ザ・マント ~偶然にも人類滅亡を未然に留めた者がいるらしい~

葛城2号

プロローグ

※事故描写というか、負傷&流血描写があります








 ――それを一言で表すならば、事故だ。




 凍結した地面によってスリップを起こしたバスが、カーブを曲がり切れずにガードレールを突き破る。重力に引っ張られたバスは真っ暗な森の奥深くへと滑り落ちて行った……言葉にすれば、それが全てであった。


 東京から長野へと向かう高速バスの、横転。多くもなく少なくもなく、例年通りに降り始めている雪が、走り去る車両の走行音を包み込んでゆく。立ち昇る黒煙すら、隠してしまう。


 深夜というには早い時間帯で、まだまだ走行する車両は多い……しかし、だ。真坂太一(まさか・たいち)を乗せた高速バスが横転したのは、そんな時間であった。



 黒煙を上げている車体は、酷い有様であった。



 斜面を滑り落ちる際に、幾度となく車体がシェイクされたせいだろう。無事な物は何一つなく、窓という窓は全て割れ落ち、岩石にぶちあたったせいでくの字に折れ曲がってすらいた。


 何とも、惨たらしい光景である。だが、車内に至ってはそれ以上に悲惨であった。上下左右に血反吐が付着するだけでなく、衝撃で分離した肉片がこびり付き、天井に突き刺さった頭部から、鮮血が滴り落ちている。



 地獄絵図。そうとしか言いようがないその世界は……静かであった。



 悲鳴一つ、苦痛の声一つしない。誰も、何の反応も示さない。車内に入り込み始めた黒煙が、むせ返る程に充満する血の臭いを押しのける。合わせて、車内の温度が上昇してゆく……と。


 ぼん、と。漏れ出したオイルだけでなく、タンクにまで引火した炎が爆発となって、車体を一瞬だけ浮かした。だが、それだけであった。状況が改善するようなことはなく、むしろ悪化の意図を辿っていた。



 ……そんな中で、ただ一人。


(……ああ、これは死ぬな)



 おそらくはただ一人だけ、辛うじて即死を免れた者がいた。寒気を伴う酷い眠気の中で、真坂太一(まさか・たいち)はどこか冷静な頭で己が状況に目を向けていた。


 平均的な体格である太一の身体は、座席と座席の間に挟まれる形で横になっていた。変形した車体によって、自力での脱出は出来ない。加えて、折れて尖った座席の一部が太ももを突き破り、もはや生存すら不可能な状態となっていた。


 事故が起こった、その瞬間。最初、太一は何が起こったのか理解していなかった。


 というか、出来なかった。何か、そう、椅子に腰を下ろしていたその身体がぐらりと傾いたと思った次の瞬間にはもう、太一は色々な意味で前後不覚の状態に陥っていたからだ。


 仰向けになっているのか、うつ伏せになっているのか、それは分からない。今まで感じたことがないぐらいの酷い眠気のせいで、手足どころか身動ぎ一つ出来そうにないからだ。


 おそらくは、の話だが、事故があった直後は気絶していたのだろう。それが一瞬のことか、数時間にも及ぶことなのかは分からない。しかし、どちらにしても、もはや全てが手遅れになっているということは考えるまでも無かった。


 目が覚めた直後には覚えていた、右の太ももから響いていた耐え難き激痛も今は遠い。呼吸する度に覚えていた、肺の中で剣山が爆発したかのような感覚もない。


 何も痛くない。見えはしないが、相当な怪我を負ったのは確かだ。なのに、何も痛くない。そのせいか、その事に太一は不安を覚えるようなことはなかった。


 ただ、全く怖さを覚えないことが、太一にはとても奇妙には思えていた。死ぬってことは、こういうことなのかとどこか達観した思いすらあった。



 ……救助は、来ているのだろうか。



 少しずつ近づいてくる死の足音に意識が引っ張られていくのを感じながら、太一は思う。覚醒した直後には辛うじて感じ取れていた老若男女の大小様々な悲鳴と助けを呼ぶ声も、もうしない。


 死んだのか、助けられたのか。前者なら良いのだがと、太一は他人事のように思う。熱くもなく寒くもなく、不思議なぐらいに気持ちは落ち着いていて、平静を保っていた。



 そう、落ち着いていた。もうすぐ、自分は死ぬ。なのに、それを当然のこととして受け入れている。



 ぼう、と。髪を焦がしているであろう強い熱気が、頭上から吹き付けられている感じがする。手元すら分からない程の暗闇の中で、太一はぼんやりと己の生涯について思いを馳せる。


 ……そうしてから、太一はため息を零した。瞬間、まだため息を零せることに太一は軽い驚きを覚えたが、そんなのはすぐに眠気に押し流された。


 世界は広い。それこそ100年掛けても知り得ない事が山ほどあるぐらいに、世界は広い。己の矮小な頭で測れる尺度なんて、世界の広さに比べたら米粒……いや、砂粒……その程度でしかない。



 けれども、それでも、碌でもない人生だった。そう、太一は己の人生をそう評価した。



 下を見ればキリがないと分かってはいた。


 世界的にみれば、日本という国に生まれただけでも儲け物なのは分かっている。何物にも替えがたい『安全』が、当たり前のように享受出来る国に生まれた時点で、満足しなければ……ならないのだろう。


 だが、太一は、それでも思わずにはいられなかった。


 神様……あんたは、どうやら俺の事を毛嫌いしているようだな、と。


 こんな最後を迎えさせるぐらいなら、いっそのこと生まれさせないでいて欲しかった。自分という存在なんてこの世界には初めから存在しないままでいてほしかっ――ん?


 不意に……それは、不意に起こったことであった。


 今にも途切れそうなぐらいに不明瞭となった意識が、ふわりと浮上する。合わせて、初めて太一は目の前に映る『赤い布』へと意識を向けた



(……何だこれ?)



 いったい何時の間にソレがそこにあったのだろう。目は明けていないから、これは幻覚なのだろうか。


 そう……思った直後、『赤い布』はふわりと揺らぐ。えっ、と意識を向けた直後、音もなく傍へと近づいて来た『赤い布』はふわふわと広がり……全身がそれに包まれたのを実感した、その瞬間。


 どこからともなく現れた光が、視界の全てを呑み込んだ。あっ、と心構えする暇はなかった。瞬きするよりも早く広がる光は、眩しいとすら考える時間すら与えない。



 ――熱い、と。思った直後。



 凄まじく激しい何かが足先から脳天へと、脳天から足先へと循環する。その力強さは言葉には出来ない程で、自分の全てがその何かに塗り替えられてゆく。塗り替えられているのだということが、分かってしまった。



 ――何だ、何が起こっているんだ!?



 そう、思った瞬間。気づけば衝撃は活力となっていた。まるで体内で核融合が起こったかのようだ。全身を包みこんでいた眠気は光の彼方へと消え去り、太一は己が立ちあがっていることに気付いた。


 立ち上がっている……そう、立ち上がっていた。掛け布団を開けるかのように座席を押しのけ、地獄絵図の中に居た。人型をした光の炎が、黒煙と血臭とガソリンの臭いとが交じり合う最中に立っていた。


 次いで、太一は己が身体に目を向ける。目に映る己の全てが、光だ。等身大の光の柱となっている己の姿に、太一はしばし呆然とする他なく……状況を理解する間もなく、活力は熱気へと変わる。


 それは、体内で爆発が起こったかのような衝撃。魂まで燃え尽きたかと錯覚してしまうほどの熱気に声なき悲鳴を上げた……その、次にはもう、太一は車体を突き破り、雪が降り続ける最中に降り立っていた。



 はあ、はあ、はあ……。



 零れた吐息に込められた熱は、その度に降り積もった白雪を溶かしてゆく。いや、吐息だけではない。四つん這いになったその場の雪は液体へと変わり、蒸発し、剥き出しとなった大地がぱちぱちと燃え始めてすらいた。


 いったい、どれだけの間、そうしていたのかは分からない。気づけば、太一の身体から立ち昇っていた光の炎は揺らいで小さくなり、胸中に渦巻いていた熱気も収まり始める。


 そうして残され露わになったのは……太一ではなかった。いや、正確に言い直すのであれば、そこにいたのは太一の精神を持った、全く別の姿形となった太一であった。



 客観的にみれば、その姿は女であった。



 手足は細く、長く、胸は膨らんでいる。デニムのショートパンツに、無地のTシャツ。その背中を覆う『赤いマント』はすっぽりと身体を覆う。亜麻色のブーツに亜麻色の手袋。服装すらも変わっていて、男の中では平均的な体格であったその肉体は一回り小さくなっていた。


 そう、客観的にみれば、その場には場違いとしか表しようがない女がそこにいった。氷点下を下回る真冬の夜に、夏の夜から飛び出して来たのかと思えるぐらいに薄着であった……と。


 消えようとしていた光が音もなく寄り集まる。その位置は、顔面だ。目元全てを覆い隠すように集まった光は、ぱちぱちと火花をあげて形作られてゆく。


 痛みはない。熱くもない。視界が遮られてもいない。


 だが、光が集まっているのは分かる。そっと、目元を確認すれば、固い何かが触れた。手探りなので詳細は分からないが、仮面のような何かが張り付いているのが分かった。



 ……いったい、何が?



 そう零した声は女のように高く、己が出したモノだとは思えなかった。けれども、それは確かに己の物であった。己の物であるということを疑う気持ちすらなく、己の者だということを素直に受け入れていた。


 そう、何だと思考を動かしたときにはもう、太一は己がもはや人間でないことを受け入れ、理解していた。そして、己がもはや『真坂太一ではない』ということも、受け入れてしまっていた。


 あの、『赤い布』……そうだ。アレが、己を今に変えた。そう思った瞬間、太一は……いや、太一の心を持った女は、全てを理解してしまった。



 アレは、生体兵器なのだ。



 はるか銀河の彼方を行き来し、瞬きよりも早く異星間を行き来する超高度な科学力を持つ生命体が,気紛れに宇宙へ放った物。その存在からすれば『まあ良いか』と捨て置かれる程度の、何十世代も前の骨董品。


 それが、あの『赤い布』の正体。装着する者の肉体を変質させ、変化させ、強靭な兵器へと作り変える。その星に住まう食物連鎖の頂点に立つ存在に、無暗な警戒心を抱かせないようにして、秘密裏に破壊工作を行う生体兵器。



 それが、今の己なのだ。己はもう、人の姿をした生体兵器なのだ。



 その事実を、漫画のような有り得ない事実を何故か、太一であった女は、誰に教えられたわけでもなく理解していた。理解してしまう己が不思議であり、その不自然さを何故か太一であった女は抱けなかった。


 疑念も何もない。疑問も何もない。もはや、初めからそうであったのだ。既に真坂太一は、いないのだ。己はもう、真坂太一であって、真坂太一ではない。


 その拳は鋼鉄を砕き、その足は数百メートルを数秒で駆け抜け、その身体は核弾頭の熱戦にすら無傷。マントをはためかせれば空を飛び、流星のように瞬いて何処までも行ける。


 漫画やアニメにおける、スーパーヒーロー。真坂太一の記憶と心を持つ、人間ではないナニか。そういう存在になってしまったのだということを、太一は……いや、太一の心を持つ女の姿をしたナニかは理解してしまった。




 ……。


 ……。


 …………だからこそ。



(――ヤバい、人類、ギリギリ生き残れるかどうかの瀬戸際じゃねえっすか)



 そう、胸中にて思った女は、心の中で雄叫びをあげた。顔色一つ変わらず、溜め息一つ零れることなく、その美貌の奥深くで、太一であった女は歓声をあげたのであった。



 ――どうして、彼女は心より安堵したのか?



 それは、生体兵器として改造されたからこそ分かったことなのだが、どうやらこの生体兵器である『赤い布』……一部ではあるものの、壊れていたからであった。



 本来、この『赤い布』によって改造された個体は自我を失う。



 何故かといえば、『赤い布』に組み込まれたプログラムによるもので、生体兵器としての機能が脳へと組み込まれ、記憶に基づいて破壊工作に必要となる脳内情報が整理されてしまうのだ。


 それだけを考えれば大した事がないように思えるかもしれない。だが、この生体兵器の恐ろしさは、改造されたその個体が不死身といっても過言ではないぐらいの耐久力を有し、あらゆる手を使う点にある。


 言うなれば改造された個体は、だ。脳内情報を整理され、自我を失ったその瞬間。食物連鎖の頂点……この場合は人類のみを殺し続ける、どんな姑息な手も使う弱点のないスーパーマンになるのである。


 説得も無駄、核弾頭も無駄、あらゆる毒物も無駄。


 そんな存在が、稼働停止する数万年先まで延々と破壊工作を続ける。男も女も関係なく、老人も子供も関係なく、より効率的に、より多く死滅させる為に、常に考え続けて行動し続ける。


 恐ろしいなんてものじゃない。もし、この『赤い布』が正常に稼働していたら……人類は、遠からず絶滅の危機に追いやられていたのは間違いないだろう。


 だが、人類にとっては幸運なことに、そうはならない。


 太一が、自我を保っているからだ。いや、自我だけではない。太一として生きた記憶がそのまま残った状態のおかげで、人類は絶滅を免れたのであった。



(削除したヤバいやつが次から次へと自動修復されてゆく……壊れていても、そこは絶対に死守ってことっすか!)



 はた目から見れば無言のままに立ち尽くしているだけに見えるだろうが、その内心は忙しない。というか、その頭の中では目に見えない戦争が繰り広げられていた。


 何もしなければ、『人類絶対滅ぼすマン』へとジョブチェンジしてしまう。勝手に自己修復し始めるプログラムを寸での所で停止させつつ、危険なものを片っ端からアンインストールし続ける。


 文字にすればそれだけだが、失敗した瞬間には人類絶滅へのカウントダウンが始まるのだから、内心の狂乱具合も想像出来よう。


 当たり前のようにそれらが出来ることには、驚かない。己の状態を顧みるマイクロ秒の暇があるなら、その分のリソースを削除へ回す。もう、いちいち削除するプログラムを選んでいる余裕もない。


 無言のままに、次から次へと胸中にてポップアップされる警告を無視し続け、幾つも幾つもアンインストールを続ける事、数分。


 最後に……最もヤバいであろうプログラムのアンインストールを終えた彼女は、心の中で深々とため息を零した――と。



 次の瞬間――黒煙を立ち昇らせていたバスがさらに燃え上がって爆発した。



 爆風が、ふわりと女の髪とマントを靡かせる。普通ならば火傷を負う程の熱気であったが、女は怯む様子もない。しんしん、と。大粒の雪は絶え間なく振り続ける。しかし、その程度では鎮火しない。後数十分は燃え続けるだろう。


 少女と淑女の合間に立つ美貌のその女は、ぼんやりとした様子で燃え続けるバスの残骸を見つめ続けている。それは悲惨な光景である。仮にその光景を見る者がいたら、その女と同じように言葉を失くしていただろう。



 だが……実の所、彼女は冷静であった。


 生体兵器となった彼女には『真坂太一』としての記憶や心はそのままだが、それでも影響は受けている。


 普通なら取り乱すなり茫然自失なりに陥る状況や体験であっても、落ち着いて今後の事を考えるだけの余裕を残すように設定されているようであった。



(あー……やっぱり俺、もう人間じゃないんだなあ。悲しいけど、悲しいって自覚出来る程度のことにしか思えないんだなあ……)



 その余裕が、逆に気持ちを落ち込ませることになるのは……皮肉以外の何物でもない。人が目の前で大勢死んだというのに、どこか他人事のように状況を受け入れている事が不思議で、嫌な感じであった。



 ――ファンファン、ファンファン。



 そうしていると、だ。夜の闇の向こうより聞こえてくるサイレンに目を向ければ、斜面の上。何時の間に集まっていたのか、道路には何台ものパトカーやら救急車やらが停車しており、バスの状態を知ろうと慌ただしく動き回っているのが見えた。


 強引で後先考えないアンインストールによって、幾つかの機能は失われた。しかし、それでもなお生体兵器としての機能を残している彼女の目には、まるで目の前で起こっているかのようにその様子を知ることが出来る。



(……どうしよう、か?)



 それ故に、彼女は迷った。このまま大人しく待っていれば、警察なり何なりが此処へ駆けつけるだろう。そうすれば、ひとまず安全は確保される……が、しかし。



(……絶対、面倒事になるよな?)



 そう、それである。というのも、今の太一……は、もういない。つまり、女(生体兵器)となった彼女には、身元を証明する物が何もないのである。


 最初は奇跡的に無傷で済んだ女性として保護されるだろう。しかし、身元を証明する物はおろか、戸籍すら無いとなれば……その扱いが180度変わるのは想像するまでもない。



 酷いと思う者もいるかもしれないが、警察側からすれば当然だろう。



 戸籍を持たず、男が住んでいる住所に住んでいて、一人だけ無傷。そのうえ、これも今しがた分かったことだが……どうやら、コミュニケーション機能にも致命的な障害が発生しているようなのだ。


 どういうことかといえば、常に無表情(デフォルト)なのだ。それでいて、勝手に思ってもいない声が出てしまう場合もある。つまり、思ってもいないタイミングで、勝手に言葉を発してしまうことがあるのだ


 こんなの、自分だったら間違いなく疑う。他人から見ても、不自然さに目を向けるだろう。何を疑うのかと言えば何も言えないが、普通じゃないということだけは自分でも断言出来る。


 さすがに、いきなり拘留なんてことはしないだろう。もしかしたら、最初は精神状態を考慮して解放してくれるかもしれない……が、だ。後日、絶対に調査の為に確認し……もう、止そう。



(ここに居ても、俺が出来ることはもう……何もない。俺以外、みんな死んでしまった……)



 そう結論を出した彼女は、最後にバスの中で燃えている亡骸たちへと手を合わせ……そして、逃げた。


 だん、と。反動で周囲一体に雪や泥が飛び散るよりも早く夜の闇へと飛んだ彼女は、そのままの勢いで夜空を駆け抜ける。ばたばたと跳ねまわるマントも、すぐに静かになる。


 生体兵器の機能の一つにある、重力操作を利用した飛行機能のおかげだ。合わせて、周囲の大気を操作する。


 この二つの作用によって行われる加速は瞬く間に彼女の身体を音速以上へと押し上げ、車で4時間と掛かる距離を僅か数分に縮めたのであった。





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