとあんた大丈夫?」
「大丈夫」
平然を保とうと――どうにかして気を紛らわそうと深呼吸をして、ネスは頭から水を被った。大きく息を吐き出すと、少しだけすっきりしたのか、表情は先程よりも晴れやかだった。
「……本当に大丈夫?」
ネスがいきなり頭から水を被ったせいか、アンナは気が動転しているようだった。
「うん、大丈夫…………あれ?」
よく見るとアンナは服を着替えていた。胸元を覆い隠す形の黒いホルターネックのミニドレス。
(た、谷間が見えないだと……!)
「あんたの考えが手に取るようにわかるわ、変態」
「軽蔑に慣れてきた自分が嫌になるよ……。しかし、いつの間に着替えたんだ?」
「あんたが暴れてくれたおかげで、いい水浴びができたわよ。汗をかいていたからちょうどよかったわ」
思いっきり嫌みを含んだような言い方だった。
汗をかいていたのは事実だろうが、座っている所にいきなり頭から水をかけられて、いい気持ちになる人は少ないだろう。
「汗が流れたついでに、着替えてみたの。あたしにかかれば濡れた体なんて一瞬で乾くわ」
「なんか偉そうに聞こえるけど、こんな森のど真ん中で服脱いだのかよ!」
そっちの方が変態じゃないか、と口から出かかったが、どうにかそれを飲み込むネス。村を出発したばかりだというのに、殺されるのはごめんだった。
「だって誰もいないし」
「そーゆー問題じゃないだろ」
「いつもの調子に戻ったみたいね」
「お陰様でっ」
いつの間にか気持ち悪さが消えていた。アンナのお陰であることに間違いはなかった。彼女は乱暴だが、ネスを正しいところに引き戻してくれた。
肉体的にも精神的にも、この先ずっとこの人に助けられて旅をするのだろう。ネスは今まで極力、人に頼らずに生きてきた。人に助けられるということが、こんなにも心地の良いことだったなんて。
歩き出したアンナの背中に黙ってついて行く。
これが依存だということに、ネスはまだ気が付いていない。
*
「この森を抜けるとブルジョン街道に出るわ。そこまで行けば
「この森を出るには、あとどのくらい?」
刀を振るっている手を休めてネスが聞くと、すかさず「休むな」と鋭い声が飛んでくる。基本的に刀の扱いがなってないということで、アンナから言われて行っている訓練の一つだ。
「半日かしらね」
刀の切っ先が当たらないギリギリの距離を並走しながら、アンナは
「ところで……言いにくいんだけど」
「なによ」
「遊道線って
「ええ」
「俺、持ってないわ」
「はああ?」
ガキン、と陽炎が思い切り振り下ろされる。ネスは受けきれず後方に飛び退いた。
「殺す気か!」
「これだから田舎者は……」
アンナはやれやれと言わんばかりに、くびれた腰に手をあてた。
「あたし、一応予備は持ってるけど……あんたにこれが使いこなせるかしらね」
そう言ってアンナは、
両方とも一般的な形の物とは少し形状が違っていて、円盤部分が大振りで薄い。
「両方とも戦闘用の
「戦闘用?」
「ええ、一般的に
「飛ぶって空中を?」
「百聞は一見に如かずね。見ていて」
アンナは
「まあこんなかんじね」
ふわりと空中に体を浮かせたまま、アンナは森の中を自在に動き回る。大木に向かってその足を振り上げると、
「あんたも使ってみなさい」
無造作に投げ出された
「うおおい! 危ないだろうが!」
「馬鹿ね。
「それを早く言ってくれよ」
ネスは拾い上げた
を纏った。
「そうそう。そんな感じでいいわ」
ネスの体がふわりと空中に持ち上がる。
「お! 浮いた浮いた! っぶ!」
ふわりと持ち上がって、そのまま前のめりに倒れこんだ。派手に顔を打ち付けたせいで、額から血が流れた。
「もう一度だ!」
即座に起き上がり、
「っぶ!」
そしてまたしても地面に倒れこんだ。
「……何やってんのよ。
「そうなのか」
「
「えー。
「時間の無駄よ」
そう言うとアンナは、腰のポーチからハンカチを取り出した。手を伸ばし、ネスの額の血を拭おうとした次の瞬間、彼女は眉間に皺を寄せると大きく後ろを振り返った。
「どうしたんだよ?」
ネスの声かけにも応じず、アンナは弓を引く体勢をとる。構えが完了する数秒の間に、その腕を伝って紅蓮の炎の弓と矢が具現化された。彼女はやや上方に狙いを定めると、つがえた矢から手を離した。それと同時に、彼女の手の中で真っ白なハンカチが燃え尽きる。
放たれた矢は、轟音を立てながら、とても目には追えない速度で森を切り裂いていった。
矢の通った道の木々の枝葉は燃え尽きていたが、あまりにも高速で矢が通過したせいか、その風圧によって火は広がらなかった。
「急に驚かすなよっ!」
「ニキロくらい先かしら、何かいるわね」
アンナの手の中で、音も立てずに弓が消失した。
「視線を感じたわ。後をつけられている視線じゃなくて、先回りして見張られてもいるみたいね」
「え」
「それと、あたしの着替えが覗かれない距離で、途中からずっとつけられてもいるわよ。全く下手な尾行ね」
「追手か」
「多分ね……全部で三人かしら、そのうち戦闘になるかもしれないわね」
アンナはどうでもよさそうに言葉を並べると、
「あ、ありがとう……」
なんだか照れくさかった。親子のようなやりとりに、ネスは赤面し、
「ん」
何故だろう。にこりともしないアンナの顔が、一瞬だけ母の柔らかな笑みと重なった。氷のように冷たい表情を張り付けているこの人が、母のように柔らかく微笑んだなら、どんなに美しいだろう。
怒った顔――恥ずかしがる顔――そして、この冷たい顔。それ以外の表情をこの人は持ち合わせていないのだろうか。
アンナの手の中でハンカチが燃え去る。
ネスの額の傷は浅かったのか、既に血は止まっていた。
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