Day 3

暗くなりはじめてきた窓の外を見て

「すっかり暗くなっちゃったね・・・。和彦、日菜ちゃんのボディーガードお願いね」

「もちろん。ちゃんと送り届けるよ。ついでに、お店にお邪魔しようかな」

和彦さんと私は一華さんと別れ、私と一緒に桜が丘病院から「Full of heart」に向う。桜が丘病院を出ると、春の夜風と一緒に桜の香りが運ばれてくる。

何度も思うことだが、駅名にも「桜」と入っているだけあって、この地域は本当にたくさんの桜が花を咲かせている。場所によってはライトアップにも力を入れているので、お花見の名所でもあった。

そんな桜が立ち並ぶ道を、私と和彦さんはたわいもない話をしながら歩く。

「いいね、日菜ちゃん」

「はい?」

「いやー、最初は緊張してたみたいだったけど、最近はいい笑顔見れるようになったから。一華も言ってたよ。「日菜ちゃんくらいに私も優しく笑えたらいいんだけど」って」

見抜かれているだろうなとは思っていたけれども、やっぱり緊張していたことを感じられていたと知ると恥ずかしい。

でも、和彦さんと一華さんの言葉は嬉しかった。

「私なんて、そんな。茉莉ちゃんの方が明るいし積極的だし、笑顔も素敵だと思います」

「謙遜しなくていいんだよ〰〰?医者も絶賛する笑顔だ」

私は嬉しくて思わず微笑む。そして、ずっと前から気になっていたことを聞いてみることにした。

「あの・・・、失礼な質問だったらごめんなさい」

「日菜ちゃんは失礼なことなんてしないでしょ!なんでもどうぞ」

「一華さん・・・って、その、笑わない方、なんですか・・・?」

ずっと気になっていた。

一華さんはいつも無表情。

最初こそは「何か失礼なことでもしたのかな」と心配になったが、ここ1か月、茉莉ちゃんと一緒に働きながら桜が丘病院に行くようになって、色々な病院内の人とも会ううちにだんだん気づいてきた。


一華さんはどんな人にも笑わない。


それが私でも、茉莉ちゃんでも、木原さん達看護師さんやお医者さん達でも、彩恵ちゃんでも、和彦さんでも。

「ごめん、気まずい思いさせたね。俺からも何か話しておくべきだったよ」

「いえ!気まずい、なんてことはなくて・・・。一華さんの無表情は、冷たくないっていうか。でもなんとなく気になったんです」

「なんだろうねえ。俺も一華に何回か聞いたことあるんだ。でも」


―――分からない。いつの間にか、笑えなくなってたの。笑わなくちゃとは何度も思うんだけど・・・――――


そう言う一華さんの幼い頃のアルバムには、ちゃんと幼い笑顔の一華さんがいたという。

笑えなくなった時期がいつなのか、一華さんにもわからない。ただ、いつからか笑顔が出来なくなってしまった・・・。

「おかげで、一華は冷たい人だと何度も勘違いされてきた。今だってそうだよ。小児科は子供達と関わるじゃん?そこで笑顔がないって結構問題だよね。親御さんからも何回も嫌な顔をされたし、子供たちからも好かれてはいない。若い看護師さんやお医者さんも引いてるみたいだしねー。でも医療の技術と熱量だけは人一倍長けてるからさ」

ああ、そういえば。

彩恵ちゃんが私と初めて会った日、私と自己紹介を交わした彩恵ちゃんはこう言っていたはず。

「一華先生、友達できたね」

きっと、一華さんを1番近くで見続けてきた彩恵ちゃんは、心を痛ませてきたんだろうな。

私だったら嫌だよ。自分の好きな人が、親御さんや他の友達にいろいろ言われているのを見るなんて。

しかもその人が、本当は誰よりも優しい人だと知っていたらなおさら・・・。

「笑顔を見れないのは気にしてない。でも、一華は悩みや苦しいことを人に言えない性分だ。今回のことはちょっと寂しかった・・・いや、「ごめん」って気持ちかな」

「・・・え・・・?」

「1番近くにいて、救おうと思えばいつでも救えたのに。気づいてないわけではなかったんだ。何かがあったんだ・・って。でも、なかなか踏み入れなくってさ。さっきの彩恵ちゃんくらいに聞いてあげられたらなぁ。遠慮はいけないね」

その言葉になぜか心が苦しくなるのを感じていたら、桜の花びらが夜の風に乗って舞ってきた。


遠慮・・・。


何度もその言葉を心の中で反芻しながら、私はお店のドアを開ける。

可愛らしい鈴の音が鳴ると、お花のケアをしていた茉莉ちゃんが勢いよく振り向いた。

「日菜!心配したよ。遅かったね」

「ごめんね、茉莉ちゃん。ちょっと俺と一華が、日菜ちゃん借りちゃってたんだ」

「そうなんですか!あ、和彦さん。コーヒー飲みます?」

「ありがとう。 ・・・あ、そうだ」

荷物を置きに行くためにらせん階段を上っていた私。キッチンへ向かった茉莉ちゃん。

私達は和彦さんの楽しそうなその声に立ち止まって、和彦さんを見た。

和彦さんは両手を合わせて

「2人とも。来週の金曜日、ここ貸し切りにしてもらえない?ちょーっと遅い時間に来ることになるとは思うんだけど・・・、どうかな?」

私が聞いたこともない提案をしてくる。私が茉莉ちゃんの方を見ると

「大丈夫ですよ。 ・・・え?どして???」

かくっ、と首を傾げた。

そんな茉莉ちゃんに対して、和彦さんはいたずらを思いついた小さい子供のような笑顔で言う。

「彩恵ちゃんには負けられないよね。夫として」



和彦さんが来ると約束した金曜日。

予約された来店時間の15分前になると、私と茉莉ちゃんは2階の自分たちの部屋から、和彦さんらしき人物を探し始めた。肉眼で目を細めて暗い夜道の中の2人を探す私に対して、茉莉ちゃんはなんと、肉眼ではなく双眼鏡を装備している。

「茉莉ちゃん・・・、探偵みたいだね」

あまりにもシュールなその姿に突っ込まずにはいられなくなった瞬間、茉莉ちゃんは獲物を前にしたカマキリのような鋭い目をして

「来た!多分あの人!」

そう叫ぶと私の腕をつかんで、一気にらせん階段を駆け下りる。そしてお客さんに姿が見えないギリギリのところでとどまって、私たちは鈴の音が鳴り響く店内を見守った。


ごめん。今回は完全貸し切りで。家だといつもの雰囲気で、こんなこと言えそうにないからさ。


和彦さんはそう言っていた。

「あれ・・・店員さんは・・・?」

まずお店に入って声を上げたのは、一華さんだった。一華さんは病院帰りのようで、春物のトレンチコートを羽織って重そうなトートバックを肩に掛けている。

いつもの「一華先生」の姿ではないところが新鮮だ。

「やっぱ美人だよね・・・」

ため息交じりに言う茉莉ちゃんの声に顔を上げてみたら、まさかのここでも茉莉ちゃんは望遠鏡装着。

そんな茉莉ちゃんに2人は気づくはずもなく、店内の本や花を見ている。

「今日は俺がお願いして、完全貸し切りにしてもらった。話が終わったら呼ぶから、それまでは2人っきりにしてくれって。家だとどうしてもいつもの雰囲気に飲まれて、言えそうにないから」

いつものように優しく言う和彦さんに、一華さんは動きを止める。

「・・・え、なんで・・・」

「忙しいのに時間作らせてごめん。でも一華とどうしても話したいことが・・・、いや、言いたいことがあって」

遠目からでも一華さんの表情に疑心と少しの不安が宿ったのが分かった。和彦さんはそんな表情のまま固まる一華さんに、はっきりと告げた。

「一華、大好きだ」

「・・・」

「一華のことが大好きだ。結婚する前も、結婚した今もその気持ちは変わらないよ。だから今の一華が心配なんだ」

「・・・な、なにそれ」

「毎日たくさんの人の命を抱えて走り続けてる一華が心配だ。一華は、世界一すごい医者だと俺は思ってる。だから、いろんな患者さんが一華に期待する。でも、一華は医者である前に普通の人間だ。だから苦しいこととか辛いことが沢山あるんだと思う。人の命を預かってる身なら、なおさら」

「・・・どういうこと?」

「彩恵ちゃんが教えてくれたよ。「一華先生が倒れて眠っている時、寝ながら泣いてた」って・・・」

「え、彩恵が?」

「きっと、一華の泣いている姿を見たから、彩恵ちゃんはあの時あんなに心配してたんじゃないかな」

驚きのあまり、自分の頬に手をやる一華さんを見た和彦さんは微笑む。そして、一華さんが自分の頬に当てた手をとって優しく握りしめた。

「一華の苦しいこととか辛いこと、俺にも半分分けてよ。全部とは言わないから。ほんの少しでいいから分けてほしいんだ。一華は・・・迷惑かけないようにって思ってくれてるんだよね。でも、俺はそんなの、迷惑でも何でもないんだよ」

「・・・」

「だって、一華のこと大好きだから。大好きな人が苦しいことや辛いことを打ち明けてきて「迷惑」だなんて思うわけないじゃん?俺の前で頑張らなくていいよ。完璧でいようとしなくていいよ。俺は、努力家で、強くて優しくて、いつも全力で生きてて・・・、でも泣き虫な一華が好きだよ」

そのまま和彦さんは優しく一華さんを抱きしめた。

愛おしそうに一華さんの頭をなでる様子は、まるで映画のワンシーンのよう。そんなシーンを見ながら「和彦さんは私たちがここにいるだなんて思ってないんだろうなあ」という一抹の罪悪感を覚えた。

ごめんなさい、和彦さん。

私が心の中で謝った瞬間、不意に茉莉ちゃんが私を抱きしめてきた。悲鳴を上げそうになるのを何とか堪え、私は「何で私なの!違うでしょ!」と、小声で茉莉ちゃんに訴える。けれども、今の茉莉ちゃんにそんな訴えは届かないようだ。

その時、気が付いた。

一華さんが泣いてる。

あまりの出来事に私は茉莉ちゃんに抱きしめられたまま、和彦さんたちの方を見つめた。

「ようやく泣き虫一華が戻って来た」

ちょっぴり嬉しそうな和彦さんの声に対して帰ってきたのは、颯爽と病院の廊下を歩く一華さんからは想像もできないほどの、弱々しい声。

「・・・私・・・、何もしてあげられなかった・・・」

「・・・患者さんか」

「私が手術した子だった・・・。手術も無事終わって・・・、あと1週間すれば退院できたの・・・。でも、退院前日に・・・」

「・・・そっか・・・。ダメだったか・・・」

「その子も、その子のご両親も・・・あんなに、喜んでたのに・・・。分かってる。医者でもすべての命は救えない・・・。でも、その子のご両親に泣きながら「もう大丈夫だったんじゃないんですか、先生は何のためにうちの子を手術したんですか」って叫ばれた時・・・、私、何やってたんだろうって・・・。その子だけじゃない。救えなかった命を見るたびに・・・、何も出来なかったことが、ほんっとうに・・・本当に、申し訳なくて、何度も何度も、なんっども・・・謝ってた・・・」

どんな病気もすぐに分かって、メスを握ってあっという間に治してしまう。私たちはまるでお医者さんたちを、神様のように扱いがちだ。

でも、そんなこと全然ないって、今初めてちゃんと理解した気がする。

救えなかった命に直面して1番罪悪感を抱いているのは、お医者さんたちだ。

「教えてくれてありがとうな」

「・・・私、なんで・・・、あの子に・・・」

「一華はその子に生きる希望をあげていたんだよ。今回、その子にはもう時間がなかったのかもしれないけど・・・、きっと次生きる時に、その希望はその子の糧になる。一華がその子にしてあげたことは無駄なんかじゃない」

「大丈夫、大丈夫」そう言いながら優しく背中をさする和彦さんを、一華さんはゆっくりと顔を上げて見つめた。

「あはは、一華、すんごいひどい顔」

「・・・なにそれ、ひどくない?」

「ごめんごめん。お詫びにコーヒー一緒に飲もう。このお店、コーヒー淹れてくれるんだよ」

「・・・コーヒー・・・?」

「茉莉ちゃんー、日菜ちゃんー。お待たせしました!」

そのひと言で、今までずっと隠れてきた茉莉ちゃんは静かにらせん階段を下りて、なんだかお嬢様のようにスカートをつまんでお辞儀をしてみせた。その姿に、茉莉ちゃん本人も和彦さんも、私も思わず笑った。

きっと2人の雰囲気を和らげるための登場だったに違いない。

「ここの仮店長の、土田茉莉でーす」

「茉莉ちゃん・・・、日菜ちゃんも」

一華さんは涙で潤んだ瞳で私たちを見つめる。私はそんな一華さんにさりげなく笑顔を向けた。

「茉莉ちゃんがコーヒー淹れますので、お2人はそちらの席にどうぞ」

そう言いながら私が2人をカウンター席に案内していると

「今日のコーヒーは日菜が淹れな」

茉莉ちゃんがまさかの発言をした。

思わず2人の前で、差し出されたロイヤルブルーのエプロンと茉莉ちゃんを交互に見てしまう。

あれから何回か練習もしたし、上達はしてきたと思う。

けど、まさかのここで?

初めて淹れるコーヒーにしては、責任重大すぎるよ。

突然すぎる展開に完全に頭の回転が追い付かなくなってしまった私を見た茉莉ちゃんは、静かに吹き出して

「大丈夫!日菜ならできる。私も近くで見てるから、心を込めて、やってごらん」

お茶目にウインクした。


私は若干震える手で、コーヒー豆をコーヒーミルに入れると、ゆっくりとハンドルを回した。緊張からなのか、練習していた時よりもハンドルが重く、硬く感じて少し慌てた。けれども、力を込めてしっかりと回していく。しばらく経つと、中から柔らかい香りが漂ってきた。

音を立てて沸騰したヤカンのお湯で挽き終わったコーヒー豆と、2人分のマグカップを蒸らし、温める。

そこまで終えたところで思わず安堵のため息をつく私に、茉莉ちゃんは静かに頷いていた。

そしていよいよ、今度はマグカップにコーヒーを注ぐ。

その時、まるで人と人が繋がるかのように私が淹れたコーヒーがコーヒーミルからコーヒーポットへ、コーヒーポットから2つのマグカップへ注がれていることに気が付いた。

今まで何気なく見ていた作業が、なんだか特別な瞬間に見える。立ち上る湯気でさえ、優しい風のように感じられた。

「どうぞ」

私はそれまで花を眺めて待っていた夫婦の前にマグカップを差し出した。見ている私たちが思わず微笑んでしまうほど、同じタイミングでコーヒーを口に運んだ夫婦は、チラリとお互いを横目で見あう。

その瞬間、なんだか心が一杯になっていくのを感じた。温かい何かが、私の心にも注がれていく感覚がした。

「うん、美味しい」

和彦さんがそう言い、一華さんが頷く。

「いい香りだね」

「やったじゃん、日菜」

和彦さんと一華さんが笑顔で言ってくれるまで、私は別世界にいるような感覚になっていた。緊張で心臓が音を立てて、なんだか足元もふわふわしていて落ち着かない。

そんな状況の私に代わって、一華さんの言葉に茉莉ちゃんが反応してくれた時、ようやく私は我に返り「ありがとうございます」とお辞儀をした。

すると

「日菜ちゃん・・・、・・・ありがとう」

一華さんが、笑顔はないけれども、とびきりの優しさが込められた声で言ってくれた。

「はい・・・!」

今までの人生の中で何度も聴いた言葉だったけど、この時ばかりは生まれて初めて聞く新しい言葉のように思える。

「茉莉ちゃんも、いつもありがとう」

そう言われた茉莉ちゃんも「いやいやいやいや!あははは!」と、嬉しさで羽が生えて空へ飛んでいきそうなほど舞い上がった。そんな茉莉ちゃんを見た和彦さんは、お腹を抱えて笑う。

そんな和彦さんと茉莉ちゃんを見ていた一華さんが、不意に何かを思いついたような表情で言い出した。

「ねえ、お花買って行ってもいい?」

一華さんの視線の先には、カラフルな花たち。

「もちろんです」

「彩恵に、プレゼントしたくて」

彩恵ちゃんに一華さんが選んだ花は、真っ白なカスミソウ。

確か・・・。

「清らかな心、無邪気、感謝」

「え?」

きょとんとする一華さんに、私はちょっと得意げな気分で言う。

「カスミソウの花言葉です。彩恵ちゃんへのプレゼントに、ぴったりだと思います」

後日、私は彩恵ちゃんに手紙を直接渡すために、一華さんはカスミソウを渡すために彩恵ちゃんの病室を訪れた。

「日菜ちゃん」

「はい、これ」

私が封筒を差し出すと、彩恵ちゃんはふわふわした頬をほのかにピンク色に色づかせる。

何度も封筒を眺めるその姿に、今回はいつもの封筒と便せんよりも少し高価な、かわいいものを買って正解だと思った。

「・・・彩恵」

そんな私の隣に立っていた一華さんは、遠慮がちに声を掛けると、ずっと後ろに隠し持っていたカスミソウを差し出す。

差し出された雪のように白いカスミソウに、彩恵ちゃんは「わあ、綺麗」と笑うが、すぐに

「こないだはごめんね、一華先生。わたし、意地悪しちゃった」

ぎこちない笑顔を浮かべたまま言った。

「そんなことない」

きっぱりと言い切った一華さんは、そのまま彩恵ちゃんのベットにそっと座る。いつもよりもずっと距離が近くなった一華さんと彩恵ちゃんは、どこか似ているように思えた。

「彩恵は、何も悪くない。悪いのは・・・私だから」

「・・・わたし、好きだよ。嘘ついてる一華先生も」

「・・・え・・・?」

「一華先生の嘘は、優しい嘘だもん。こないだは・・・、嫌なこと無理に聞こうとしてごめんね?」

一華さんの心がいっぱいになったのが、一華さんの瞳で分かる。一華さんの目にはキラキラ光るしずくがあった。私はそんな一華さんに思わず微笑むと、そっとハンカチを渡した。

「ハンカチあります、一華さん」

彩恵ちゃんはそんな私と一華さんにころころと笑いながら

「もー、また泣いてる〰〰。いつものやったげる、後ろ向いて」

「え、いい。日菜ちゃんいるし」

「いいからいから」

なぜか恥ずかしがる一華さんに後ろを向くように言うと、小さな手で一華さんの肩をマッサージし始めた。

「なんだかおばあちゃんになった気分。 ・・・実際、もう若くはないんだけど」

「お客さん、今日も肩凝ってますねえ〰〰」

彩恵ちゃんの芝居口調に私は笑う。そんな私を見た彩恵ちゃんは、なんだかとっても嬉しそう。

一華さんはそんな彩恵ちゃんの小さな手を真っ白な手で包み込んだ。

「彩恵の手はいいね。辛いこととか・・・、悲しいことがあっても、彩恵の手を握ると安心できる」

そう言った時、一華さんの涙がキラキラ瞬きながら、一滴だけ落ちていった。

「ありがとう、彩恵」





「そういえば、カスミソウの花言葉、なんで知ってたの?」

お風呂上りにドライヤーで髪を乾かしていたら、同じように火照った頬をした茉莉ちゃんが隣にやって来た。

入学祝いにおばあちゃんにねだった高めのドライヤーの風音に邪魔されないように、私はいったんドライヤーのスイッチを切る。不意に私たちの間に沈黙が訪れた。

「・・・こないだ、ちょっと勉強してた」

「おお。すごい。あと・・・、コーヒー淹れるの上手だったよ。初・コーヒー淹れお疲れさま」

「ありがとう」

「上出来だよ。これからはコーヒー入れるのを日菜の仕事にしてもいいかもね」

そう言って、またしばらく沈黙の時間が続く。

その時、私は今よりもずっと自分が小さかった時のことを思い出していた。

その頃はまだ私の両親も日本にいて、よく茉莉ちゃんが我が家に遊びに来てくれていた。

こうやって2人で洗面台に立った時、茉莉ちゃんにヘアアレンジしてもらうのが私は大好きだった。茉莉ちゃんはいつも私が知らないようなことを何でも知っていて、私ができないようなことを何でもしてくれる。

そんな茉莉ちゃんは、私を本当によく褒めてくれた。

2人で洗面台に立った時、茉莉ちゃんは私が上手に三つ編みができたら何度も何度も頷いて、拍手をして褒めてくれていた。

時間が経っていつの間にか気まずくなってしまったし、心なしか遠慮しちゃってたなあ。

なんだろう。大人になったからこそ感じる何かなのかな。

なんだか小さい頃よりも茉莉ちゃんが遠くにいる気がしていた。

でも、コーヒーを淹れてるあの時、茉莉ちゃんが頷いてくれるのを見た時、ちょっとだけ・・・、小さい頃に戻れた気がして嬉しかったな。

そんなことを思う私の脳裏に、和彦さんの声が響いた。


―――大好きな人が苦しいことや辛いことを打ち明けてきて「迷惑」だなんて思うわけないじゃん。


―――遠慮はいけないね。


「・・・あのさ、茉莉ちゃん」

「うんー?」

「・・・私、ほんとはここに来るの、ちょっと嫌だった。単純に、今まで住んでた家から離れて違う場所で暮らすっていうことが、不安だったし・・・」

「・・・」

「茉莉ちゃんにも・・・、なんか小さい頃とは違って、なんていうのかな・・・。なんだか、遠慮してる自分がいたんだ」

「・・・日菜は小さい時から、少し臆病だからね」

「でも、今はそんな気持ち全然ないや」

おかしいね。

そう言った瞬間、茉莉ちゃんが顔に美容パックを施したまま私を抱きしめて来る。「うわ」と声を上げた私など気にも留めずに、茉莉ちゃんは私の頭をぐしゃぐしゃにしながら抱きしめた。

「日菜は可愛いねえ〰〰。今も昔も」

「え??」

「日菜の本当の気持ち知れて嬉しいよ」

髪の毛がぐしゃぐしゃになった私と、幸せそうに私を抱きしめている茉莉ちゃん。

鏡越しにそんな自分たちを見て、なんだか私まで幸せになった。

「いやー、実は私も、日菜と暮らすの、結構緊張してたんだよね」

「えっ」

「だって何年も会ってなかったのにいきなりシェアハウスなんてさ。もしかして無理やりすぎたかなーって。だから色々・・・、まあね」

ようやく気が付いた。

あの日、茉莉ちゃんが突然私を映画に誘ったあの日。

あの日突然私を映画に誘ったのも、私が「見たい」と言うような洋画を選んだのも私のためだったんだ。

「自分で言い出しといて、なんだか申し訳なくってさ。でも「いつも通り」が1番だったんだよねぇ」

茉莉ちゃんの優しさに思いがけず泣きそうになってしまった。

・・・でも、ここで泣いたら絶対からかわれるから。

「茉莉ちゃん。ずっと思ってたんだけど」

「よし!なんでも言いな!」

「私、この家に「シェアハウス」してるんじゃなくて・・・、「住み込みで働いてる」んだよね?」

「はい、ご名答!」

リズムよく突っ込みを入れた茉莉ちゃんに私が笑い、そんな私に茉莉ちゃんも笑う。

ようやくその時、窓から吹いてくる春の夜風を「切ない」とは思わなくなったことに気が付いた。

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