灰は灰に

最寄ゑ≠

第1話

  

  古い童話の中から何かが


  白い手で呼び寄せる


  それは歌い、響かせる


  魔法の国について



戦渦の街、老人が灰を掃き集めている


―なあ御亭主、面倒な事を言わんで呉れ

 フューラーのお気に召さない本を何冊か持って行くだけさ

―フューラーの好みなんぞ儂の知った事か!

 官憲の犬に呉れて遣る本等一冊も無い、とっとと出て行くんだな!



  この国では色とりどりの花が


  金色の夕日の中で咲き乱れ


  心地良い香りを放ちながら


  花嫁の様な顔で輝く



幾日も幾日もそうしている


 憲兵は長い長い「フューラーのお気に召さないもの」のリストに目を落とし、深い深い溜息を吐きました。そこには彼が昔胸踊らせ憧れた高潔な英雄が、勇敢な戦士が、浮気な色男が、憎み切れない悪党が、ずらりと並んでいました。彼等の行く末を思うと、憲兵の心は一層と憂鬱に塞がれるのでした。

 


―御亭主、もう一度良く考えて呉れないか

 来週又来るから



  緑の樹々は


  太古の旋律を歌い


  そよ風は静かに鳴り


  鳥たちはその中で高らかにさえずる



忙しそうに立ち働く人々は老人には目も呉れない


 真夜中に書店が焼かれました。愛国心に染まった学生達は麦酒に顔を赤らめ、軍歌を歌いながら、店中に撒いたガソリンに火を点けたのだと言われています。大きな音を立てて崩れ落ちる書店を眺めていた学生達は、勝ち誇るかの様に、思い知ったか、民族の恥めと叫んでいたのだそうです。




  影入道が


  大地から姿を現し


  軽やかなダンスを


  素晴らしい合唱に合わせて踊る



夥しい灰が積み重なって塚を成す


 そんな風に何軒もの書店が、画廊や映画館が、或いは劇場が焼かれて行きました。フューラーが殺害され降伏が宣言されましたが、火の勢いは愈愈盛んに為るばかりでした。逃亡の国軍兵による見境の無い破壊と略奪が始まったのです。いっそ敵軍の爆撃によってであれば恨む事も出来たでしょうに、この街は誇り高き民族の同胞達の手で滅ぼされようとしていたのです。



  青い火花が


  すべての葉や枝に燃え上がり


  いくつもの赤い光が駆け回る


  あてどなく入り乱れながら



老人は折角築いた塚を掘り返している、陰気な墓暴きの様に


 大通りを煉瓦や材木を積んだ手押し車が行き交います。復興に励む街の人々の顔には安堵の笑みさえ見られる様になりました。時折鈍い銃声が響いて人々の表情に暗い翳が差しました。連合軍の兵士が国軍の残党を狩り出していたのです。



  泉が音を立てながら


  自然の大理石から溢れ出て


  小川の中では


  不思議なきらめきが光を放ちつづける



老人は塚の中から真黒な匣の様な物を取り出す


 老人が羽箒で丁寧に煤や灰を払い落すと、緋色の布に金箔の文字も美しい表紙が現れました。それは一冊の本でした。老人は小さな紙片に数字を書き付けて、そっと表紙に挿み込みました。



  ああ、その国に入ることができたら


  この心を楽しませ


  すべての苦悩は忘れ去って


  伸び伸びと、幸せでいられたら!



一冊、また一冊と本が並べられ、粗末な筵は鮮やかに彩られる


 若い兵士が興味を惹かれたのでしょう、あの緋色の表紙の本を手に取って頁を繰っています。"Dichterliebe"、見慣れぬ異国の言葉に戸惑う兵士は人懐っこく微笑みながら老人に尋ねました。


―爺さん、これ何て意味だい?



  ああ!あの喜びに満ちた国を


  僕はよく夢に見る


  でも朝日が昇ると


  はかない泡のように消えてしまう




―退廃さ、と老人は答えた




【手記】


 その夜テントに帰ってから、私は辞書も買っておくべきだったと後悔した。あの路上の書店にそれがあったかどうかは分からなかった。翌朝早い時間に撤収命令が下って、私達の連隊は次の街へ移動させられた。その街で知り合ったレジスタンスの男に件の本を見せると、突然「ハインリヒ・ハイネじゃないか!こんな物を何処で手に入れたんだ?」と叫んだ。成程忌わしい本なのかと思ったが、男は歓喜に震え誰憚る事無く涙を流していた。経緯を話してやると、男は流暢な英語で一節を朗読してくれた。



  素晴らしく美しい五月に、あらゆるつぼみが開き


  僕の心の中にも愛が花咲いた



 『詩人の恋』だ、と教えて貰った。私には理解出来なかった、老人はどうしてこんなに美しい詩を退廃などと言ったのだろう。「何て幸せな奴だ、お前は!」と男は呆れた様に言った。「お前達がそれを理解する日が決して来ない事を俺は祈ってやるよ!」


 あれから長い年月が過ぎたが、私達の社会で本が焼かれる事は決して無かった。芸術や映画、音楽が無慈悲な炎に曝される日は来なかった。今や私達の書店は世界の辺々にまで遍く存在している。そこには嘗てフューラーが退廃と呼んだものの数多が収められている。貴方達は何時何処に在ってもその全てに触れる事が出来るだろう。最早、それらが退廃と呼ばれる事は無い。



  昔の、いまわしい歌を


  嫌な、悪い夢を


  それらを今こそ葬ろう


  大きな棺桶を持ってこい



  わかるかい?どうしてこの棺桶が


  こんなに大きくて重いのか


  僕はこの中に一緒に沈めたんだ


  僕の愛と 僕の痛みを




―自由、と私達は呼ぶ。



(了)

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灰は灰に 最寄ゑ≠ @XavierCohen

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