part.2-1 こうして私は異世界に……

 これは、佐伯 翔太が転移する約1ヶ月前の話。

「栞―、朝ご飯出来たから翔太呼んで来なさい」

 栞の母「佐伯 秋恵」は栞にそう言った。

「はーい」

 栞は気だるげにそう言った。「ふわぁ……」と大きなあくびをかましながら階段を上る。

「兄さぁん、もうご飯出来てるってよ?」

 栞は言いながら兄『佐伯 翔太』のドアを叩くが中から返事は無い。ぶつぶつと繰り言をこぼしながら栞はゆっくりとドアを開くと、翔太が「んー……」と呻きながら寝返りを打っていた。思わず栞の表情も緩む。

「兄さん起きて、土日はもう終わったよ?」

 翔太が寝ている布団を揺すりながら栞はそう言った。

「祝日は?」

「無い」

 兄の戯れ言に栞はきっぱりとそう言った。

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 と、長いため息を吐きながら翔太はゆっくりと身体を起こし、

「おはよう」

 細い目をしたまま棒読みで翔太はそう言った。

「おはよう、早く行くよ?」

「ぉぉぉぉぉぉちょっと待てよ……」

 翔太の声を無視して栞は翔太の手を引っ張ってリビングまで連れて行った。


◉ ◉ ◉


 朝ご飯を済ますと学校への支度をして学校へと向かう。基本は兄である翔太と一緒に登校している。

「……」

 栞は自分の携帯を取るとその手を強く握りしめた。画面電源を付けると大量のメッセージ通知が入っていたが、詳しく確認することは無かった。

(また井上さんか……)

 メッセージの差出人だけ確認するが、メッセージの概要がどうしても目に入ってしまう。中身は『返事しろ!』『クズ!』『死ね!』等の稚拙な文章だったが、栞を傷つけるには十分だった。そう、栞は今、虐めを受けている。

「学校、行きたくない……」

 栞はそう呟きながらそっと携帯を鞄にしまった。この程度はどうということはないが、これから学校でメッセージの差出人と直接会わなければならないと考えると反吐が出る。栞の目は自然と充血し、涙が滲んでいた。

(いけない、こんな所兄さんには見せられない……)

 栞は急いで涙を拭うと、部屋にある姿見の前に立ち、笑顔を作った。笑顔で細めた目は充血部分を上手く隠している。

「栞〜、そろそろ行くぞ〜?」

 部屋の外から翔太の腑抜けた声が聞こえてきた。「今行くよー!」と、栞は姿見の前に立ったまま、そう叫んだ。


◉ ◉ ◉


「お?やっと来た!」

 栞の姿を見るや翔太がそう言った。なんだかんだいつも翔太は栞が来るのを待っている。

「お待たせ、兄さん」

 栞がそう言うと、翔太と共に歩き始めた。翔太は「ふわぁ……」と、大きなあくびをしながら栞から付かず離れずの距離を保って歩いている。

「はあ、平日が1日、平日が2日……」

「兄さん、五月蠅い」

 兄の戯れ言に栞はそう返した。

「……っと、そう言えば最近お前元気無いよな?」

「え、そう見える?」

 翔太の言葉に栞は僅かにたじろぎながらそう答えた。

「……あーあ、やっぱお前も学校という名の牢獄の辛さが分かってきたかぁ……」

「……何言ってるの?」

 そのまま翔太は戯れ言を続ける。栞は少しだけほっとしながら兄の顔を見ていた。


◉ ◉ ◉


「……」

 翔太と別れて学校に着いた栞は翔太と並んで居るときよりも俯いていた。どうしても足が動かない。恐怖と虚無感で押しつぶされそうな勢いだった。

(……ダメだ、行かないと!)

 栞は決意を固めて彼女が通う学校へと足を運んだのだった。


◉ ◉ ◉


 その日の昼休み、

「何これ?チョーウケるんですけどwww」

 学校の屋上で栞の周りに取り巻きが出来ている。中でも目立っているのが「井上 紗耶香」栞のクラスメートで、現在の状況通り、この取り巻きのリーダー的存在である。

「ねえ、これ『リスカ』っていうの?マジウケる」

 紗耶香は言いながら栞の左腕の袖を強引にまくる。左腕には栞が過去に行ったリストカットの跡がまだ残っている。

「ねえ、リスカってどうやってやるの?今ちょっとやってみてよw」

 紗耶香は栞に持っていたカッターナイフを手渡した。後ろの取り巻きは先程からスマホを手に持って栞の姿を撮影し続けている。栞は無言のまま渡されたカッターナイフを受け取り、

「これでいいの?」

 と、ナイフの刃を手首に押し当てた。冷たい金属の感覚が血と混ざり、それは痛みとなって肌に赤い線を引いていく。

「え、うっそ!こいつ本当にやってるんだけどww」

 紗耶香はそれを愉快そうに笑いながら自分の持つスマホにその映像を収めていた。


◉ ◉ ◉


 昼休みが終わり、紗耶香は栞を解放したものの陰湿な虐めは終わらない。教室に戻り、自分の席に着くと、

『死ねよブス!!』

『キモい』

『リスカオタク!』

 と、殴り書きで書かれていた。罵倒する言葉は非常に幼稚だがこの学年になって半年以上ずっと同じことをされている。

「……」

 栞は無表情で文字を消した。文字自体は水性のマジックで書かれているらしく案外簡単に消すことが出来る。恐らく授業が始まり、担当する教師が来る前に消させるために敢えてこうしているのだろう。その文字を書いた人の思惑通りに教師が来る前に文字を消すことが出来た。

(もう……いや……)

 心にそう思っても決して涙は見せない。何故なら誰かが常に栞を見ているから。彼らのおもちゃ探しが終わることは無いのだ。


◉ ◉ ◉


「先生、授業で分からない所があるんです」

「お、そうか。じゃあ職員室で話を聞くよ」

 授業が終わり、下校時間になると栞は担任の教師にそう言った。実は分からなかったところは特に無かったのだが、こう言っておけばいじめっ子達は栞の後をつけることが出来なくなる。要するにブラフだ。

「何処が分からなかったんだ?」

「えっと、ここの辺りです……」

 栞は適当な所を指して説明を受けた。

「失礼しました」

 その後、職員室を後にする。職員室の辺りにクラスメイトはいない。栞は廊下の窓の死角になる場所を出来るだけ選んで下校した。


◉ ◉ ◉


 その日の帰り道、学校から解放された栞は寄り道もせず粛々と帰路に付いていた。俯いた顔には涙の跡が残っている。

「おーい、栞―!!」

 不意に後ろから声が聞こえる。栞の兄である翔太の声だ。栞は振り返る前に涙の跡を袖で拭って後ろを向いた。

「兄さん!?どうして居るの?」

「いやぁ今日は部活が無くて暇だったからな、お前を待ち伏せしてやろうと待っていたが、いざ来てみたらお前が俯きがちに帰るからどうしたものか思ってな?」

 翔太の言葉に栞はビクンと肩を震わせる。

「お前、何かあったのか?」

 翔太は栞の顔を覗きながらそう訊いた。その言葉に栞は俯いて黙り込む。

「……」

 翔太は黙り込んだ栞をじっと見て答えを待っている。

(……もしも、兄さんに言ったら、どうなるかな?)

 『私を助けてくれるかな?』『それとも笑うかな?情けないって思うのかな?』そんな様々な未来を想像する。そんな栞の考えを知る由もなく翔太はじっと栞を待っていた。別に急かしている訳では無いのだが、その目は栞を焦らせる。

(……どうしよう……)

 栞は俯いた顔を上げず、迷っている。しかし意外な方向から栞の決断を余儀なくされた。

「……!」

 不意に後ろから視線を感じる。クラスメイトの誰かが栞を付けており、スマホのカメラがこちらを向いている、ような気がした。自分で『流石に自意識過剰なんじゃないか?』と考えたが、これで怖くなってしまった。

「なんでも無いよ、兄さん」

 栞は言って力無く微笑んだ。

「本当か?……うーん、なら良いけど」

 翔太はもやもやする気持ちを抑えてそう言った。


◉ ◉ ◉


「はあ……」

 家に帰り、栞の部屋に入ると、大きなため息を漏らした。それと同時に我慢していた涙が頬を伝う。彼女にとって声を出さずに泣くことは得意だ。おかげで誰も栞に気付く事は無い。栞は机の中に隠していたワイヤーを取り出した。

(これで今度こそ終わるんだ……何もかも)

 ワイヤーを結んで栞の頭が通る位の輪を作る。そして、結んでいない方のワイヤーの端を天井にくくりつけた。何度も繰り返したことだ、流石に手慣れていた。

「今日こそ私は死ぬんだ。今日こそ、ここで……」

 栞は椅子の上に乗り、首をワイヤーの輪にかける。これで即席の処刑台の完成だ。

「後は私が椅子から飛び降りるだけ……」


 ……、

 ………、

 でも、それが出来ない。『今日こそ』と、何十回も誓ってまだその程度のことが出来ないでいた。

(誰かが私の背中を押してくれれば良いのに……)

 栞は首にワイヤーを掛けたまま、そんなことを思っていた。

「栞―、ご飯よー?」

 不意に母親である秋恵が栞を呼ぶ。

(……うん、ご飯を食べて、お風呂に入って、それで身体を綺麗にしてから死ぬのも良いかもしれない)

 そう考えた栞は母親の声にこう答えた。

「今いくよー」


◉ ◉ ◉


「……」

 入浴後、部屋に戻った栞は『処刑台』も作り直した。

(これで最後、じゃないと……)

『死ねよクズ!』

『何見てんの?マジキモいんだけどww』


 ……、

 ………、

 栞は思い出したくない事をあえて思い出して下唇を噛み締めた。目の前にある『死』の恐怖をこれまでの『苦痛』でかき消す。しかしまだ足りない、自殺への決意はまだ固まっていなかった。その時である。

「ブー、ブー」

 携帯が鳴った。電話の主は『井上 紗耶香』と書かれている。

「ひっ!」

 栞は思わず顔を歪ませる。

「そんな……こんな所まで……」

 直ぐに携帯を伏せた。事情を知らない携帯はそれでも冷酷に振動を続けている。

「逃げなきゃ……」

 不意に呟いた時、自然と全体重を首に掛けてあるワイヤーに任せ、足を宙に浮かせた。やってみると意外に痛みは感じないし呼吸も出来る。しかし目を閉じても居ないのにだんだんと目の前が暗くなり、耳を塞いでも居ないのに暖房の音や時計の秒針の音が遠ざかっていた。

「あ……待っ……」

 そう言ったときには既に自分の身体は制御不能になっていた。動けなくなった栞はただ自らの死を待つことしか出来なかった。


続く……

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