第13話 修学旅行 後編 一日目

早朝朝六時ちょうどの自宅玄関。

「さてと…っと」

と、私は黒地のスニーカーを履き終えると立ち上がり、慣らすようにつま先をトントンと軽く叩いた。

「忘れ物は無いー?」

と背後からお母さんが声を掛けてきたので振り返った。

普段着姿だ。

何か取ってつけたような話をするようだが、流石呉服屋の娘…と言うとアレだが、寝る時はいつも浴衣に着替えていた。旅館とかで用意されている類のものだ。だが、もう既に触れたように着替えていた。

因みにというか、お父さんはその影響もあってなのか、季節によって違うが春夏には黒のしじら織の甚平を着ていた。

さて、それはともかく、私と同じ…って時系列的には逆だろうが、お母さんも部屋着であっても体型が出るような、フィットするような細身の服が好みだった。淡いグレーの単色系のTシャツに濃い紺のジーンズだ。

…と、ついでに私はと言うと、胸元と後襟に赤い錨の刺繍が施されていて、左胸には校章がつけられている、濃い紺色のセーラー服を着ていた。

それと一緒に、機会が無かったというのもあるが、もう三年生にもなって今更ではあり、かつ別にこれまでも触れるまでも無いという事で話してこなかったが、ついでに言うと、脚には、これは学校指定ではなく自由なのだが、夏以外では普段からしている黒のストッキングをしていた。

ストッキングしているのは他にも少数派ながらいたのだが、少なくとも私たちの間では私と律の二人だけだった。それ以外の麻里を入れた四人は素足に靴下を履いていた。

…ふふ、こんなワザとらしく具体的な物言いはいらなかったかも知れないが、そう、要は学園の制服を着ていたのだった。

ただ始めの方で触れたように、制服には通常は革靴なのだが、見ての通り、今日はスニーカーを履いていた。因みにメガネはいつも通り掛けてはいなかったが、ちゃんと手元にしまっていた。

「えぇっと…」

と声を掛けられた私は、まず自分の姿をあちこちと見渡し、その後で、さっきまで腰掛けてた場所の脇に置いていた濃い紫地のボストンバッグに目を落として、一度頷いてから「うん」と笑顔で返した。

「そっか」

と同じく笑顔でお母さんが返す中、私はおもむろにボストンバッグを手に取ると肩にかけた。

「じゃあ…」

と私が背を向けて玄関の取っ手に手をかけようとしたその時「琴音…」と声を掛けられた。

振り向くと、そこには、居間のドアを開けて廊下に上体だけを出している、さっきも言った寝巻き姿のお父さんが顔を向けてきていた。

相変わらずというか、日に日に顔に表情を出すことが少なくなってきている父親だったが、ほんの数秒ほど私の姿を上下に視線を流して眺めてきて、一度コクっと頷くと、ゆったりした動作でこちらに歩み寄ってきた。

そして、お母さんの立っている真横に立ち並ぶと、フッと力を抜くような表情を見せて、そのまま小さな微笑を浮かべた。

「…琴音、気をつけてな」

と静かに言うので

「うん」

と私も静かに、小さな微笑みを”努めて”浮かべつつ返した。

それに対してまたほんの微かな笑みをお父さんが浮かべるのを確認すると、私はまたお母さんに顔を戻し

「じゃあ、行ってきまーす」

と声を掛けて玄関に手を伸ばすと

「えぇ、行ってらっしゃーい」

と笑みを浮かべつつ明るく返すお母さんの声を背に、まだ六時だというのに朝ぼらけとはもう言えない程にすっかり明るくなった空の下を、自宅前の通りまで伸びるレンガ調のスロープを軽い足取りで歩いて行くのだった。


車が互い違いに往来出来るほどの通りではあるのだが、普段からそれほど通行量は多くないので違和感ってほどでは無かったのだが、それでもそこそこの早朝というのもあって、さっきから数分歩いていても車一台、人間も一人もすれ違うどころか見かけることもなかった。

そんなある種の非日常性を楽しみつつ、一日が始まったばかりのまだ澄んだ空気を味わうように深く呼吸しながら歩く中、ふと思いついて、ボストンバッグの前ポケットにしまっていたスマホを取り出して見た。

モニターに表示させたのは、前日に送られてきていたメッセージだった。昨夜は美保子や百合子などの数奇屋関係の人たちからも色々と言葉を貰ったが、今見ているのは、同じ様に送ってくれた義一と絵里からのものだった。

…ふふ、それぞれ個性に準じた言葉をくれたが、まぁ要は「気をつけて楽しんできてね」といったものだった。

それを周囲に人がいないことを良いことに、一人ニヤケつつ眺めていると、「おーい!」とふと前方から声を掛けれられた。

顔を上げて見ると、そこには制服姿の裕美が、歩道のど真ん中に腰に手を当てて仁王立ちで立っていた。足元には私と似た様なボストンバッグが置かれている。色は原色気味の黄色だった。私と同じ制服姿、そして足元も同じくスニーカーを履いていた。

「裕美」と私は胸の前で小さく手を振ると、裕美の方ではめいいっぱいに右腕を天高く上げて、それを大きく左右に揺らして見せた。

私がすぐ側まで来ると「おはよう、琴音!」と満面の笑みで挨拶をしてきたので、その様子に思わず笑みをこぼしながら「ふふ、おはよう」と返した。

と、その直後に、私はふと顔を真横に向けると、その先に見えている裕美のマンションの正面玄関に一度視線を向けて、そして顔を裕美の戻すと、努めてニヤケ顔を作りつつ声を掛けた。

「…裕美ー、テンション上がっているのは分かるけど、何も道のど真ん中で待っていなくてもいいじゃない?…ふふ、いくら人通りが無いからって」

と私が言うのを聞くと、裕美は途端にワザとらしく

ほっぺを膨らませて見せて、口調もブー垂れ気味に返した。

「何よー、別にいいじゃなーい?今日は待ちに待った修学旅行なんだから!」

と言い終えると、先ほどまでの演技くさい不機嫌顔を途端にまた会った当初の笑顔を見せてきた。

「…ふふ、まぁそうね」

と私も笑顔で返した。

んー…ふふ、まぁ今裕美にネタバラシをされてしまったが、これほどまでに大袈裟にワザとらしく勿体振る事は無かったかもしれない。

そう、今日から私たち三年生は広島へ修学旅行に行くのだ。

とはいっても、何も三年生ひと学年が一斉に行くわけでは無い。

人数の問題や、それに伴う様々な理由から、私たち三組までが今日から、後の四組、五組が二日遅れで回る予定となっていた。

テストが終わった次の週の月曜日に、前日ミーティングと称する最終確認を済ませたのだが、その次の日が今日という事になる。要は平日の火曜日だ。

今日から二泊三日、みんなとの広島旅行となる。

「もーう、テンション低いんだからぁ。…流石はヒンヤリ冷え切った氷の姫ってところだね」

とまた裕美は不貞腐れて見せていたが、途中から満面のニヤケ面を見せて言い放ったので、

「何よそれー。ヒロと同じレベルの、新しい無駄なあだ名を作らないでよ」

とさも不満げに見せたが、しかし裕美のテンションに当てられたのもあって思わず私がクスッと笑うと、その気配に気付いた裕美もクスッと笑い、その直後には二人で笑い声を上げるのだった。

「あーあ…さてと行こうか?」

と私が左手首に巻いていた普段使いの腕時計に目を落としつつ言うと

「うん!」

とテンション冷めやらぬ調子で裕美が「よいしょっと」と掛け声を漏らしつつ足元のボストンバッグを持ち上げて肩に掛けた。

それを確認した私が何気なく足を進めると、裕美も何も言わずとも私の横に並んで歩み出した。


「集合時間って…」

と地元の駅に向かう道中で、ふと裕美が口を開いた。

「七時十分で良いんだっけ?」

と聞いてくるので、予めスマホでしおりの中のいくつかのページを写真に収めていた私は、それを眺めつつ「えぇ」と短く答えた。

今回の広島への修学旅行は、東京駅から新幹線で行くと言う段取りになっており、集合場所も、駅内に設けられた修学旅行などに行く学校、学生専用の待合場所だった。

「まったくさぁ」

と私の返答を聞いた瞬間、ため息混じりに、雲一つない澄み切った淡い青色が占める五月の朝空を見上げつつ裕美が言った。

「新幹線って確か八時十分発だったよね?なーんでその一時間前に集合させられなきゃいけないんだろ?」

「ふふ、裕美、別にあなた朝が弱いわけじゃないから良いじゃない?」

「まぁそうだけどさぁ」

「それに…」

と私は腕時計に目を落としていたのだが、顔を上げて進行方向に視線を向けつつ言った。

「紫と麻里はもっと早いらしいじゃない?学級委員だから何だとかで」

と最後に悪戯っぽく笑ってみせると

「それを言われちゃ何も返せないなぁ」

と裕美は”参った”と言いたげに苦笑いを浮かべつつリアクションを取るのだった。

そう、紫と麻里は私たち一般生徒よりも約三十分ほど早めに集合場所に着いているはずだ。

それを昨日の時点で、二人から愚痴っぽく聞かされたのを思い出す。でも二人ともに、心底嫌そうにはしていなかった。

裕美の反応を見て「あはは」と一度笑ってから、私は先程の裕美と同じように空を見上げつつまた口を開いた。

「まぁ…さ、私も正直今日は五時起きだったし、少し眠くて辛くないのかって聞かれたら『その通り』と返さざるをえないけれど、でも…」

とここで私は、別に狙ったわけではないのだが、未だに私たち以外に人影の見えない歩道の真ん中に躍り出て、そこで一度クルッと回って見せてから続けて言った。

「何だか普段と違うこの非日常な感じ…ふふ、何だかテンションが上がらない?いくら元から少ないとはいえ、この通り人もまったく見えないし、何だか空気も澄んでるみたいで気持ちいいしさ?」

「…」

と、いきなり目の前に躍り出てクルッとターンして見せた私に呆気にとられていた裕美だったが、クスッと一度吹き出すように笑うと、その笑みのまま口を開いた。

「まったく…ふふ、アンタって子は、よくもまぁそんな恥ずい台詞を言い淀むことなくスラスラと言えるもんだね。普通なら言えないよー?…ふふ、クルッと回ったりしてさー?」

「う、うるさいなぁ」

と、改まって言われると途端に恥ずかしくなって言い淀んでいた私の横に裕美が追いつき、そのままの流れでまた揃って足を進めた。

「あはは。まぁでもさぁ…」

と裕美はすぐさままたニヤけたかと思うと、不意に顔だけグッと私の顔に近づけてきて、その直後に私のホッペに軽く指を触れつつ言った。

「ふふ、今みたいなセリフは、姫にしか似合わないし許されないから、アンタには相応しいっちゃあ相応しいけれどね」

「…?」とすぐには裕美の言葉を飲み込めなかった私だが、ようやく咀嚼すると、「ちょっとー?」とジト目気味に返した。

「何よその訳わからない持って回った様な言い回しは?さりげなく姫をねじ込まないでよ」

「あはは、さり気なくもないと思うけど」

と裕美は自分でツッコミを入れた後、顔を進行方向に戻してから、目だけを私に向けつつ言った。

「まぁ持って回った言い回しってのは、誰かさんの影響かも知れないけどねー?」

と言った直後、少し早歩きをしだしたので、やれやれと一度大きくため息をついてから私も後を追った。

「誰かさんって誰のことよー?」

「さーて、どこの姫様でしょう?」


裕美に追いついて姫発言についていつも通りにネチネチとツッコミを入れた後、ふと自分と裕美の姿を見比べてから声をかけた。

「非日常といえば、今の私たちの格好もそうだよね?」

「あー、うん、確かに」

と、私が最後に下を向きつつ言ったので、裕美も察してか自分の足元に視線を落としつつ返した。

「制服だったら普段は下は革靴だもんね。やっぱ…スニカーの方が楽だわ」

「ふふ、それはそうね」

と当たり前の事実を言われたのだが、それでも何だか面白く感じ笑顔で返すと、裕美も笑みを強くしたが、ハッと何かを思い出した様な顔つきを見せて続けて言った。

「そういえばさ、ヒロ君たちの学校は、私たちと違って修学旅行が二学期の秋らしいよね」

「あー…確かにそんなことを言ってたね。私はヒロよりも先に朋子たちから聞いたけど」

「ねー。でさ、前に私たちとヒロ君でこの辺で遊んだ時、今回の修学旅行の話になって…あ、その時に朋子もいたよね?」

「あー、あの時ね?えぇ、朋子もいたよ」

「でさ、二人から話を聞いたけど、何でもあっちじゃ修学旅行に行く時の服装って普段着って言ってたじゃない?」

「うん」

「でもさ、私たちって…」

とここまで言うと裕美はふと自分の体を見渡しつつ続けて言った。

「二泊三日な訳だけど、ずっとこの制服姿のままじゃない?寝巻き、部屋着だけは自由だったけど…」

「あー、そうだね」

と私も自分の姿を見渡しつつ返した。

「…いやぁ」

と、私の言葉から数瞬間を置いたかと思うと、裕美はホッと息をつくかの様に口を開いた。

「それ聞いてさ、その後で元同じ小学校の皆にも話を聞いて、ますますこの学園に入って良かったって思ったよ」

「なんで?」

「だってさ、あの子達は皆私服って言ってたけど、私たちは制服で良いって言うんだもん」

と、また裕美は自分の姿を眺め回しつつ言うので、それに意外な感想を覚えた私はすぐさま聞いた。

「なんか意外ね」

「ん?なに?」

「うん、だってさ…てっきり裕美のことだから、私服の方が良かったって思ってるのかと思ってたのにさ、まるで制服で良かったみたいな事を返すんだもの」

と私が聞くと、一瞬裕美は宙空に視線を飛ばして考える素振りを見せたが、すぐにニコッと明るい笑みを浮かべると口調もそのままに答えた。

「あはは。何よてっきりってー?んー…っとねぇ、まぁ確かに、アンタみたいな世間擦れしてる姫様にはすぐには分からないだろうけど…」

「もーう…いちいち一言多いんだからなぁ」

とすぐさま反射的にツッコミを入れたが、それには触れずに裕美は続けた。

「あはは。これも確かその時に…あ、いや、話さなかったかな?まぁ…いいや!朋子ちゃんたちと私の小学校の時の仲良しも同じ学校なのは知ってるでしょ?その時に話してたんだけどね?あの子達も私と同じ意見だったんだけど、あの子達も私服の方が嫌で、『制服が良かったなぁ』って事だったんだよ」

「え?それはまたなんで?」

と私が聞き返すと、裕美は今度は途端に思いっきりニヤニヤし始めて、口調も合わせて変化させつつ

「デタデタ、琴音の”なんでなんで攻撃”が」

と言うので、私はすぐには反応出来なかったが、徐々にジト目を作りつつ、変わらずにニヤケている裕美の顔を見つめながら

「もーう、やめてよその言い方ー」

と言うと

「あははは!ゴメンゴメン!」

とまったく謝ろうとする意思が感じられない満面の笑みで返されてしまった。

「はぁ…まったくー」

と私はため息交じりに漏らしたが、その直後、裕美とたまたま目が合い、少しばかり見つめ合う形になったが、どちらからともなく明るく笑い合うのだった。

…ふふ、そう、ここ最近…というか、中学生になってからはご無沙汰になっていたが、この”なんでなんで攻撃”という幼稚な名称は、当時、何かにつけて私の言葉の後でヒロが飽きずに用いていたものだったからだ。

裕美と仲良くなりだしてからは、使用するのが二人になったけど、それを使うのがおそらく裕美の方でも久し振りだと思い出したのだろう、それで一緒になって笑ってしまったのだった。

流石の私も、呆れるよりも懐かしさが勝っての反応となった。まぁ…嫌な気はしない。これがまた常連とならないならばという限定付きでだが。

笑いも一区切りつくと、会話が途切れたにも関わらず、そんなことが無かったかの様に裕美は話を進めた。

「あーあ、っと。じゃあ仕方ない!姫さまが御所望らしいから、私から話してしんぜよう!…ぷ、あははは!そんな顔をしないでよー?悪かったって。…ふふ。あ、でね?それで私たちの間で共通したのはね…」

とここで裕美はこちらに顔を向けると、ワザとらしく大きくウィンクをしつつ指を一本立てて見せながら言った。

「私服っていうのは、なんていうか…メンドーだからなの!」

「め、メンドー?」

「そ!メンドー。だってさー」

とここでまた裕美は進行方向の少し上の方に顔を向けつつ続けて言った。

「いやね、私服自体はまぁ良いんだよー。…てか、まぁ折角のみんなとの旅行だし、それなりにオシャレしたいなって気が無いわけじゃ…無いんだけど…」

となんでここで急に歯に何か挟まったかの様な調子になったのか”当然のことながら”気になったが、また裕美から要らぬからかいが飛んできそうだったので、ここは大人しく流しておいた。裕美は続けた。

「ほら、私たちって基本みんなと会う時は制服姿でしょ?」

「え?えぇ、まぁね」

「でもさ、例えば私たちなんかは、休日とかでもよく会ったりして、互いの私服姿を知ってたりするから別になんとも無いんだけれど」

「そうだね」

と私が相槌を打つと、裕美は数段階テンションを落としつつ、しかし笑顔のまま言った。

「さっきも言ったけどさ、他の子達の私服姿ってまず見る機会がないじゃない?でさ、今回みたいな修学旅行がお互いのある意味初めてのお披露目あいって感じになるんだよ」

「んー…ん?え?だから?」

と私がまだ合点行かない反応を示すと、裕美は一度大きく息を吐き、その直後にはまたニヤニヤしながら続けた。

「はぁ…ふふ、まぁこれだけで姫様に分かってもらおうって方が無理ってもんかぁ」

「え?あ、いやだから姫って…」

「はいはい、その流れはもう良いから」

「いやいや、それは私のセリフ…」

という私の言葉は当然の様に流されて、裕美はそのまま先を続けた。

「まぁ要はね、私服で行くとなると、仲が良い子なら兎も角、他の子達にダサい子って思われたくない…まぁ一口に言ってしまえばそういう考えになってね、それを気にするために、その修学旅行用に新しく服を買ったりしなきゃってなっちゃうんだって」

「へぇ」

へぇ…っと実際に思ったが、しかしすぐさま思いついたままの追加の感想を述べることにした。

「随分と…メンドーね?」

と私が返すと、「あはは」とすぐに想定通りだと言わんばかりに笑いながら裕美は返した。

「そうそう。だから言ったでしょー?メンドーだって」

「えぇ、そうだけど…」

とここでまたタガの外れている状態の私は思いつくまま口にした。

「メンドーだし、旅行のためにいちいち服を新調してたら、財布にも厳しいじゃない」

「あ、それを言っちゃうー?」

と裕美はおちゃらけて返してきたが、「まぁねー」と途端に同意の意を示しつつ言った。

「だからさ、まぁ結局はね、勿論買えたら買ったりするってあの子達は言ってたけど、『でもまぁそんなに気負うこともないから、買わないかなぁ』って言ってたよ」

「まぁ、そりゃそうよね」

「うん、だからさ」

と裕美はまた自分の制服に目を落としつつ笑顔で言った。

「結局は取り越し苦労なんだけど、それでもアレコレと悩みはするじゃない?だからさ、制服だったらオシャレも何もなくて考えないで済むから、楽って話なんだよ」

「なるほどねー」

と私が心から感心して見せると、裕美は一瞬真顔を見せたが、すぐにまたもやニヤケ面を晒して

「あはは、これでまた一つ、下々のことを知って、また一つ賢くなりましたね?お姫様?」

と言うので、「ちょっと裕美ー?」と私がジト目を向けて手を伸ばしたその時、

「あはは!」と急に裕美が、そこそこに重たいはずのボストンバッグを一度肩の上で位置を正してから駆け出した。

その突然の前触れの無い行動に少し反応が遅れたが、

「…ふふ、もーう」と苦笑交じりに独り言ちると、

「ちょっと裕美ー!待ちなさーい!」

と、時折後ろを笑顔で振り返る裕美に向かって声を掛けつつ、普段と違って軽く柔軟で動きやすいスニーカーの良さを足元で感じつつ追いかけるのだった。



地元の駅から秋葉原までという通学順通りに行ってから、そこで普段とは別のに乗り換えて、同年代の同じ服装をした集団が固まってるのが遠目からも一際目立つ、東京駅の待合場所が見えてきた時に腕時計を見ると、七時ちょうどを示していた。


ざわつきながらも、広い駅構内でも一際薄暗いエリアとなっている落ち着いた雰囲気、いくつかある一山のうちの一つに近寄った。

その中心にいたのは担任の安野先生だった。

私と裕美で声を掛けると、その場で出席を取られた。

それが終わった頃合いに「あ、二人ともー!」と背後から、高めの透き通ったよく通る声が聞こえた。

私たちが同時に振り返るとそこには、人混みの合間からチラッと、藤花が笑顔でこちらに大きく手を振っていた。

薄暗い中とはいえ、その後ろに律、麻里、そして紫の姿が見えていた。他の三人もこちらに手を各様に振っている。

「おーい」と私たちも倣って手を振り返しつつ近寄って行った。


「おはよー」

とまた藤花が口火を切って挨拶をしてきたので、私たちからも返した。

挨拶をしながらも、私はチラッと他の四人の格好なり持ち物を確認した。

みんなは勿論私たち二人と同じように制服姿だったのだが、足元も同じスニーカー姿だった。

カバンもみんなボストンバッグだ。周りを見渡すと、中にはキャリーケースタイプを持ってきている人もチラホラ見えたが、私たちの班はみんな同じタイプだった。

因みに、さっき私と裕美のに触れたので、折角だから四人のにも軽く話してみたいと思う。

まず真っ先に声を掛けてきた藤花のは、薄ピンク色の、如何にも可愛らしい色合いのものだった。まさにキャラクター通りだ。

お次は律。律のはそれとは打って変わってというか、真っ黒のシックなバッグだった。これを言うのは律に悪いかもだが、この中で一番中身が乙女趣味ではあるのに、それでもこれまた見た目のキャラ通りの似合っていた。

その隣にいた麻里。麻里のは原色に近い赤色のバッグだった。なんか可愛い猫か何かのキャラクターが描かれている。私個人の感想で言えば、本人が猫っぽいので、それと相まって似合っていると思った。

最後に紫。紫のバッグは黒と白の太めのストライプ柄だった。これも、うーん…本人がどう受け取るか分からないが、これも紫自身に違和感なくフィットするような印象を覚えた。


「みんな早いねぇ」

と裕美が他の四人を見つつ言うと、「二人が遅いんだよー」とまず麻里が意地悪そうに笑いながら返した。

「何よー、時間通りじゃない」

と私が腕時計に視線を落として言うと「そうだけどさぁ」と今度は紫が麻里と同じ表情で言った。

「私たちなんか、ねー?学級委員ってだけでめっちゃ早く来ていたんだから」

「それを言われちゃったらなぁ」

「何も言えないわ」

と、裕美、私の順にすぐさま苦笑交じりに返した。

「あはは!」

とそんな私たち四人のやり取りを聞いて藤花が明るく笑う中、「まぁ…」とボソッと律が口を開いた。

「私たちも、琴音たちの五分くらい前に来たばかりだけどね」

と、この照明の下でも分かるほどに印象的な微笑を湛えつつ言うのを聞いて「なーんだ」と裕美も悪戯っぽく笑うのだった。

それからは自然とみんなで円陣を組む形になり、顔を突き合わせながら軽く雑談した。

昨日の夜はどう過ごしたかとか、何時に起きただとか、どんなルートでここまで来たかなど、そんな話で盛り上がっていたのだが、その流れで…ふふ、さっき裕美に言ったにも関わらず、私自身もテンションが上がっていたのか、思ったままの事を口にする事にした。

「しかしさ、紫…」

と私が足元に目を落としつつ言うと、「ん?なにー?」と紫も同じように下を見つつ返した。

それを聞いた私は不意にニヤッと笑うと口調も合わせて続けた。

「…ふふ、紫、あなた紫って名前なのに、ボストンバッグは紫色じゃないのね?」

「え?」と紫が声を漏らした直後「あ、確かにー」と裕美が乗っかってきた。

「せっかく紫なんて珍しい名前なのに、そんな黒白の縦縞なんてさー?まぁカッコいいけどね」

「あ、ありがとう」と紫が戸惑いつつも苦笑交じりで返す中「確かに、確かに」と私が乗っかり”返す”と、「あはは!」と藤花が明るく笑いつつ言った。

「もーう二人とも、それはもう既に私と麻里とでつっこんだ後だから!ね、麻里?」

「あはは、そうだね」

と麻里も笑顔で返していた。

それを聞いてますます苦笑度合いを強めていたのだが、

「って、そう突っ込む琴音こそさー?」

と途端に紫が、お返しとばかりに私に振ってきた。

「私が自分の名前に準じたものを持ってくると思うならさ、だったらそんな紫色のバッグを選ばないでよー」

と私の足元を眺めつつ言うので「それを言われちゃうと、何も返せないわ」と私が如何にも参り気味といった風で返した。

「あはは」とその反応に満足したのか紫は明るく笑ったのだが、それと一緒に笑った藤花の方に顔を向けると、これまたニヤケ顔で声を掛けた。

「藤花、あなただってそうだよ?」

「へ?」

と、この流れで振られるとは思っても見なかったらしく、藤花はキョトン顔をしていた。紫はそれに構わず続ける。

「ふふ、だって私の名前がどうのと言うならさ、あなただって名前が藤花って、藤の花って風流な名前なんだし、それに合わせて藤の花でも象ったものにすれば良かったじゃーんl

「えー?」と紫の言葉を聞いた藤花は不満げな声を上げたが、自分の足元を見つつ「あー、言われてみればそうかもー」と不思議と感心し、納得した風な様子を見せていた。

だが、顔を上げると、また顔に不満げな表情を浮かべて返した。

「でもさー、この薄ピンクの下地で藤の花は、あんまし似合わないと思うなぁ」

「あはは、そこまでは知らないよ」

と紫が間をおく事なく言葉を打ち返すと「えー、自分で振ったくせにひどーい」と藤花もニヤケつつ返したのだった。

「あはは。それでいうと…」

と紫は、今度は律の足元に目を向けた。

そして繁々と眺め回した直後、一度ニヤッと笑ったかと思うと口を開いた。

「律はまぁ…名前通りかな?このシックな感じが、如何にも自分を『律している』って感じで」

「…ふふ、なにそれ?」

と相変わらずボソッとだが、それでも小さく呆れ笑いを浮かべつつ返していた。

そうこう盛り上がってる中、一緒になって笑っている麻里に向かって、「麻里もそのバッグ似合ってるね」と私から声をかけた。

「え?そうかなー?」

と麻里は笑顔を保ちつつも心底疑問を持ってそうな素振りを示した。

「えぇ。だって、それに描かれている猫のキャラが、如何にもあなたらしいじゃない?」

と私が構わず何気ない風で付け加えると、「え、あ、あぁ…そーう?」と、麻里は初めて会話した時と同じくらいに照れてみせてきた。

「えぇ、猫っぽいあなたに似合ってる」

と、そんな麻里の事をからかいたい衝動に駆られた私が追い討ちを掛けて、「あ、ありがとう」と麻里が照れつつもお礼を言ったその時、「ちょっと琴音ー?」と声を掛けられた。紫だ。

紫は腰に手を当てつつ、上体をこちらに少し倒しながら目元はジト目、口元は思いっきりニヤケさせながら言った。

「なに急に麻里の事を口説いてるのよー?まだ朝よ?」

「く、口説く?」

と想定しない言葉が飛んできたので鸚鵡返しをすると、麻里を含む他の四人も一斉に笑顔になった。

そんな中、私も釣られるように思わずニヤケながらも「何よ口説くって…」と返した。

「それに…『まだ朝よ』って、それどういう意味よ」

と加えて突っ込むと、それを境にますます皆の笑いの度合いが強まった。これ以上は進展、発展させようも必要も無いなと、一人冷めた思考をしつつも、私も折れて一緒になって笑いあったのだった。


それからは、まだ全員が集まってないというので、まだ雑談の時間があると、今度は裕美から話を振り、ここまで来るまでに私と話していた”制服話”に花が咲いていた。

そんな中、ふと思い至った私は、隣に立っていた紫の横顔をチラチラと覗き込んでいた。

というのも、やはりというか、ここ数週間の間ずっと、普段通りに明るく振舞っているかの様に見える、もっと言えば装ってはいたのだろうが、紫からどこか以前までの自然さが無くなってる印象を持っていたからだ。それは今まで触れてきた通りだ。

だが、しつこいようだが、こんな薄暗がりにいるせいもあるのか、今日の紫の様子は以前通りのように見えて、私に対して朝一番挨拶から始まり、私へのからかい混じりのノリも健在だったのも含めて、表面上は一々それらに対してツッコミつつも、内心ホッとするのだった。


集合時間が五分ほど遅れた頃、「じゃあ班長さん、班員が全員来たかどうか報告してー」と、安野先生含む各クラスの担任が声を掛けた直後「じゃあ班長さん、よろしくー」などと紫がニヤケ面で言ってくるので、「もーう、イイからそれは。早く行ってらっしゃい、班長さん!」と背中を強めにバシッと一度叩くと、紫は大げさに痛がりつつも笑顔で報告に行った。

それからは皆してその場で立ったまま、今回の旅行に同行する学園長、つまりは校長先生だが彼女の挨拶が始まった。

その姿を眺めつつ、この時の私はふと、去年の二学期の始業式の時のことを思い返していた。

その次に、一年時、二年時、そして三年時と三年連続で学年主任を務めている安野先生の言葉があり、その他の連絡事項も終わると、そのまま先生から号令がかかり、それからはゾロゾロと一斉に新幹線のホームまで向かうのだった。



新幹線ホームに着くと、既に乗る車両は停まっていたのだが、その行き先案内板には『修学旅行』と出ていた。

普段からあまりこの手の物に興味が無かったのだが、そんな私でもこれは珍しいと、しげしげと眺めて、そしてその案内板を写真撮っていると、「写真撮ってるの?」と声を掛けてくる人がいた。

年配の声だったのも含めて、まさか声を掛けられるとは思っていなかった私は少し動揺して動作も早く振り向くと、そこには笑顔の安野先生が立っていた。

「は、はい」と私はそれでもすぐに態勢を整えて答えた。

「珍しいものですから。今日は貸切なんですよね?」

と、返事だけでは味気が無いし、それにすぐにそばを離れる様子も無かったので、雑談的に話を振ってみた。

「えぇ、そうですねぇ。でも貸切といっても、他の学校さんも二、三一緒ですけれどね」

と先生は私から顔を逸らして、向こうの方に視線を飛ばした。

それに倣って私も見ると、その先には制服の違う同年代の女子達の団体が見えていた。

事前に聞いていた情報に触れると、今日は私たちの学園含む私立の学校が三校修学旅行のようで、行き先も同じ広島だった。

ただ一緒の日取りとはいえ、広島に着いてからの日程はそれぞれ各校で違うというので、関わりはないとのことだった。

と、そんな話をしていると、プシューッという音とともに、すぐ側にあったホームドアが開き、それに連動して車両のドアも開いた。

それを二人して眺めていたのだが、先生は一度意味有り気にこちらに笑みを見せたかと思うと、おもむろに口元に手を添えて、遠くに声を飛ばすように口を開いた。

「じゃあ皆さん、順番に列車に乗り込んで下さい」


早速乗り込むと、私たちは事前に教室内で決めた自分たちのグループの席を見つけて、お互いに向かい合うように片方の座席を回転させると、荷物の整理などを各々してから席に座った。

この座り位置も、例の喫茶店でのと同じとなった。狙った訳ではないが、今回だけではなく事あるごとに似た様な状況が訪れる度に、すんなりとコトが運ぶという点で役に立つなと、口にしないだけで、おそらく私だけではなく他のみんなも同じ感想を覚えてる事だろう。

因みにとても細かい話だが、新幹線の座席配置というのは左側に三席、右に二席という配列になっているわけで、六人組の班である私達は向かい合って左側に座るのだった。

皆が着席して、各々が思い思いにお喋りなどをしていた中、新幹線はこれといった前触れもなく、ゆっくりと東京駅のホームを滑り出していった。


列車は東京駅を出ると、しばらくは都心のビルの間を縫って走っていたが、その間、ふと私は窓際に座る律越しに外の景色を興味深げに眺めていた。

私自身、それほどあちこちをぶらつく様な性分では無いので説得力は皆無だろうが、それでも、普段の在来線からの景色と内容は違わないはずなのに、目線の高さ、見慣れた、聞き慣れた駅がシュンッと後ろに流れていく様などを含めて、どこか非日常な、全く違った景色に見えるのだった。


新幹線が多摩川を渡った辺りで、朝会った時から続く同じ内容の雑談にひと段落がつくと、おもむろに藤花たちが、列車が出発する前にボストンバッグから予め出して、足元の座席下のちょっとしたスペースに置いていた出歩き用のリュックサックの中から、お菓子を出し始めた。

これまた補足だが、これも別に指定は無いのだが、私たちの班は全員が外歩き用にリュックを持ってきていた。私も普段ならリュックはまず使わないが、そうだった。

別に示し合わせたのではないのだが、何となく聞く限りにおいて皆がリュックを選ぶ事が分かっていた私は、まず普段なら絶対に使わないリュックを、旅行前に新しく買ったのだった。

このみんなの様子を見て、倣って自分も腿の上にリュックを置いたのだが、ふとある事に気付いた。

「…あ」

「ん?どうかした?」

と瞬時にそんな私の反応に気付いた裕美が、真向かいから声をかけてきた。

「え、えぇ…」

と私は紫、律の両隣、真向かいの藤花、麻里、そして最後に裕美に視線を戻して、少しテンション低めに返した。

「そっかー…私もお菓子とか持ってくるんだったなぁ」

と言うと、ほんの数秒ほど無言が場に流れたが、クスッと一度裕美は笑うと、私とは対照的に明るく笑いまじりに口を開いた。

「…ぷ、あははは!なーんだ、そんな事ー?」

「びっくりしたー」

とそれに藤花も間を空けずに続いた。顔には呆れ笑いが浮かんでいる。

「もーう、何か大事なものでも忘れたのかと思ったよー」

「…ふふ、うん」

と藤花の言葉に小さく微笑み、そのまま律は真隣の私に視線を流していた。

「あはは」と裕美の横では麻里がただ目を細めて明るくただ笑っている。

「な、何よぉ…」

とまたいつも通りというか、一気に私をからかう雰囲気になったので、ただなすすべも無く膨れてみせる他に無かったが、その時、

「あはは、しょーがないなぁ…ん!」

と右隣から急に私の顔の下あたりに、お菓子の袋を差し出す者がいた。言うまでもなく紫だ。

急だったので少しビクッとしてしまったが、ふと横に顔を向けると、そこには、満面の笑みを浮かべた紫の顔があった。

と、私と目が合った瞬間、紫は一度ニッと目を細めて見せたかと思うと、次の瞬間にはその目元をジト目風に変化させて、ニヤつきつつ続けて言った。

「ほら、私のを恵んであげるから、一人お菓子が無いからってそんなにしょげないでよー」

「い、いや、そんな意味では無いんだけど…」

と言う私の細やかなツッコミはスルーして、紫は一同を見渡しながら快活に話を振り始めた。

「あはは!あっ、そうそう!ほら、えぇっと…あ、麻里は知らないかもだけど、この姫様とさ、あと他のみんなと中一の時同じクラスだったんだけど、その時にさ、アレはいつだったっけ…研修旅行ってのに行ったじゃない?」

「あー」

と皆してすぐに懐かしさのあまりに声を一斉にあげた。姫様呼ばわりされた私ですらだ。

…ふふ、そうそう、あの旅行の二日目の夜に、布団に入りながら顔を合わせつつ話したのよねぇ…そう、あの時に裕美が、私が小学校で姫と呼ばれていたとガセを言ったのが、まだこうして続いてるんだから。

と私は恨めしげに、明るく笑ってる裕美の顔を眺めていた。

と、テンション高めの相槌の声がおさまると、紫のその言葉に麻里が答えた。

「ウンウン!行った行った!アレは確か…四月かなんかだったよねー。入学してすぐだった感じ」

「そうそう」

と裕美と藤花が同じ相槌を打つと、紫は「あ、四月だったかー」と言った後で、チラッとまた私に目を流したかと思うと、すぐに麻里に戻して続けた。

「でさ、アレも今回みたいなある種の旅行だった訳だけど、その時もね…大体さ、何かしら普通はお菓子だとかトランプ的な物を持ってきたりするじゃない?」

「うん」

と麻里は麻里で、時折斜め向かいに座る私に視線を流しつつ、心から興味津々といった風で気持ち前のめりになっていた。

…ふふ、んー…なんで麻里は本当に私なんかに、こんなに興味を持つのかしら…?事前に紫たちに情報を聞いていたからまだ良いものの、まだ慣れないわ

「でさ、この姫様ったら、何も持って来てなくてねぇ…あ、いや、持っては来てたんだけど、それっていうのがさぁ…なかなか普通の女の子が読まないような小難しい本だったのよ」

「へー、そうなんだ」

と麻里がふとまたこちらを見てきたので、不意に若干の恥ずかしさを覚えつつも「え、えぇ、まぁ…ね」とだけ応えた。

この時私はふと、皆が寝落ちした後で一人走るバスの中、春のうららかな陽気を感じつつ静かに本を読んでいたことを思い出していた。

と、そんな中「あ、そうだった、そうだった!」と藤花がこれまた麻里のように、前のめりになりつつテンション高く口を開いた。

「どこでだったかなぁー…?泊まった旅館だったか何だか忘れたけど、皆がいない時にふと忘れ物だか用事があったのかで私だけ戻ったらさ、琴音ったら一人で部屋の片隅で本を読んでいるんだもん。…ふふ、前に確かみんなにも話したと思うけど、私と律がいた学園の小学生の部の中で一緒だった子たちの中で本好きちゃんがいたんだけど、その子だって、旅行先で、しかも団体行動だからそんなに一人の時間が作れないってんで、本は持ってきてなかったのに、琴音は持ってきて、しかも短い時間でも読もうとして実際に読んでるんだもん。アレは結構印象的だったなぁ」

あ…見られてたんだ。

初めて明かされた事実、ヤケに時差のある攻撃を食らった私は、心中では恥ずかしく照れつつも、無邪気に笑う藤花を眺めていると、「ふふ、確かに」と今度は律がボソッと引き継ぐように口を開いた。

見てみると律の顔にはまた穏やかな微笑が浮かんでいた。

「中二の時は琴音といつも一緒だったけど、教室だけじゃなく、休日だとかで会う時でも、気づくといつも何かしらの本を携えて、さっき藤花が言ったように隙があればすぐに読もうとしだしてた…。ふふ」

と最後にニコッとまた極たまに見せる柔和な笑みを向けられたので、私はタジタジとなってしまった。麻里の態度もそうだが、数自体は少なくても何度か見ているはずの律のこの微笑にも、まだまだ慣れないのだった。

と、ここまで私ばかりの話が続いたので、さすがに居心地の悪さがマックスになっていたので、何とか今の話の流れを変えようと口を開きかけたが遮られてしまった。

「でしょでしょー?」

と裕美が間髪入れずに口を挟んだ。

そして、さっきの紫以上のニヤケ面を私に向けてきつつ、隣の麻里に教え込むが如く話しかけた。

「私なんか小学校からの付き合いだけどさー、もう何個も例はあるけど…うん、琴音と仲良くなり始めの頃だったかなぁー?一緒に帰ろうって約束をしてたんだけど、クラスは違ったから小学校の正門前で待ち合わせをしたのね?」

「…あー」とすぐに思い至った私はまたその情景を思い出し思わず声を漏らす中、「ウンウン」と麻里はずっとあいも変わらず好奇心いっぱいといった感で合いの手を入れていた。裕美は続けた。

「その時もね、何か真剣に集中して読んでるからさ、落ち合った瞬間に何を読んでたのか聞いたらさ、アレは…何だったっけ?」

とここで急に私に質問してきたので、私は答える必要を本心では感じてなかったのだが、それでもため息混じりに答えるのだった。

「はぁ…ふふ、うん、アレは確か…トルストイだったと思う。作品名までは覚えてないけどね」

と答えた瞬間、「よく覚えてるねー?」と藤花が瞬時に感心…いや、本当は呆れ成分も混じっていたかも知れないが、そんな反応を示すと「本当、本当、よく覚えてるわ」と裕美と紫が同時にそれに同意を示して口々に言い合っていた。この時実際には見ていなかったが、隣で律が一人静かに何度もコクコクと頷いているのが気配で分かった。

と、また私からしたら不利な空気が場に流れたので、「いやいや、作品の題名を思い出せてないんだから、よく覚えてるって評価はおかしいでしょ」と、思い返せば我ながらトンチンカンなツッコミを入れるのだった。

「まったく…というか、黙っていれば好き勝手なことを言ってくれちゃって、私の話ばっかなんだから。それを言うなら紫、藤花、律、それに裕美?…あなた達だって良くそんな昔の事を覚えてるじゃないのー」

「えー」と私の言葉に、途端にニヤケつつ藤花が間延び気味の声を上げると、途中から裕美も「えー」と声を重ねるように参戦した。

「『えー』じゃないよ」

と私は、向かい側で互いに顔を合わせて笑い合う二人に対して苦笑混じりに漏らすと、「あははは」とまた麻里が一人明るい笑い声を上げるのだった。

まぁ実際、今回も鞄には一冊だけ持ってきてるけれど…

と、視線を手元の出歩き用のリュックに視線を落として、すっかり毒気が抜かれてしまった私は大きく息を吐きつつ力なく笑った。

それをきっかけにしてか、裕美がまた「あはは」と一度高らかに笑い、一瞬間を勿体ぶって置いてからニヤッと笑って言った。

「まぁまぁ、そうイヤイヤしないでよぉー?…深窓の令嬢であるお姫様?」

「な、あ、あなた…ねぇ…」

と裕美が私の耳に障る単語を、事もあろうことか無理やり繋げて言ってきたので、何か言い返してやろうと思ったのだが、相も変わらずアドリブ力の無い私のこと、咄嗟にはなかなか思いつかずに、結局はまたもや同じ様に苦笑交えて恨み節で呟く他に無かった。

そんな私の心中をとっくに知ってる裕美は、私にニコッと目をぎゅっと瞑ってみせると、「ねー?」と隣の麻里に声を掛けた。

突然ではあったのですぐには反応示さなかったが、私にチラッと横目をくれると、クスッと一度笑い、そして「あははは」とただ陽気に笑い飛ばすのだった。

「…ったく…ふふ、もーう…」

ともう打つ手の無い私はただ和かに戯れ合う向かい側を眺め出すと、不意に紫にトンと軽く右肩に手を置かれた。

見ると、ずっとにやけ笑いのままの表情だったが、そのまままた手元のお菓子の袋をこちらに向けてきつつ口を開いた。

「まぁだからさ、ほら、遠慮しないでお菓子を食べてよ。…ふふ、てかそもそも、別にこんなのはみんなで分け合って食べるもんなんだから。んっ!」

と最後にまただめ押しとばかりに袋を近づけてきたので、「『だから』って何にかかってるのよ?それに、別に遠慮してたんじゃないんだけど…」とブツブツ独り言ちてから、「ふふ、ありがとう」とお礼を付け加えて袋に手を突っ込んだ。

「あはは、良いのよ良いのよ」と紫は無邪気に笑いつつ口にしたが、すぐさままた表情を戻して続けて言った。

「まぁあなたは姫様なんだしね。臣下の私たちがお菓子くらい献上しないわけにもいかないでしょー?」

「確かにー」

と藤花の悪ノリに始まり、ついには麻里も一緒になって私の目の前に、一斉に自分たちの持ってきたお菓子の袋を寄せてきた。

そんな皆の行動に仰天したのだが、「もーう…だからその姫ってのやめてってばぁ…はぁ」と意味ないとは知りつつも、とはいえ突っ込まないわけにもいかないとそう呟き、その言葉を聞いてますます他のみんなの笑みの度合いが強まったのだった。

それから数口お菓子を口に運んだその時、

「ちょっとあなた達ー?」

と不意に声をかけられた。

私含めて笑みを絶やさぬまま皆が一斉にそのほうを見ると、そこには私服姿の志保ちゃんが立っていた。

一応念のために補足を入れると、志保ちゃんは麻里を除く一年時、そして二年時、裕美達を除く私と律のクラスの担任だった先生だ。三年となった今は別のクラスの担任をしている。

だから今もこうして、学年一斉の修学旅行について来てるという訳だ。

「あ、志保ちゃーん!」

と窓際の藤花がまた天真爛漫に、まるで相手が遠くにいるかの様に手を大袈裟に振り出したので、隣の裕美が笑顔ながらもその腕の振りを邪魔そうに何度も退かしていた。

と、そんな様子を見た志保ちゃんは一度大きくため息を吐きはしたが、しかし顔面には苦笑ながらも笑みが浮かんでいた。

「もーう、『志保ちゃーん』じゃありませんよ?…ふふ、修学旅行だからって盛り上がるのは仕方ないけれど、もう少しペース配分を考えなさい?後々があるのに今からそれじゃ、バテちゃうよー?」

というのを聞くと、すぐに「あはは。まるで先生みたーい」とまた藤花が余計な事を言うので

「まるでじゃなくて、正真正銘の先生です!」と益々苦笑度合いを強めて志保ちゃんが返すので、隣の裕美と真向かいの律が腕を伸ばして藤花を抑える”フリ”をする中、他の私たちで「はーい、分かりました」となるべく他意が無さそうな他意のある笑顔を作って返した。

それを当然知ってる志保ちゃんではあったが、「はぁ…」とまた大袈裟に一度ため息を吐き、「じゃあヨロシクね!」と最後はニッと一度笑うと車両の後ろへと歩いて行ってしまった。

その後ろ姿を、通路側に座る紫と麻里が見ている中、「もーう、藤花ったら…」と私がいの一番に口を開いた。

「あはは!」とただ笑って返すだけの藤花の様子に、一応不満げを顔に表していたのだが、釣られて私も笑顔になってしまった。

「しっかし」

と私の後を継ぐ様に裕美が口を開いた。

「本当に藤花は、いつの間にかって感じで志保ちゃんと仲良くなってるよね?」

という言葉を聞くと、「えへへ」と藤花はまた、他の女子…仮に私が同じ反応でもしようものなら『あざとい』『狙いすぎ』と煙たがられそうなリアクションを取った。

「まぁねー」

「あの文化祭から…だよね」

と律が、少し車両内部に張り出している窓枠の小さく狭いスペースに上手いこと肘を置いて立てて、その先の手の上に顎を乗せつつボソッと言った。微笑顔だ。

「うん、そうだよー」

と藤花は律とは真反対に底抜けに明るく返した。

…本当にこの二人は、陰と陽…この場合は、別にどちらが陰でどちらが陽とは一概に言えないのだが、それでも側から見てると全体的に上手い具合のバランスを保っていて、それがとても見る側に心地良ささえ与えるのだった。

今もそんな二人の様子を和かに眺めていたのだが、それから私たちはお菓子をつつき合いつつ、今となっては懐かしささえ覚える、例の文化祭の思い出話に花を咲かせるのだった。


…とこの間に、ついでだからと、話に直接は関係ないのだが少しだけ触れておこうと思う。

そう、さっきの藤花に関してだ。まぁまず簡単に粗筋を確認というか話してみよう。

例の文化祭の後夜祭への出演というのは、厳密には大袈裟な言い方をすれば学校側の意向ではあったのだが、実際にはさっきいた志保ちゃんに頼まれた事だった。最初は私の性格上、当然嫌がったのだが、それでもと言うので、出演に関して一つの条件を出した。

それは、藤花も一緒に共演するならというものだった。

それからはまぁ色々あって、なんとか無事に本番も終えたのだが、それ以降、度々話している様に、今この場に同じ班としている麻里を含めた新聞部の取材などの影響もあってか、暫くは身の回りが騒ついてはいた。

が、それも去年末の時点ではほとぼりが冷め始めていたのだが、まだ極少数とは言え一定数の人々が熱を保っていたのだ。

その中の一人が、何を隠そう志保ちゃんだった。

志保ちゃんは、あの文化祭の直後、舞台袖にはけた後で当然…って自分で言うのは馬鹿馬鹿しく、恥ずかしいことこの上ないが、私の演奏について頻りに褒めてきたのだが、それと同時に、藤花の事も私に勝るとも劣らないほど褒めちぎっていた。

他のその場にいた先生たちも若干引く程だった。

普段から”良い意味で”生徒たちと同じ目線を持っていて、

それ故に慕われていた志保ちゃんではあったが、この姿は初めて見たので、明るく天真爛漫キャラながらも、実は硬派で肝っ玉の座っている藤花ですら、その光景には呆気に取られる程だった。

がしかし、すぐに慣れた様で、藤花からも調子を合わせて感謝とお礼を返していた。

それからというものの、以前からこの二人は側で見てるだけでもかなり距離が近そうに見受けられていたが、この件以来ますます間が縮まったとの事だ。

なにしろ、去年のクリスマスの時に話した通り、私は私でコンクールが終わり肩の荷が降りたというので、ますます師匠の元での練習に身が入るあまりに、九月以降、月一で催されていた、学園近くの教会での独唱には一度も立ち会えずにいたのだが、その代わりというか、何と志保ちゃんが、全てではないにしても数回足を運んだというのを、藤花から聞いた。

その話を聞いた私含む他のみんなも軽く驚いたが、そんな私達の反応を藤花は藤花調の笑顔を浮かべるのみだった。

因みにというか、今年に入って私はまた師匠を伴って毎月教会に足を運んだが、志保ちゃんと出くわすことは無かった。先ほどの藤花の話によると、志保ちゃんはどうやら御忍びで観に…いや、聴きに行ってるとの事だ。予め藤花自身から両親も毎回来ているという情報を聞いていたらしく、変にお互いに気を使いあうのもなんだと、初めて行った時には挨拶をしたらしいが、それ以降は忍んでいたらしい。

志保ちゃんなりに気を使った結果のようだ。

…当時、二年生の時は志保ちゃんは藤花たちの担任では無いから分からんでもないけど、別にそこまで気を遣わんでも…と私は純粋に思ったが、これはまぁ意見が分かれるところだろう。どっちでも良い。二人が納得しあってるのなら、それが正解だろう。


…って、また毎度のごとく長々と話してしまった。

とまぁこんな話を含めて暫くは文化祭話に花を咲かせていたが、それにもひと段落がつくと、不意に裕美が私に声を掛けてきた。ニヤニヤしていた。

「…でさ琴音、アンタは今回も何かしらの本を持ってきてるんでしょー?」

「…はぁ」

と私は、この言葉に何故か右隣で小さくビクッとする気配を感じたが、それには気を止めずに、そのニヤケ面をしている意味合いについて突っ込む意味でも大袈裟に嫌々げに言った。

「その話は流れたのかと思ったわよ」

と返すと、裕美はまたニヤつきながら返した。

「ふ、ふ、ふ…逃さないよー?」

「…ふふ、どんなテンションなのよ」

と私が苦笑いで返すも、それには取り合わずに裕美は続けて言った。

「ほら、今回も何かしらの本を持ってきてるんでしょー?…小難しいの」

と言うのを聞くと、私はふと視線を周囲に回した。

すると、それぞれ各様だったが、それなりに『どう弄ってやろうかなぁ』と言いたげな風の顔つきを見せていた。

その中で、少し紫の顔に若干の影が差している様に見えたが、この時の私は、通路側に座ってるんだから光りの加減だろうと流して、「小難しいのって、別にそんなのじゃ無いよ…?それに、別に話の足しにもならないし…」とブツブツ言いながらカバンの中をまさぐる中、「良いから良いから」と四方から声を掛けられた。

やれやれ…本当にみんな、いつも以上にテンション高いんだから。こんな本がどうのとか、普段だったらここまでは食い付かないってのに…

と私はまた一度クスッと笑いつつ、カバンの中から一冊の本を取り出した。

そこから出したのは、一九世紀に生まれ、二十世紀前半に活躍した、1920年代のいわゆる”失われた世代”の作家とも見做されている、F・スコット・フィッツジェラルドその人の全集の一つだった。ハードカバー本で、所々古ぼけており、見るからにかなりの年季が入ってるのが分かる本だ。

私が何も言わず表紙だけ見せると、「ちょっと見せてー」とすぐに裕美が私の手から本を取ると、表紙、裏表紙をなんども本自体を回転させつつ眺め回していた。

「えぇっと…?す、すこ…っと、フィ…フィッツ、ジェラルド?」

と、慣れない調子で辿々しく言うので、私は思わず「ふふ」と笑いながら、裕美の手から本を取り返した。

まぁ無理もない。表紙には作者名しか書かれていないのだが、その作者名が英語表記だったからだ。

読み慣れていないと裕美の様になってしまうのは仕方ない。

「そう、まぁ一般にフィッツジェラルドとだけ言うわね」

と私が言うと、「フィッツジェラルド…あ!」と声をあげる者がいた。それは藤花だった。

藤花は目を爛々に開けつつ私に興奮気味に口を開いた。

「フィッツジェラルドってアレ?私の知ってる”彼女”?」

「え?ふふ、『私の知ってる』って言われても…」

と私はまた苦笑いをしないで居れなかったが、ふと藤花の言葉の”彼女”という言葉ですぐに思い至った。

と同時に、それを藤花が指摘したという点で、少し上から目線風になってしまうが、流石だと思った。

その思ったままに、その気持ちのままに藤花に笑顔で答えた。

「…あー、ふふ、いや、違うよー。今藤花、あなたが言ったのって、二十世紀を代表するジャズ歌手の、エラ・フィッツジェラルドの事でしょ?」

「そうそう!」

と私の笑顔に合わせてか、藤花も嬉しげに相槌を打ち返してきた。

「へぇ…有名な人なの?」

と直後にボソッと横から入る者がいた。まぁ出し惜しむ事もないだろう。何故なら明らかだからだ。

そう、律だった。

そう聞き返す律に対して「まぁねー」と藤花は答えつつ、視線だけ斜め向かいの私に、意味ありげに笑いつつ流してきたので、私はただ小さく微笑み返した。


まぁこう言うのは実はこの上なく恥ずかしいのだが、事実だけ言うと、藤花が有名とはいえ自身の帰属する所謂クラシックというジャンルとは別のジャズシンガーを知る事となったのには、私が大きく関わっていた。

というのも、覚えておいでだろうか、私が初めて数奇屋に行き、その時に色々な初対面の人がいる中で、普段はシカゴを中心にジャズ歌手として活躍している美保子と出会った事を。その時に、最初の方で二人で音楽談義をして、その日の帰る時に、『一緒にいつか演奏しましょう?』と声をかけられたのだった。

私は我ながら本当に単純だと思うが、すっかりその気になって、ジャズナンバーをシラミ潰しにCDやスコアなどを買い漁り、まず師匠に教えを請いた。当然ながら、急にジャズ熱を発症したワケを知りたがったが、この時既にコンクールに向けた練習を始めていた時期の最中、本人に聞いてはいないが恐らく『少しはリフレッシュも必要かも知れない。それにそのリフレッシュ方が別に一切音楽と関係無い事では無いし、何かプラスの効果もあるかも』と算段したのか、快く教えてくれる事となった。

その流れでというか、頻度は場合によってまちまちだったが、月に数回藤花の家にお邪魔してピアノを弾いたり、藤花の歌を聴かせてもらったりしていたその中で、ふと『ジャズには興味ない?』と聞いたのだった。

聞かれた直後の藤花は、何を藪から棒にと言いたげだったが、私が色々と懇切丁寧に、その前に美保子と数奇屋で話して共有出来たその中身を、『そもそもクラシック、ジャズ、ジャズを含めたポップなどなどと、ジャンル分け自体はしたければしても別にいいけど、それを今現代の様に行き過ぎなくらいにその間の垣根を高くして、それぞれの交流を無くして、それぞれが孤立しちゃうのは、結果としてあまりにも視野が狭くなるし、そもそも音楽に限らず芸というのは、そんな小じんまりとしたツマラなくクダラナイものでは無い』などの話を中心に噛み砕きつつ話し、最後に『だからさ、私が往年のジャズナンバーを弾くから、それを藤花、あなたが歌ってくれると嬉しいのだけど?』と最後に口説いた。それを途中から真剣な表情で聞いてくれていた藤花だったが、しばらくしてふと優しげな笑みを零し、『確かに、他のジャンルにも手を出すと、歌の幅が広がる的な話を、”あの人”もよく話していたなぁ』と視線を遠くに飛ばしつつ独り言ちたかと思うと、快くすんなりと了承してくれた。それからは賛美歌などを中心に演奏しあっていた中に、ジャズも含まれる事となった。

その流れで、私が持っていたジャズのCDをいくつも貸したり、藤花の練習場にあるコンポで聴いたりしていたので、最終的には私にも負けない程に、藤花はジャズに詳しくなっていった。

…とまぁ、またもや長めに時間を取ってしまったが、ここで話を戻そう。


しばらくは律を中心に、先ほどの文化祭話の熱が残っているのもあったのか、またもや藤花を中心に話が回り出したのだが、ふとその時、

「…って、結局”エラ”とは関係無いんだね?」

と我に帰るというか、藤花が少し残念そうに不意にそう漏らしたので、

「えぇ、まぁね」

と、さっき笑顔を見せた後というのもあって、どこか気まずさに近い心持ちになりつつ、苦笑交じりに返した。

「この人はそもそも男性だし、血縁関係でも無いよ。この人は小説家だしね。えぇっと…」

と私はおもむろに手元の本をペラペラとめくった。

正直この話を、関係無いみんなに話してもどうかとは頭の片隅でずっと考えてはいたのだが、しかし、その結論が出る前に行動に移していた。

まぁでも、いくら考えても、特にこの時の様な、頻りに他のみんなをからかいはしたが、私自身も、やはりというか、それなりに今回の修学旅行を楽しみにしていたので、そのテンションの高さの勢いに任せたあげく、きっと結論はそのままだっただろう。

そんな事を考えつつ、会話のタネにでもと、あらかじめ栞を挟んでおいた箇所を開くと、それをペタッと両腿の上に乗せて広げて、視線を落としつつ続けて話した。

「これはね、フィッツジェラルドの全集の一冊なんだけど、実は訳あってね、この中に収録されているいくつかの短編の中の一つを読み返そうと思って持ってきたのよ」

「なーんだぁ、やっぱり今回も隠れて本を読む気マンマンじゃーん」

とまた素早く藤花に笑顔で突っ込まれてしまったが、その言葉に私含めて明るく笑うと、その流れのまま、誰からともなく身を乗り出す様に私の腿のあたりに顔を近寄らせてきた。麻里も一緒だ。

「ちょ、ちょっとー…ふふ」

と一応建前というか社交辞令的に不満を示しておいたが、これも稀とはいえ何度かあった流れだったので、そのままにしておいた。

ほんの数秒だろうが少しばかり沈黙が流れたが、「…アル中…患者?」と裕美がまずそう題名を読み上げたので、「そう」といつの間にか我知らず皆と同じ様に上体を屈めていた私はそう返すと、元の態勢に戻った。

それを見て、他の皆も元の座り位置に戻ったのを確認すると、一度ぐるっと見渡してからまた小さく呟いた。

「英語だと”An Alcoholic Case”…私の本は古い本だから『アル中患者』って翻訳されてるけど、他には『アルコールの中で』って訳されてるのもあるらしいね」


…『アル中患者』。この短編は、ホテル暮らしをしているアルコール中毒の漫画家の世話をすることになった若い看護婦の話だ。

看護婦達にとってアル中患者はハズレ仕事であり、この漫画家も例外ではなく、お酒が欲しいと何かにつけて暴れるので、皆が担当をしたがらなかった。そんな訳なので、主人公の女性も当然、一度は、マネジメントをする女性に担当替えを頼むのだが、気が変わり『もう一度、あの患者を担当させてください』と願い出る。看護婦はふと、彼が機嫌が良い時などに漫画を書いてプレゼントしてくれた時の事など、そんなたまに見せる”優しさ”の様なモノを垣間見せてくる彼の人間的な魅力に気づき、もしくは思い出し、誰もやりたがらない仕事に使命感をもって覚悟を決めて戻ってきたのだった。

ホテルに戻ると、彼は彼女が担当に戻ったのを気さくに歓迎してくれた。そして、悪戯っ子い笑顔を見せつつ言うのだった。『君のためにまた漫画を描いてたんだ』と。

しかし…、ちょうどその日に、とある人々と外で会う約束があると言うので、外出の支度をする漫画家を手伝っているその時、口からペパーミントとジンの匂いがしてくるのが分かった。と同時に、彼の顔が青ざめて、熱っぽいのにも気づいた。

看護婦は人との会合の後、医者を呼ぶ旨を伝えると、彼は途端に慌てて狼狽えつつアレコレと逃れようと画策しだした。それでも一歩も引かずに着替えを手伝う看護婦の態度を見た彼は、着替えをさせてる途中で不意に胸元にある傷を見せてきた。

それは、この作品というのは、当時第一次世界大戦後の世界を舞台とした話なのだが、その傷痍兵が彼だった。要は、戦争で経験した事、もう治らない怪我をしてしまった事、その他諸々と、それらが彼をアル中へと引き摺り込んだのだった。

それを知った看護婦も一瞬絆されそうになるが、感傷的になってはダメだと、下手に同情せずに『それでも今のままで良いわけないじゃないですか。アル中を克服しなきゃダメでしょ』と諭しだしたその時、彼は混乱した風な目を大きく見開いたかと思うと、その目でジッと彼女の目を直視した。

…一瞬の出来事だったが、彼はそれだけで『死への願望』を伝えたのだった。

これが分かったくらいだから、看護婦はすぐに、もうこの男は、アル中がどうの以前に、立ち直らせる事が出来ないんだと思い知らされてしまった。

それを悟ったその直後、またもや電撃を食らった様な感覚に襲われた。

…そう、彼は酒を求めている訳では無かったのだ。彼はこの時ふと部屋の片隅を見つめていたのだが、その光景を見て彼女は途端に恐ろしくなってしまった。

彼が見つめている片隅には死がある事を知っていたからだった。彼女は新米ながらも看護婦だ。死というものには目の前で何度も経験を積んでいる。だが、人に入り込む前の死を見たことは無かった。

その明くる日、彼女は看護婦紹介所…というものが当時はあったのだが、そこで昨日の出来事、その感想を述べたのだった。

『あの患者さんは、私の手首をねじって挫いた事もあったけれど、そんな事は大した事じゃありません。ただ本当にあの人を助けてあげられないってことが問題なんです。それで張り合いを失くしてしまうんです…何をやっても虚しいんです』


…とまぁ、普段とは別の意味で長々と『アル中患者』のあらすじについて話してしまったが、これも後々に大きく関わってくる事なので、この場を借りて、これでもジャブのつもりで短く紹介してみたところだ。

まぁ原作をご存知の方なら余計だっただろうが。


それはさておき、今の通り、この作品というのは誰も救われない、作品全体にドス黒い靄のようなモノがかかっている様な陰鬱な作品なので、話し始めの頃から、

やっぱり、こんな明るい空気の中で話すべき内容では無かったかな…?

と反省し、漫画家がアル中で、それを担当する看護婦の奮闘記だといった風に無理やり纏めた。


そんな私の工夫が功を奏したか、妙にしんみりとした”落ちた”空気に様変わりするようなことは回避出来た。

だが、結果的にあまりにも中身が無いと受け取られかねない紹介になってしまったので、これ以上は誰からも作品自体に関しての質問なりは無かった。

その代わりというか、裕美はふと何かを思い出した風な表情を見せて、その直後に私に話しかけてきた。

「そういえばさ、さっき訳あって云々って言ってたけど、アンタがその酔っ払いの話を読み返そうって思ったわけは何なの?」

…ふふ、よく覚えてるなぁ

と何となく感心しつつ、チラチラと手元の本に視線を向けつつ答えた。

「ああ、それはね、んー…」と今度は”本当に”一度少し先を言うのを躊躇った。

そしてふと麻里をチラ見したが、

…まぁ、いっか

とまたもや変にポジティブな心境になり、先を話すことにした。

「じ、実はさぁ…ほら、裕美?」

「え?なに?」

と裕美は急に振られて、ここに来て初めて少し狼狽を見えたが、それには触れずに続けて言った。

「裕美、あなたとさ、去年の秋頃、一緒に劇を観に行ったじゃない?」

「え、…あ、あぁ!うん!」

と裕美はテンション上げて答えた。

「絵里さんと観に行ったヤツだよね?」

「あー、そんな話あったねぇー」

と藤花が横から合いの手を入れると、「あったあった」と紫も”普段よりも少し遅れ気味の速さで”加わった。

「なになにー?なんの話ー?」

と、その時には勿論その場にはいなかった麻里が焦ったそうに言うと、私の隣の紫は、不意にチラッと私の顔を視線だけで見たかと思うと、一度フッと力を抜くように息を吐き、それからは麻里にその時の話をしてあげていた。

私の右隣だけ若干空気感が変わったように感じたが、この時はそのまま流して裕美に返答した。

「そうそう。でさ、その時に、んー…」

とここでまたしつこいようだが、少しまた言い渋ってしまった。因みに言ったばかりだが、原因は紫とは関係ない。

まぁ…今更か。既に面が割れてるんだし。

と私は一度自嘲気味に笑ってから続けて言った。

「ほら、私と絵里さんの共通の友人の、小林百合子さんって女優さん、知ってるでしょ?」

と問いかけると、今度は裕美は思い出す素振りを見せずに素早く反応を示した。

「ウンウン!あの伏せ目ガチな目が印象的な、色白で線の細い女の人でしょ?」

「ふふ、そうそう」

と、これは私の治らない…いや、治さないで変わらない方が良い癖だと身勝手にも思うが、自分が心から許している人、友人の事を不意に褒められる、もしくは褒めるような文脈で言われると、自分の事のように嬉しくニヤケてしまうのだった。

とそんな中、「…あ、見たことあるー!めっちゃ美人!」と、紫のスマホの画面を眺めつつ麻里が黄色い声を上げていた。どうやら紫が検索をかけて、検出された画像の一部を見せたようだ。

その麻里の声を耳に入れつつ、私は顔を元に戻して先を続けた。

「でね、こないだチラッと会ってお喋りしていたんだけど、その時にさ、今演っている芝居が終わったら、また脚本家のマサさんと組んでね、早くて今年の秋頃に上演する予定なんだって教えてくれたの。で、その中身というのが…」

と私はここで一旦溜めると、腿の上のハードカバーを指先でトントンと軽く叩いてから言った。

「今話した、フィッツジェラルドのこの短編を元にした劇だってワケ」

「あー、なるほどねー」

と私が話し終えると、裕美は勿論ではあったが、それと同時に藤花と律、少し声の音量が小さめだったが紫も返した。

本当に分かっているのかとバカ真面目に心の中でつっこんでしまったが、それでも口にはせずにただ笑顔でいると、裕美が私に返した。

「あー、だからその話を読み返してるってワケね?」

「ふふ、そうなの。でね、今それをマサさんがまだ脚本を書いている段階なんだけれど…あ、そうだそうだ!」

とここで不意に、裕美の顔を見て思い出した事があった。

…ふふ、勿論、ここずっと私が勝手に話している内容が、この場のみんなには直接は関係ないから、こんな内容は裕美と二人っきりで話せば良いだろうとツッコミが入ってくるのは分かっている。

だが、ここが我ながら自分に甘いのだが、比較的付き合いのまだ浅い麻里を含めて、こんな勝手な話だというのに耳を傾けて、他の皆がさも興味がある風な聴き方をしてくれる”せい”だと言い訳をさせて頂こう。

…というわけで…って、どんなワケだって感じだが、それはさておき、咄嗟に思い出した事をそのまま話した。

「ほら裕美、有希さんいるでしょ?澤村有希。絵里さんの学園時代の一年先輩の」

「あはは!うん、勿論だよ。…ふふ、何もそんな勿体ぶった言い方しなくても」

とすぐに裕美にからかい混じりに返されてしまったが、それにはただ笑顔で済ました。


そう、当然裕美は有希の事を知っている。

…って、一緒に劇を観に行って、上演の後楽屋に招待されて、そこで自己紹介を済まし、挙げ句の果てには絵里のマンションで一緒にケーキを食べながら楽しく過ごしたのだから当たり前だと思われるかも知れない。

…まぁそうなのだが、それに一応、それ以降の話をしたいがために、こんなフリをしてみたのだ。

というのも、あれからも、何度か有希とは会っていた。絵里のマンションでだ。今年に入ってからは裕美が本格的に忙しくなってしまったので回数は減ったが、去年の後半は月に二、三度のペースで絵里のマンションにお邪魔しており、その半分くらいで有希と鉢合わせたのだった。

…絵里がこれを聞くと、かなり何とも言えない気持ちになるだろうが、私や裕美からすると、絵里と似てざっくばらんでサバサバした雰囲気を持つ有希とは、年下の私がいうのも生意気だが、すっかり打ち解けあっていた。

裕美もすっかり有希に懐いている様子だ。まぁ、絵里と初めて出会って、それからの裕美の絵里に対する態度を見れば、有希にも同じくなる事は容易に予想がつくだろう。


「澤村…有希?」

と麻里が口に出して疑問であるという態度を示したので、それを見た紫は、またやれやれと苦笑いしつつ、麻里から自分のスマホを取り上げると、何やら弄りだした。

その光景を横目に、私は裕美へ続きを話した。

「でさ、有希さんも百合子さんと同じで別の舞台をしてるって前に会った時に言ってたでしょ?」

「うん」

「でね、今度百合子さんが出るっていう、マサさん脚本のその舞台に何と…」

と私は冷静になって振り返ると、如何にもクサすぎな演技をしながら続けて言った。

「…有希さんも出るって事なのよ」

「へぇー!良いねぇ!」

と、普段なら私のこのクサイ演技に対してからかってきそうなものだったが、この時ばかりはそれが気にならない程に心からテンションを上げて見せた。

因みにというか、これまであまりそこまで関係していない事もあって、それでも静かに時折笑顔を浮かべつつ話を聞いてくれてた藤花と律は、私の話を聞き終えると「有希って人も、あの時に出てた人だよねー?」「…うん」と確認しあっていた。

「そうそう」と裕美が二人に混ざって、私の代わりに記憶を掘り起こすのを手伝っていた中、「あー、この人かぁ」と麻里の声が耳に入ってきた。

その方向を見ると、またもや麻里が、紫から渡されたスマホを覗き込んでいた。

と、視線に気付いたのか、ふと顔を上げると私に視線を送ってきた。その目にはギラギラと好奇心の光が浮かんでいるように見えた。

「この人も、さっきの薄幸系美人とはまた真逆の、元気溌剌って感じだけど、これはこれでまたもや美人だね、琴音ちゃん!」

と最後に何故か語尾を強めたので、内容的には裕美のとさほど違わないはずなのだが、それでもまだこの空気に慣れてない私は、「え、えぇ、そうでしょ?」と、自分なりには気をつけて自然な笑顔で返した。

でもおそらく、見る人が見たら…そう、この場だったら裕美が私の表情を見たら、すぐに心中を察した事だろう。

だが、この時の裕美はまだ藤花と律相手に会話が盛り上がっていた。

その後は、新聞部の血が滾ったのか、話を戻して百合子や有希の話、そして、マサさんの話をもっと詳しく教えてと質問ぜめにあいそうになったが、自分で振ったのだから自業自得ではあるのだが、それでも流石にこれ以上事細やかに話すと、終いには数奇屋の事まで触れざるを得なくなりそうな未来が見えた私は、相手からすると急に辿々しく見える調子で、途端に「いやぁ…」とお茶を濁していた。

と、その時、

「…こ、琴音?」と、これまた小さな声でボソッと名前を呼ばれた。

その声のした右隣に顔を向けると、紫が、一応笑みは浮かべていたのだが、苦笑気味というか、戸惑い気味というか…いや、何か心に大きく深い問題を抱えているのに、それを悟られまいとするような、そんな誤魔化し風の笑みを見せていた。

それを証拠に、いつもはキリッと力強く逆八の字気味の眉毛が、今は正八の字に近くなっていた。

「ん?なに?」

と、先程から、そう、私が話し始めた頃くらいから徐々に態度に変化が見られていた事は気付いていたが、例のあの時の喫茶店内で私に向けて不意にチラッと見せた、あの雰囲気を全身に纏っていたのに驚き、そして自分でも訳が分からない程に動揺しつつも、表面上は平静を装いつつ聞き返すと、「あ、うん…」と紫は私から視線を外して、自分の膝元に目を落とした。

この時の私と紫の様子を見て、麻里がどう思ったのか知らない…というか、知るよしも無いが、私が何気なく向かいを見ると、今だに盛り上がっている、いや、ますます盛り上がりを見せる裕美たちの会話に混ざっていたところだった。

それを見て、またもや自分でも不思議と少しホッとした気分になったのだが、それも束の間、「琴音…」とまたボソッと紫が呟いたので、「う、うん…」と私も合わせて顔を戻しつつ返した。

「な、なに…?」

とどこから来る緊張なのか分からず、軽く混乱しつつまた聞き返すと、紫はすぐには返さなかったが、ハタから見ても分かるほど一度ゴクッと生唾を飲んだ後で「あ、あのさっ!」と今度は打って変わって語気を強めて言った。

…だが、語気を強めたとはいっても、これまでの流れの中においてはという意味で、実際にはそれほどでは無かったらしく、紫のこの言葉を聞いても、他のみんなはこちらに振り向く事な盛り上がっていた。

だが、私はというと、急に語気を大きくした紫に驚き、思わずジッと、元からツリ上がり気味の目を見つめた。

すると、何かを言いかけたはずの紫も、そのために開けた口を閉じないままに、同じように私の目をジッと見つめ返してきた。


この時の私の感想としては、紫の黒目に、普段はキラキラと光が宿っているように見えていたのが、今の紫の目には、その光がなりを潜めており、代わりに何だか曇ったような水晶体のように見えて、それがまた私にジワジワと緊張をもたらすのだった。


これは実際はどのくらいの時間の間していたのだろうか?これはおそらく紫も同じだろうが、かなり長い時間見つめあっていた様に感じていた。

しばらくお互いに黙ってそうしていたのだが、不意に何気なく紫がさっき視線を落とした先が気になって見ると、そこには当然リュックがあったのだが、ふと、紫の手が、いくつかあるリュックのポケットの一つに入っているのに気づいた。

何か取り出そうとしていたのかな…?

とジッと見ていたのだが、どうやら私の視線の先に気付いたらしい紫が、自分でも私と同じ様に手元を見た後、フッと短く息を吐いて、そしてガバッと勢いよく顔を上げて「こ、琴音!あ、あのさ…」と何かを言いかけたその時、

「あ、そういえばさー?富士山はー?」

と言う、高くよく通る声が窓際から聞こえてきた。

これに対して、申し合わせたわけでも無いのに、私と紫は思わず同時にその声の方向に顔を向けた。

そこにいたのは勿論藤花だった。

「ふ、富士山?」

と、さっきまでのある種の緊張を一緒に過ごしていたのを忘れたかの様に、私と紫で一度顔を見合わせてからまた顔を向けつつ、セリフも被らせながら聞き返した。

ふ、富士山…?って、さっきまで有希さんたちの事を喋ってたんじゃ無かったの?

とすぐにつっこみたかったが、「そうそう!富士山!」と藤花は何故か誇らしげに続けて返した。

「…ふふ、藤花は」

と律が微笑みつつボソッとつっこむと、「本当本当、いきなりなんだからなぁ」とそれに続いて裕美も笑顔で返していた。

麻里はというと、相も変わらずこの手の事が起きると「あはは」と愉快げに笑うのみだった。

…あぁ、ただ単に急に藤花が思いつきで口走っただけか。

と呆れつつも、先ほどの事もありドッと安心感が胸に訪れた。なんだか日常に戻された気分だった。

顔は向けずに限界まで右に目を向けると、紫も苦笑いながら笑みを浮かべて藤花を見ていた。

「いいじゃないのー」と藤花は不貞腐れて見せつつも、すぐにまた無邪気な笑顔に戻った。

「いやー、忘れるところだったよー。ほら、今乗っている新幹線って富士山が見えるところを通るんでしょー?これは見なきゃじゃない!」

と底抜けの明るさで言い切ると、

「あー、そっかー」

「確かにそれは見たいねぇ」

「うん」

と裕美、麻里、律の順に口々に漏らした。

「…富士山ねぇ」

と、これも我に返ったというのか、私がしみじみとそう呟くと、クスッと紫が片手で口元を抑える様にして吹き出し笑った。

それに気付いた私がふと顔を見ると、視線があった紫は一瞬真顔を見せたかと思うと、ニコッと普段から馴染みのある紫調の笑顔を浮かべて、今度は私の背後に視線を移し、次の瞬間にはため息混じりに呆れ調で言った。

「…もーう、みんなー?その話なら今回の打ち合わせの時に話したでしょうが」

「え?なんのことー?」

と言い出しっぺの藤花がそう聞き返すと、紫は一度めよりも大きくため息を一度吐き、今度は苦笑混じりに言った。

「もーう、富士山の話はその時にもしたでしょー?…私たちの席からは見れないって」

「…えー!?」

と、今度は藤花だけではなく、恥ずかしながらも私を含めた全員で声を上げた。

「そうなのー?」といかにも驚いている風な藤花が続けて聞き返すと、「そうだよー」と紫はニヤケつつ返すと、おもむろに親指を自分の真後ろに向けた。

「私たちの座ってる左側の席じゃなくて、右側の席からしか見れないんだよ」

「えー」

と揃ってボヤきつつ、私を含めたみんなで紫の指の先を見た。窓際の律と藤花は中腰になってまでだ。

「へぇー、そうだったんだー」

とその直後に今度は麻里が相槌を打った。紫とはまた別の類のニヤケ顔だ。

「そうだったんだー…って、麻里、あなたねぇ」

と紫はジト目を麻里に向けつつ言った。

「打ち合わせの時は私が話したけど、内容はあなたと一緒に調べたでしょうがー?」

「そうだっけ?」

と麻里がこれまた分かりやすく白を切ったのを聞くと、「もーう…」と紫は呆れ笑いを浮かべたが、ふとチラッと、今だにほっぺをプクーッと膨らませて「そのために窓際に座ったのにー」と、本人もこれが喫茶店のフォーメーションのままだと知ってて藤花がボヤいているのを見て、クスリと一度笑みをこぼすと、先ほど、私と妙な雰囲気になってからずっとリュックに突っ込んだままだったもう片方の手をモゾモゾと動かし始めた。

それに気付いた私は、先ほどの件もあってジッと事の成り行きを見届けていたのだが、ふとその動作が止まると、紫はチラッと意味ありげに私に目を細めるような笑顔を見せた。

それに思わず小さくビクッとしてしまった私を尻目に、紫はリュックの中から一冊の冊子を取り出した。

この時点で皆も気付いて、私の時の様に見るがために身を乗り出すと、それはどうやら修学旅行のしおりの様だった。

私たちが何も声を発しないのを気にする事なく、紫はペラペラとページをめくった。

そして、目当ての箇所を探り当てたのか、それに目を落とすと、何度か確認作業をして、それから顔を上げて、私たちの顔を一通り眺めると、次の瞬間にはニコッと親しみある笑みを浮かべつつ口を開いた。

「ふふ。まぁ…富士山はさ、麻里と調べたところによると…」

とここで一度スマホのスリープを起こして画面を見た。

それからまた手元のしおりに目を落としつつ口を開いた。

「今が大体東京を出て三、四十分くらいだから…熱海を通過した頃ね!」

と最後に言い終えると顔を上げたが、次の瞬間、ゴーッという風の大きな音とともに、両脇の窓が一気に暗くなった。

私だけではなく、皆して窓の外を見た。窓には暗闇が広がっており、簡易な鏡の役割を果たして、ボンヤリだが私たちの姿が映し出されていた。

「あ、トンネルに入ったわね」

とボソッと言ったのにも関わらず、風切り音の鳴り響く車内でもその声が聞き取れた私たちが振り返ると、紫はなんだか不敵な笑みを浮かべていた。

トンネルに入った事によって、クリーム色の柔らかな薄暗い照明の下のせいで、その効果が余計に増幅されていた。

と、その時、紫はぱたっとしおりを閉じると、「えぇっと…」と不意に上体だけ通路上に乗り出し、そして前後を眺め回し始めた。

急に何をし出すのかと、他のみんなで顔を見合わせていたのだが、後ろをジッと見つめていたかと思うと「あっ」と紫は声を上げた。

そしてまた私たちに振り返ると、一同を眺め回して、それから最後に藤花に視線を止めると、ニーッと悪戯っぽい笑顔を浮かべて言った。

「…仕方ないなー。じゃあ…特に藤花だけど、みんなのその希望を叶えてあげよう」


そう演技過剰に言うと、それからは何も言わず突然立ち上がり、そしてどんどん車両の後方に向かって歩いて行ってしまった。

あまりに突然の行動なので、またしても取り残された私たちで顔を見合わせていたが、「ちょっと紫ー?」と苦笑混じりに声を漏らしつつ麻里が後を追ったので、他の私たちも後を追う事にした。


後を追ったとは言うものの、一車両だけの中の話、すぐに追いついた。

紫と、私たちよりも一足先に追っていた麻里は、一番後ろの、進行方向から見て右側の二列席に顔を向けて話しかけていた。

私たちが近寄り、二人の視線の先を見ると、そこには、さっき私たちに親しげに話しかけてきた志保ちゃんが座っていた。

二人席を一人で座っている様だ。

これは事前に知らされていた事だったが、今回の修学旅行の新幹線での移動では、各車両に一人ずつ教師が割り当てられているとの事だった。

つまりは、私たちのいる車両は、志保ちゃんの担当というわけだ。

志保ちゃんは通路側に座り、窓側に荷物を適当に散らばらせていた。

近付くにつれて、徐々に三人の会話が聞こえてきた。

「いいじゃないの、志保ちゃーん」

と紫が猫なで声を使っていた。

「お願いだからー」

と麻里も続く。

「そうは言ってもねぇー」

と志保ちゃんは座ったまま腕を組みつつ返していた。

「…というかさ」

と私たちが着いたと同時に、志保ちゃんは腕を解くと紫と麻里を交互に見つつ言った。

「宮脇さんと新田さん、あなた達二人とも、学級委員になったというのに、まだそうやって私の事を志保ちゃん呼ばわりするのねー?」

と、字面だけでは中々分かりにくいだろうが、実際は悪戯っぽく冗談ぽく言っていたので、その場には和やかな空気が流れていた。

「えー、良いじゃないですかぁ」

とそう言われた二人は顔を見合わせて、意気投合して見せると、「全く…」と志保ちゃんはボヤいた。

と、その時、私達が到着したのに気付いたらしく、志保ちゃんを置いてこちらに振り返った。

と、ここでいの一番に私と視線があったので、

「もう…一体なんなのよ紫?」

と先ほどの事がまだ心の何処かに残った感覚を覚えつつも、それでもいつも通りに不満げに声をかけた。

すると、紫はすぐにニコッと笑うと、私、そして藤花に視線を流した。

そして次の瞬間、少し後ろの方にいた藤花の手首を掴んだかと思うと、そのまま自分の方に引っ張った。

「藤花、ちょっとこっちに来て」

「な、なにー」

と藤花は気づけば私の真横に立たされた。

と同時に、麻里はいつの間にか私と藤花の後ろに引き、紫も同じ様な行動に出たので、必然的に私と藤花が一番志保ちゃんに近くなった。

そして紫が私と藤花の背中を同時に軽く押してきたので、「ちょ、ちょっとー?」と二人で後ろを振り返りつつボヤいた。

すると紫はそんな私たちの顔をニマッと笑いつつ見た後で、不意に私と藤花の間に顔を入れて出した後言った。

「ほらー、琴音と藤花、あなた達は特に学年の中でも志保ちゃんのお気に入りの二人なんだから、あなた達から頼んでよー」

「…ふふ、もーう、一体なんの事なのよ?」

と、その物言いが妙にツボに入った私は、思わず笑みを零しつつ愚痴る様に、色んな意味合いを込めて言うと、ますますニヤケ度合いを強めて、しかしどこか照れ臭そうに言った。

「あはは。いやほら、さっき富士山がどうのって話をしてたでしょ?でさ、今熱海を通過してすぐにこうしてトンネルに入った訳だけど、これを出たら前方に徐々に大きく富士山が見え出してくるんだよ」

「へぇー」

と藤花が相槌を打つ。とその直後に、私と麻里を含む他の四人も同じ反応を示した。遅れて志保ちゃんもついでと続く。

紫は、そんな私たちの反応に満足そうにしつつ、続けて言った。

「でさ、志保ちゃんの席って右側の席でしょ?だからさ、他のみんなに席を譲って貰うのはちょっと悪いから、せっかくこの席に一人でいるんだし、志保ちゃんに富士山が見える間だけ席を借りようと思ったってワケ」

「なるほどー」「なるほどー」

と、他の私たちでそう返したのだが、一緒になって志保ちゃんも同時に同じ反応を示した。

それを意外に思った私が志保ちゃんの顔を見ると、志保ちゃんは志保ちゃんで、後衛に行った麻里と、相変わらず私と藤花の間から顔だけ前に出している紫に、苦笑混じりに言った。

「なーんだ、そういうことかぁ。急に『席を代わってくれませんか?』って聞いてくるものだから、てっきりずっと席を譲って欲しいって頼み込んできてるものとばかり思ってたよー」

とここまで言うと、「んー…」と数秒ほどまた腕を組んで考えるポーズをしていたが、「うん!」と頷きつつ声を上げると、私たち全員をぐるっと見渡してから笑顔で言った。

「そういう事なら、別に構わないよ。どうぞー?」

「あ、ありがとー!」

とその言葉を聞いた途端に、藤花が志保ちゃんに飛びかかった。

「ちょ、ちょっと、藤花さん?」

と、当然というか志保ちゃんは抱きついてきて、自分の胸元に顔を突っ込んでいる藤花の頭を見下ろしつつ苦笑いを浮かべていたが、それでもどこか慣れた感じに見受けられた。

『藤花さん』も板についている様で、不自然さが微塵も無かった。

とこの時、ふと私と視線があったのだが、私は私でそんな藤花の行動に同じく苦笑い…いや、呆れ笑いを浮かべていたのだったが、少しの間二人で見つめあった後、「ふふ」と二人同時に微笑み合うのだった。

と、その時、先程来ずっと車内に鳴り響いていた風切り音が徐々にまた大きくなっていったかと思った次の瞬間、急に目の前の大きめな窓が真っ白に変色した。

と同時に、強烈な光が辺りを包んだので、すぐには目が慣れず、しばらくは目の前がホワイトアウトしてしまっていたが、まぁほんの一、二秒も経ってなかっただろう、目が慣れると目の前には長閑な田園が散在する、関東平野が広がっているのが見えた。

そんな中でも、所々に工場の様なものもチラホラと散見出来る中、私の位置から見ると、その工場の建物の背後に、でんと大きく霊峰富士が、雄大に天に向かって聳え立つのが見えた。

私たちが普段いる高度では、最近の異常気象のために五月の終わりで既に蒸し暑い日々が続いていたが、富士山の山頂には雪がしっかりとこの位置から確認出来て、雲一つない五月晴れの豊かな陽光を、キラキラと反射している様に見えて、とても神秘的で綺麗だった。

「おー!」

と私、それにいつもなら滅多に声を上げる事のない律までもが黄色い歓声を上げつつ、まだ志保ちゃんが座ったままだというのに、一斉に我先にと窓に詰め寄った。

その直後、おそらく私たちの声がキッカケだろう、それに加えて何に対して歓声を上げたのかも察したらしく、波状的に「おぉー!」という声が所々から聞こえてくる様になり、最終的にはこの車両の全体で一気に空気が変わったのだった。

「ちょ、ちょっとー」

と志保ちゃんは座りつつ、両手で押し寄せてくる私たちの体を押し退けつつ言った。

「もーう、そんな慌てなくても富士山は逃げないよー?」

「あ、すいませーん」

と一番近くにいた紫が平謝りをすると、「もーう…ふふ」と一度笑みを零してから、「よっこらしょ」と中腰になりつつ横に移動して、そして通路にやっとのことで出ると、腰に両手を当てて、足を肩幅よりも若干幅広く広げつつ立って言った。

「さーてと、じゃあみんな、私はこれからまた見回りに行ってくるけれど、その間は”な・る・べ・く”静かにしてるんですよー?」

「はーい!」

と、私と律を含むみんなでその場で手を挙げて、良い子ちゃんぶって返事をすると、クスッと呆れた様な笑いを残し、小さくこちらに手を振ってから、すぐ側の自動で開く貫通扉から出て行ってしまった。


志保ちゃんがいなくなった後で軽く話し合った結果、一番窓に近いところに藤花と麻里が行き、二人には頭を一番低くしてもらった。窓枠の底のヘリに頭を付ける形だ。

次に裕美と紫が中腰になり、紫は麻里の頭の上に、裕美は藤花の頭の上に自分の顔を乗せそうになるほどに近寄らせた。

最後は私と律で、二人はただその場で何もしないで突っ立ってるだけで済んだ。ちなみに私の前に裕美がいて、律の前に紫がいる形だ。

まぁ…これだけですぐに分かると思うが、要はこのフォーメーションは単純に背の順なのだった。


それからというものの、紫と麻里の事前研究の成果を耳にしつつ、徐々に近づいて来る富士山を眺めていた。

紫の解説通り、三島駅、新富士駅と通過していく中、見える景色、その構図がどの区間もそれなりに個性があり、その趣の違いにそれぞれが各様の感想をツラツラと口にするのだった。

そして、新富士駅を通過して一分ほどで、列車は富士川に架かる鉄橋の上を通過したこの時が、最後の富士山の絶景ポイントだった。

なんとなく写真か何かで見た事のある景色だったので、流石の私も思わず「おー」と声を漏らしてしまった。

とその時、皆で一斉に写真を撮っている中、ふと斜め下から視線を感じたので視線を落とすと、紫がこちらに向かって、微笑を向けてきていた。

…向けてきていたのだが、不意にここでまた先ほどの事を思い出してしまったせいか、その微笑みのどこかに、暗い影の様なものが差している様に見えて、それによってどこか意味ありげな、意味深な印象を受けてしまった。

と、そんな私の考えを察したのか、紫はニコッと目を細めて無邪気めに笑ったのだが、この時の私には、『さっきの事は今は聞かないでね?』と念をおされている様に感じたのだった。


富士山が後方に過ぎていってしばらくして、「あはは!」と不意に背後から笑われた。

その声に私たちがほぼ同時にその体勢のまま後ろを振り返ると、そこには悪戯っぽい笑顔の志保ちゃんが立っていた。今度は両手では無かったが、片手を腰に当てている。

「おかえりなさーい」

と藤花が声をかけると、「うん」と志保ちゃんも笑顔で返していたが、ふとここで顎に手を当てたかと思うと、目を細めつつこちらを観察する様に見てきた。

突然の行動に、何事かと私たちはそれぞれ顔を見合わせていると、「あはは!」とこれまた急に一人笑い声を上げた。

「あはは、なんかこうして二人席の所に六人も人が固まっているのは、シュールで面白いわね!」

とここまで言うと、一度言葉を切ってから、またもや悪戯小僧宜しい笑みを浮かべて続けて言った。

「面白いし、せっかくだから写真でも撮ってあげるよ」

「え!ほんとー?」

と藤花がすぐに歓喜の声を上げると、「良いねー」と裕美、麻里、紫と続いた。

私と律はというと、二人顔を見合わせて、そしてその直後には「ふふ」とお互いに微笑んでからコクっと頷きあうのだった。

「じゃあ、お願いしまーす」

と紫が志保ちゃんに声をかけながら、一度私たちのスマホを一手に回収したそれらを渡した。

「はいはい」

と志保ちゃんが六台のスマホを受け取るその光景を見て、私は中学一年時の、研修旅行初日の移動中に立ち寄った海上のパーキングエリアで、今と同じ様に志保ちゃんに写真を撮って貰った事を思い出していた。

あとで聞いた話では、その場にはいなかった麻里以外みんなが同じ感想を覚えたとの事だった。


…ふふ、誰か一人のスマホで撮って貰って、それを皆で共有すれば良いと思うだろう。まぁ、撮る人もだろうが、撮られる側も面倒ではあるから、私たちもそう思わないでもない。

しかし、それでも自分のスマホで撮って欲しいというのが皆の共通認識だった。麻里もだ。

だから三年生になった今でもこのやり取りは続いていたのだった。


さて、今度のフォーメーションは、先ほどまで一番後ろにいた私と律はその場でしゃがみ込み、その後ろをさっきと変わらずに裕美と紫が中腰、そして藤花と麻里が後ろで普通に立った。

右側の席は方角的に北寄りだったのが幸いして、逆光に苦しめられることも無かったのは助かった。

そしてそれからは思い思いに好きなポーズをとると、志保ちゃんに何度も写真を撮られるのだった。

写真を撮られている間、私は今だに紫の件がずっと胸につっかえているのを覚えていたが、しかしそれよりも今の時間がとても楽しく、それなりに楽しんだ。


ここまでで乗車時間は一時間経った辺りだ。広島まではもう二時間以上かかる。

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