第3話 限界

 紙一重で逸らした上体をかすめるようにして剣閃が踊った。逃げ損ねた髪の毛が数本巻き添えを喰らってはらはらと目の前を落ちていく。その瞬間にも鋭い踏み込みからの突き、その次の瞬間には駒の様に軸足を基準に回転しながらの回し蹴り。多種多様な武道から繰り出される殴打、刺突、斬撃、射撃。目まぐるしく変わるその戦闘スタイルに合わせて辛うじて凌ぎ続けてはいるが、体力も戦神の方ももはや限界が見えている。一時間そこら走り回ったところで尽きるような体力ではないが、そのアキトをもってしても冗談抜きで死を運ぼうとするその攻撃に耐え続けるのは困難であった。

 頭がギシギシと痛む。今血圧を計測したらとんでもない数値が出るに違いない。

「はっ、ははっ、アキトっ、すごいよ!」

「…っ、!はっ、あ、っ…」

 体力の限界が近づいてきたのか、手足が冷たくなっていくかのような感覚がする。つま先から青ざめていくような嫌悪感が伝わっていく。あと数分もすればそこに俺は吐瀉物を吐き捨てるだろう。視界が朦朧とする。胸がむかむかする。吐き気以外のことを考えらなくなりそうだが、それでもなお避け続ける。

 相手の足取り、視線、腕の筋肉の力の入れ方、呼吸。様々な要素を計算しながら回避運動を重ねていく。それでも避けるのが限界だった。まかり間違っても何か反撃に出るなんて器用な真似をする余裕など、どこにも介在する余地はない。動体視力のテストと言わんばかりの攻撃に疲弊が連なるのは致し方ないことだった。

 本来人間は攻撃をし続けることができない。攻め疲れというものがあるからだ。どんなに屈強な男でも、回避し続ける相手に延々と武器を振るい続けることはできない。

 だがこいつはどうだ、微塵も疲れた様子もなく、それどころかエンジンが暖まっていくかのように加速していく。

「あはっ、いいよアキトっ!もっと、もっとちょうだい!」

「ちょっ、たんま。死ぬ」

 俺の右上から迫る短刀が、俺の声を聴いて止まった。すべてが必殺の威力を秘めており、一歩間違えば死んでしまってもおかしくないような攻撃だったが、俺の声が届いたようで安堵する。

 直後、鬼気迫る表情で様々な武道や武器を使いこなしていた少女の様子が一転、落ち着きはらった面持ちへと変貌を遂げた。少女は汗一つかいていない。それどころか衣服に僅かな乱れも無い。

(あれで全力じゃないのか…完全に化け物じゃないか。底なしの体力、冷静な判断能力に相手を追い詰める技術。運動神経だけじゃなく、頭もいいぞこいつ…。)

 そこまで分析して、俺は立っていられなくなってその場に崩れ落ちる。足腰がむちゃくちゃに痛い。無理な動かし方を何度もしたせいか、もう役目を果たすことを拒否し始めている。致し方ない。俺もこのようなハードワークをさせられたらストライキする。誰だってそうする。俺だってそうする。足元には滂沱のように零れ落ちた汗があった。急速に体温が冷えていくことが嫌でも分かる。全身が今すぐ休めと警鐘を鳴らし続けている。

 だめだ。視界が明滅する。どくん、どくんと血液が急ピッチで運ばれていくのが蟀谷こめかみを通して伝わってくる。気持ち悪い。喉の奥が開くような感覚がする。

「…っ!アキトっ、ごめっ、こっちきて!」

 流石の少女もこの俺の状況には肝を冷やしたらしい。慌てたような表情で俺の汗で汚れるのも厭わずに体を支えてくれる。ほとんど引っ張られるような形で俺は外に出て、洗面所のような場所に連れてこられる。石のようなものを素材として作られたそれは、多目的トイレにあるようなオストメイト用の流しのようなものだろうか。

 何の用途で用意されているものか知らないが、それ以上を考える余裕は俺には無かった。堪えきれなくなった吐き気で胃の内容物が押し出される。いとも簡単に喉の奥から酸っぱい味が口の中に広がり、肌が粟だつ。気持ち悪いのに止められないその感覚が大嫌いだ。しがみつくように壁に押し付けている手は情けなく震え、もがくように拳を弱弱しく形作る。その際に爪が引っかかって黒板をひっかいたような音を立てたが、いまさらその程度の気持ち悪さは気にはならなかった。

 口腔の奥から吐き出された半液体状の物質の匂いで新たに吐き気が呼び起こされる。

 だがそんな状況でも傍らの少女は優しく背中をさすってくれていた。正直親しい人間でもこの状況は距離を置きたくなるかもしれない。なのに少女は今日初めて会った俺のためにここまでしてくれている。この状況を引き起こしたのが自分だと分かっていての罪悪感から来る行動なのかもしれないが、それでも優しくさすってくれる掌が柔らかく温かいのはもはや疑いようもない事実。その優しさが未知の土地にいきなり放り込まれ、不安の極致に陥っていた俺にとっては何よりもうれしかった。

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