第六十九話 【地獄の月曜日④】

「ここは……まさか」


 黒部さんによって後部座席のドアが開かれる。先に降りた夏牙さんに手を引かれわたしが降り立ったのは、綺羅びやかな照明に照らされたホテルの玄関だった。


「当ホテルにようこそ、お嬢様」


 顔を上げると眼前にはガラス張りの広い玄関ホール。白と基調とした壁面には、「Hotel Tateishi」の金文字。自動ドアの先には赤々とした絨毯が広がっている。


「……何の為にこんな所に」

「勿論、君と食事……というか、お喋りをするためにさ。可愛い弟の婚約者がどんな子か、兄として知っておきたいんだよね」


 ドアマンが深々と頭を下げる横を、夏牙さんに無理矢理手を引かれ通りすぎる。振り返ると後ろに黒部さんの姿はなかった。どうやら車を止めに向かったようだ。


「副支配人、お疲れ様です」


 落ち着いた雰囲気の玄関ホールを進めば、ホテルの従業員と思しき女性に声をかけられる。三十代前半位の、きりっとした長身の女性だ。


「お疲れ様」


 夏牙さんがそう言って挨拶を返せば、三人のフロント嬢が揃って頭を下げる。導かれるまま進めば進むほど、背後からの視線が痛い。副支配人である彼が手を引くわたしは一体何者なのかという、刺さるような視線だ。


 どう見てもわたしには場違いな気がする。結婚式場に付随するホテルなのだ──格調高い雰囲気に飲み込まれてしまいそうになる。




 程なくしてレストランの入口へと到着した。中を見渡せば、席は七割程度埋まっているように見える。とにかく広い──これまた格調高いレストランだ。


「副支配人! お疲れ様です」

「お疲れ様。食事をしたいんだが、いいかな」

「は……はい、すぐにお席をご用意致します」

「個室は止してくれ、店内全体が見える席があるのならそこで」


 案内係の男性が、首を振って店内を見渡す。ものの数秒後に通されたのは、レストランの一番奥──背を壁に、側面を窓に挟まれた角席だった。


 またしても夏牙さんに手を引かれ席に座れば、従業員たちの刺さるような視線に身が縮まってしまう。彼のこの、自然に手を掴み引き寄せる技術は、一体どういう仕組みなのだろう?気が付いたときには優しく手を握られ、抜け出すことが出来ぬようがっちりと固定されて引っ張られてしまうのだ。


「ごめんね、僕達が個室を使うより、やはりお客様に使って頂かないといけないから」

「いいえ、大丈夫です」


 ふと視線を投げれば、この席からでもその個室とやらが目に入る。個室も壁の一部がガラス張りなので、わたしたちの席からだと角の個室──若い男女が並んで食事をしている姿がよく見えた。


「本当に大丈夫?」


 下から覗き込むようにわたしの顔を見つめる夏牙さんは、にやりと口の端を引き上げる。早足で寄ってきたウエイトレスに何やら頼むと、直ぐに突き出しと一緒にワイングラスが二人分、それにワインボトル運ばれてきた。


「あの、お酒は……」

「少しだけ飲んでごらん? とても緊張しているみたいだから。さ、リラックスして」

「でも……」

「ひょっとして、飲めない?」

「いえ、そういうわけでは……」


 わたしは柊悟さんとある約束をしていた。「わたしが飲みすぎたとき止めてくれる人のいない席では、お酒を飲まないこと」。外で飲み過ぎて脱ぎ癖が出ると大変なことになるので、約束して欲しい、と彼に懇願されて結んだ約束だった。

 しかしこの状況。どう足掻いても飲まないという選択はさせてもらえそうにもない夏牙さんの視線──纏う空気。



(ごめんなさい柊悟さん、少しだけ──だから)



 グラスを持ち、注がれたワインに少しだけ口をつければ、嬉しそうに顔を綻ばせる夏牙さん。


「美味しいでしょう? どんどん飲んでね」


 促されるままもう一口口に含むと、飲んだ分だけワインを注がれる。お礼を言って飲む手を止めると、「どうしたの?」と挑発するような視線。



(これは……まずいかも……)



 ワインの度数が思っていたよりも高い。夏牙さんは平気な顔をして飲んでいるが、きっと彼はお酒に強いのだろう。最近飲酒量を減らしていた上に空きっ腹のわたしには、このお酒はなかなかきついものがあった。


「それで、柊悟とはどこまでいってるのかな?」

「は……はい?」


 海老とアボカドの前菜が運ばれてきた所で、鋭い先制攻撃が飛んできた。手元がびくりと跳ね上がり、筒状に盛られていたアボカドが皿の上で崩れ落ちる。


「な、何が……」

「君は柊悟と婚約してるって聞いたよ? 一緒に住んでいるんだし、やることはやってるんでしょ?」

「それ……は……」


 居たたまれなくなりワインを口に含む。してやったり、という顔の彼は「肯定と捉えるよ」と言ってフォークで海老を突き刺した。


「ほたるさんはさ、柊悟のこと『柊悟さん』って呼んでるの?」

「はい、そうです」

「本当に? 嘘をつかなくてもいいんだよ?」

「本当です」


 柊悟さんはあの日からわたしのことを「ほたる」と呼んでくれるけれど、わたしは彼のことを未だに「柊悟さん」と呼ぶ。それが一番しっくりくるし、彼もそれで良いと言ってくれるのだから何も不便なことなどなかった。


「でも、ベッドの上では違うんだろう?」

「なっ…………な、なにを!」

「ハハッ! 君は本当に面白い子だね」


 顔が熱い。会話の流れのせいなのか、お酒のせいなのか、わからないが──気が付いた時にはワイングラスは空になっており、すかさずワインが並々と注がれた。



(何なの……この人)



 ──恐ろしい。



 一体何を考えて──いや、企んでいるのか。わたしという人間が柊悟さんに相応しいかどうか選定しているつもりなのだろう。お酒を飲ませて饒舌になったところで本性を見抜く──そういう作戦なのかもしれない。


 こんな会話を誰かに聞かれたら──と不安にもなったが、幸いわたしたちの席の周りに他のお客は座っていなかった。他人の耳に入りでもしたら──と考えただけで頭痛がする。


「柊悟は優しい? 乱暴な男じゃない? もし乱暴で困ってるなら俺から言ってあげるよ?」

「──優しい人です、柊悟さんは……とても優しいです」

「へぇ……」

「思いやりがあって、自分のことよりもいつも、わたしなんかを優先してくれます」

「いいね、とても愛されてるんだね……君は」

「……そうですかね」


 いつだって彼はわたしのことを思いやってくれる。自分だって疲れているだろうに、自分よりもわたしを優先する。



(愛されてる──か……)



 口直しのソルベを食べ終え一息つく。顔を上げると向かいに座る夏牙さんに、じぃっと見つめられていた。


「どうかしました?」

「柊悟が優しいっていうのが不思議でね。あいつ、今日君の作った弁当を食べた俺を怒鳴ったんだよ」

「……想像出来ませんね」


 いつも穏やかな柊悟さんが怒鳴る姿なんて、一年一緒に生活をしてきて見たことがなかった。些細なことで揉めることはあったけれど、怒鳴るだなんて──。


「あいつはきっと君にまだ本性を見せていないんだよ。意外と荒々しい奴だよ」

「荒々しい…………ですか」

「ふぅん、夜は荒々しいんだ?」

「……そういう話は……やめて下さい」


 食事の手を止め、わたしは真っ直ぐに夏牙さんを見つめた。少しだけ驚いたような彼の表情は直ぐに崩れ、挑発するような鋭いものへと変化した。


「いいのかな、そんなこと言って」

「…………」

「君、俺に逆らったらどうなるかわかってる? 俺に何を言われても、何をされても、君は抵抗することは許されないんだよ、ほたるちゃん」


 冷たい笑みに身が震えた。顎で合図をされ、わたしは促されるままワイングラスに口をつける。頭が──ふわふわする。まずい、酔いが回り始めた。



(このまま……じゃ……わたし……)



「まあ、君が柊悟に相応しくない子だって、父と母に話してもいいのであれば話は別だけれど。そうなったら君は柊悟はと引き離されるよ、間違いなくね。嫌だろう?困るだろう?」

「…………」

「困るだろう? ……困るよね?その顔は困ってるよね?困ってる顔も本当に可愛いね、あいつが惚れるのも無理はない。奪ってしまいたくなる」

「…………」

「黙ることないじゃないか。別に俺は君を脅しているわけじゃないんだから。さ、もっと飲んで?」


 小首を傾げてワインボトルを手にする夏牙さん。自分のグラスを飲み干し注ぐと、わたしに向けてボトルを差し出した。


「すみません……わたし、これ以上はもう……」

「いいよ、酔っても。介抱してあげるから」

「それは……困ります」

「何?ひょっとして厭らしいこと考えてる?まあ……正解だけど」


 運ばれてきた肉料理に無理矢理手をつける。チラリと顔を上げると、彼はまだワインボトルを手にしたままだった。


「そんなことを言われて、飲めるわけがないじゃないですか」

「逆らうの?」

「……それは」


 仮にこのまま酔い潰れたとして、わたしはそのまま夏牙さんに介抱されるのだろう。そうなるとやはりまずい。柊悟さんの兄の前で脱ぎ癖を発揮するわけにはいかなかった。

 おまけに彼は「自分が何をしても抵抗するな」とわたしに脅しをかけている。状況が危険すぎる──。



(……助けて、柊悟さん)



 心の中で彼を呼んでも、漫画の中のヒーローのように、愛しい彼が助けに来てくれるわけではないのだ。



(一人なんだから……わたしは今一人なんだか、自分でどうにかしないと)



 酒の回り始めた頭で懸命に考えてる。どうにかしてこの場を切り抜ける方法はないものか。



(一体どうしたら……)






「あれ、副支配人……? お疲れ様です」


 唐突に声を掛けられ顔を上げると、一人の男性、それに見覚えのない三人の女性がわたしの顔を見て、驚き目を丸くしていた。


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