強請り屋 静寂のイカロス
柚緒駆
第1話 ジロー
かつて結婚披露宴や立食パーティが開かれたのであろう板敷き床の大広間に、いまは
「
道士たちは拍手喝采、日月教団の信者たちは困惑の顔でざわめく中、会場の隅で一人床に座る少年。
年の頃なら十六、七。その水晶のような二つの目は虚空に焦点を結び、白磁の人形のようなその面には、揺らめくほどの表情すらない。スタジャンの背には鳳凰が羽ばたき、ジーンズをはいた膝を抱えている。名前はジロー。それが彼の認識する彼自身のすべてであると言っても良い。
「あの人たちが犯人だという証拠はあるんですか」
鋭い声が飛んだ。場の一同の視線は、ジローの隣に立つ髪の長い少女に向けられた。大きく意思の強そうな目を輝かせ、視線の圧力に立ち向かう。
「証拠。それは物的証拠の事ですか。ならばそんな物はありません。なくて良いのです。証拠ごときにこだわる者は、物事の本質を見失いますから」
「でもそれでは、誰も信じてくれません」
「構いませんよ」殻橋邦命は満面の笑みを浮かべた。「いまこの部屋にいる方々が信じてくださればね」
「そんな」
言葉を失う夕月の斜め後ろに電動車椅子があり、そこに付き添う女性が夕月をかばうように声を上げた。
「あの三人をどうするつもりですか」
そのショートヘアの女性、
「知恵あり道徳の心あらざる者は禽獣にひとしく、これを人非人という。と、お釈迦様もおっしゃっています」
「それ福沢諭吉ですよね」
「かも知れません。まあそれはともかく、人の命を
殻橋邦命は大広間の一同を見渡した。白い総髪が揺れる。そして一瞬の間を置いて、ニヤリと笑った口元から、その言葉が飛び出した。
「死をもって罪を
興奮による絶叫と、恐怖による嘆息に包まれた大広間から、ジローは無言で抜け出した。部屋の出口には給孤独者会議の見張りがいたが、彼には何も声をかけなかった。
天晴宮日月教団総本山の建物の六階、以前ホテルであった頃はスイートルームとして使われていた部屋の前に、見張りが立っている。革の上下に身を包み、どちらもスキンヘッドに剃り上げた二人は、エレベーターから降りて廊下を歩いてくる人影に警戒した。だがそれがジローだと見て取るや、警戒は解かれた。
一方ジローはそんな事など気にも留めず、真っ直ぐ部屋に向かって歩いてくると、ドアの前で立ち止まった。そして見張りに目もくれず、ノブに手を伸ばし開けようとする。しかしドアには鍵がかかっている。けれどジローはガチャガチャとノブを回す。延々と回す。見張りの二人は顔を見合わせた。
「どうする」
「どうもこうもないだろ。代受苦者だしな。ぶん殴る訳にも行くまい」
「じゃあ入れてやるのか」
「別に何が出来る訳じゃなし、構わんだろう。入れてやれ」
そう言われた方の男は、ポケットから長い直方体のキーホルダーがついた鍵を取り出し、ドアノブに差し込んだ。
ジローが部屋の中に入ると、築根
「いったい、こんな子供に何が出来ると言うんだ」
しかし五味は、その小汚い無精髭面を向ける事もなく、鼻先で笑った。
「ガキには『ガキの使い』ってのが出来るんだよ。ジロー、何してる。さっさとこっちに来い」
ジローはゆっくりとした足取りで、それでいて吸い寄せられるかのように五味の前に歩いて来ると、視線を虚空に泳がせたまま無言で立つ。五味は体を起こすと、ソファに座り直した。
「よし、おまえの見てきたものを出せ。まずは殻橋邦命を、ただし小さな声で、だ」
五味の言葉にうなずく事すらなく、ジローは腰に両手を当てた。そして脚を肩幅に開く。その少し右に重心のかかった脚の角度、腰に当てる手の位置、胸の張り具合も少し上向きの顎の角度も、そして周囲を見下ろす視線に至るまで、さっき大広間にいた者が見ればすぐにわかったろう、それは全てが殻橋邦命の完全なるコピー。これこそがジローの特技であり、五味がジローを飼う理由であった。
「築根と原樹という刑事、そして五味という探偵、この三人はグルなのです」
ジローが声のボリュームだけを下げ、殻橋邦命の演説をそのまま口に出す。
「ここで起こった数々の不可解な事件は、すべてこの三人こそが犯人。これぞまさに天啓。彼らをその原因とする事で、きっと必ずや、あらゆる謎が解明されると、ここに明言致しましょう」
口調の強弱、イントネーション、間の取り方も、すべてまったく殻橋邦命そのもの。五味はひとつ溜息をついた。
「やっぱりな、全部オレらのせいにする気か」
そう言う五味の肩をつかんで揺するのは原樹。その目は点になっている。
「お、おい、これ何をやってるんだ」
「見てわかんねえものは、聞いてもわかんねえよ」
ジローの顔に相手を見下すような笑顔が浮かんだ。
「証拠。それは物的証拠の事ですか。ならばそんな物はありません」
「開き直りやがった」
思わず苦笑した五味は、しかしその視線をジローから外さない。ジローの動き、すなわち殻橋邦命の動きを、見つめているのは五味だけではない。大広間では多くの目が見つめていただろう。その中には、真犯人の目もあったはずだ。五味はそう考えていた。
「知恵あり道徳の心あらざる者は禽獣にひとしく、これを人非人という」
「どっちが人非人なんだか」
築根麻耶のつぶやく声を聞きながら、五味の脳内ではいくつもの思考が並列的に行われている。どいつだ。コイツか。いや違う。ならば誰だ。
「死をもって罪を償っていただきます」
「おい、いまのはどういうこった。つまり殺すって事だよな」
思わず声を荒げる原樹の口を築根が押さえた。
「大きな声を出すな。気取られる」
「しかし警部補」
「まだ慌てるときじゃない。チャンスはある。そうだろう、五味」
五味は答えない。鼻の前でタバコを揺らしながら、何やら一心に考えている。そして不意にジローを止めたかと思うと、ある人物の名前を口にした。そのコピーを出せと命じたのだ。するとジローは歩き出し、窓際の籐椅子に座った。そのままじっと無表情に動かない。その様は、まるで時間が停止したかのようにも見えた。だが時間は停止などしていない。ジローが間違った訳でもない。何故なら五味だけは気付いたからだ。静寂の中、ジローの口元に、ほんの一瞬小さな笑みが浮かんだ事に。
「やっぱりな。そういう事かよ」
「間違いないのか」
問いかける築根を片手で制してタバコを灰皿にねじ込むと、五味は静かに立ち上がり、ゆっくりとした足取りでドアに向かった。内側から三回ノックする。数秒おいて鍵の外れる音。ドアが開くと見張りの片割れが顔をのぞかせた。
「何か用か」
「うちのガキは極端な偏食で、カレーライスしか食えないんだ」
困ったような笑顔を向ける五味に対し、見張りもいささか困ったような顔を浮かべた。
「それがどうかしたのか」
「悪いけど、ガキの分の昼飯を持ってきてくれるよう、事務の大松さんに頼んでくれないか。ルームサービスを頼むにも電話はないし、相変わらず携帯は使えないしね」
そんな事知るか、と言いたげな見張りの顔に、五味はトドメの言葉を一押しした。
「ほら、代受苦者だしさ。頼むよ」
見張りの男はムッとした顔で目をそらしたものの、マジックワードを出されては拒否も出来ないのか、小さく舌打ちすると「しばらく待ってろ」と言い残してドアを閉めた。
「どうなんだ、何とかなりそうなのか」
戻ってきた五味を、飛びかかりそうな勢いで出迎えた原樹に、築根は呆れたような声をかける。
「だから慌てるなって」
「よし、こうなれば私が突破口を開きます。警部補は逃げてください」
「よしじゃない、話を聞け」
頭に血の上ったデカい体の刑事の横を通り過ぎ、五味はまたソファに寝転んだ。
「とりあえず揃うべきは揃った。果報は寝て待てだ」
そうつぶやいて。
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