一番弟子の悩み事

梅庭 譜雨

第1話今日も残業、明日も残業

「しーめーきーりー!今日ですよ?今日!作品の搬出如何なさるんですか!!!」

 履き慣れたローファーのお陰で何とか転ばずに星屑館の見事な山道を全力疾走する私の遥か先に、師匠はいた。

 ジーンズにTシャツという動きやすい服装の師匠に比べ、私は膝丈タイトスカートに、ベストにカッターシャツという完璧な事務員の服装である。おまけに男女の体格差と体力差。みるみる距離は広がり、私は心が折れそうになりながら、声帯を限界まで押し広げた。

「師匠!幾ら地域の小さな展覧会とはいえ、師匠の作品を楽しみに待っていらっしゃる人がいるんですよ!」

「知らない!」

「知らないじゃありません!」

 現在の師匠のスランプは重々承知しているが、締め切りは待ってはくれない。普段の仕事なら、仕事先に交渉することも可能だが、展覧会の出品は訳が違う。

 何より、作品はほぼ完成しているという事実が今回は大きい。

 加えて、私の目から見て、師匠本人が嘆いているほど、酷い作品には見えないのだ。まあ、作品の良し悪しを最終的に決めるのは本人であることも、芸術の世界では常識なのだが。

「ししょーう!!作品を何処に隠されたのですかぁあぁ!」

 今が見頃の梅の花が、道に沿って気品ある香りと共に咲き誇るのを、私は形振り構わず疾走する。

 師匠は健脚で、速度が落ちない。

 吐く息が白くなる中、私は師匠を追跡するのを止め、回り道をする為に庭を駆け抜けた。水仙や、山桜が所々に植えられ、しゃがめば隠れることには困らない。

 ローファーが擦れ、踵に痛みがあるのを私は無視した。

 仕事に対する集中力ならある。

 聴覚に全神経を傾け、私は時機を待つ。

 聞き慣れた足音がすぐに近付いてきた。歩いている。

 一つ、二つ、三つ……今だ。

「今日は逃がしませんよ師匠!!!」

「のああああ⁉」

 天が与えてくれた好機を私は逃さず、疲労して油断していた師匠が横を通るのを、目で捉えた瞬間飛び出したのだ。

 がっしりと私に腕を掴まれた師匠は驚きを隠せないようだった。

「藍琉!山道で諦めたんじゃなかったのかい?」

「師匠。今日という今日は離しませんから覚悟してください!」

 私の声を聞いた師匠は青ざめた。

「すごい執念だね……」

 男子にしては少し長めのストロベリーブロンドに、金色の瞳が素晴らしい均衡を織りなす。師匠は日本人とフランス人のハーフだ。街に出れば、師匠が芸術作品のようになる。背も高い。

 普通の女子ならここで卒倒だろう。だが、外見の魔力に勝てない人間ではこの仕事とは勤まらない。甘い顔で駄々をこねるこの男子を叩き締め上げて作品を作り出させるのが私の役目。

 謹んで全うさせてもらいます。

 今日も残業、明日も残業。

 学年末テストの勉強、したかった。

 二年年上の天才芸術家の男子が、中学三年の事務員の服装をした女子に引きずられるという奇妙な光景が出来上がった。


  

 

 

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