第33話 催眠療法
「さあ、こちらへ。この椅子に深く腰かけてください。背もたれを少し倒しますよ。リラックスして……そう、目を閉じて下さい。少し眠くなってきますよ……」
マジックミラーの向こうにいるかれんを、両親と宗一郎が見守っていた。
リクライニングシートに身を預けるかれんの力ない姿が、三人を不安にさせる。
角度の違う4つのモニターに、それぞれ映る彼女はいずれも憔悴しきっていた。
「さあ、だいぶんさかのぼったよ。ねえ花梨ちゃん、聞いてもいいかな? あの日のこと」
「あの日のこと?」
「そうだよ、山の奥のレンガでできた大きなお家、知ってるかい?」
「うん、健ちゃんの別荘よ」
「そうか、そこには素敵な森があるんだってね?」
「そう、リスがいるの。『リブ・イン・ザ・フォレスト』っていう絵本に書いてあったの」
「絵本?」
「うん、英語の本なんだけど、健ちゃんのママが日本語を書いてくれてる絵本でね、リスが虹の妖精のところに連れていってくれるって」
「そうなんだ」
急に顔をしかめる。
「花梨ちゃん、どうしたの?」
「悪いのは私なの」
「なにがだい?」
「健ちゃんが、やめとこうって、すごく止めたのに、私、どうしても森に行きたくてわがまま言って門の外に出て行った。危ないよって言ってくれてたのに、一人で行くって。でも健ちゃんがずっとついて来てくれてた。何度も何度も説得をしてくれてた。そしたら私、崖に落ちちゃったの。健ちゃんとりっちゃんがね、ものすごく一生懸命になって私を助けてくれた。健ちゃんだって怪我をしてたの。いっぱい血が出てた。やっと私が上がれるかなって思ったら、りっちゃんが落ちてきちゃった。足にすごい怪我してすごく痛いはずなのに、りっちゃんは私をグッて押して上げてくれたの。私のこと心配して健ちゃんに、花梨を頼むって。花梨を早く大人のいる所に連れて行ってって。りっちゃん、ぼくは大丈夫だからここで待ってるって言った。健ちゃんのことを信じてるって。私は健ちゃんにおんぶしてもらって、おじさんに助けられたけど、健ちゃんは自分も怪我してるのにすぐにりっちゃんの所に……いっちゃった」
最後は泣きながら話す彼女の手を握って、赤塚医師は落ち着いた声で言った。
「そうか、よく話してくれたね」
「あれ? りっちゃんは? ……りっちゃん!」
「花梨ちゃん、無理しなくていいんだよ。ゆっくり……」
「りっちゃん、あのまま落ちちゃってたんだ!だって健ちゃんだけ救助の人にだっこされて帰ってきたもん。りっちゃんがいなくて……でもわかんなくて、病院に連れて行かれた。部屋を抜け出したら、泣いているママとパパを見たわ。りっちゃんが死んだんだってその時……」
「花梨ちゃん! 花梨ちゃん! 中止します。バイタルは?!」
宗一郎が隣の部屋に駆け込む。
「心拍数は上昇しましたが、血圧は135-80、脈拍78、呼吸の乱れも落ち着いてきました。あ、意識が戻りそうです」
「大丈夫ですか?! かれんさん、三崎かれんさん」
すっと目を開けた。
心療内科医をまっすぐ見る。
「ここがどこかわかるかな?」
「病院……?」
「そうだよ。気分は? 悪くないかい?」
「ええ、大丈夫です」
「先ほどまであなたが話していた内容はわかるかな?」
「……はい、わかります」
「ではあなたのお名前を聞かせて下さい」
「東雲花梨です」
さゆりが病室のドアにもたれて泣き崩れた。
東雲亮一が支える。
「お母様は彼女に付いててあげてください。東雲さん、少しお話、いいですか?」
赤塚医師が少しはなれてはなす。
「ちょっと驚かれたでしょうが、想定範囲内です。安心してください。彼女はほとんど記憶を取り戻したようです。お兄さんのことも大切にされていたようですし、これからは その記憶も彼女の一部として、彼女の中で生きていくのです」
「わかりました。ありがとうございました」
「落ち着いたら帰宅して頂いても構いません。身体的な問題はないですが、心が癒えるまでは時間がかかるかもしれません。でも周りの支援で、必ず元のように過ごせるようになりますよ」
東雲と宗一郎を残し、さゆりはストレッチャーに乗せられたかれんと一緒に病室向かった。
病室前の廊下のベンチには由夏と葉月が待っていた。
かれんの様子に動揺して立ち上がった二人に、さゆりは目を合わせ頷いた。
二人はまた座り直し、ドアが閉まるのを見ていた。
「ママ……」
「ダメな母親ね、ごめん」
「そんなことない。私を守るためにずっと嘘をつき通してくれたんだもん。そのせいでパパと別れることにもなったんでしょう? わかるよ2人見てたら。パパなんて、ずっとママのこと待ってるじゃない? 私のせいで離れ離れになるなんて……」
「かれん……」
「でもそれだけじゃないね……りっちゃんのこと、私もすごく辛いけど、ママの感じた辛さは計り知れない……。色々な気持ちを遮断しないと生きていけないのって、解る気がする。私はそれに耐えられなくなって、記憶を失ったんだろうから」
「あなたに味わわせたくなかったわ」
「私、パパとママに守られてきたのね。何も知らず、呑気に幸せに過ごしてきた。もう充分よ。私はもう10才の少女ではないし、愛された記憶があるから。心配しないで」
さゆりの手を取る。
「でもねママ……」
そして彼女の顔を見上げた。
「健ちゃんは、何一つ悪くないよ。10歳の私のわがままのせいで、りっちゃんも健ちゃんも大きく人生を変えてしまった……」
さゆりは涙を押さえられなくなった。
「健ちゃんのこと、本当の息子のようにかわいかった。律が亡くなってから、健ちゃんが意識が戻らなくて入院しているとき、一度だけ会いに行ったの。でも律を思うと辛くて、彼の顔を見ていられなかった。それだけじゃない、素直に彼の無事を喜べない自分がいて、そんな自分も許せなかった。そしてあなたが記憶喪失になって……私はそれを口実に逃げたのよ。健ちゃんを見捨てた。本当はあの子こそ、心のケアが必要だったのかもしれないのに……」
「そうね……ママ。……ねぇ、健ちゃんって、今どうしてるの? 会ってみたいな」
「え……?」
うろたえるさゆりを不思議そうに見ている。
「あ……ちょっと喉が乾いたから売店で飲み物を買ってくるわね」
あわてて病室を出た。
由夏と葉月が心配そうにベンチから立ち上がった。
「お母さん、かれんは?」
「あ、大丈夫。落ち着いてるわ。二人とも中に入って話してやって」
「はい、あの……何かありました? 顔色がすぐれないようですが……」
「あ……いいえ、大丈夫。ちょっと出るので良かったら相手してやってください」
さゆりの後ろ姿を見送る2人。
「何かあった感じよね?」
「確かに……仕方ないわよね、記憶が混同してるんだろうし」
「じゃあ私たちも落ち着いて対応しなきゃね」
「うん。明るくいこう!」
「かれん! 気分は?」
「うん、だいぶん落ち着いた。心配かけてごめんね」
「そんなこと、気を遣わなくていいって!」
「また怒られるかもしれないけど、仕事の事、気になっちゃって!」
「かれんらしいわ、さすが……」
「Workaholic!」
3人同時に言った。
「本当に良かった、明るいかれんに戻って。ここ数ヵ月、辛そうで見てられなかったもん。こんな笑顔見れたの久しぶりだもんね」
「なんで? 私なんかヘンだった?」
「え?」
由夏が怪訝そうに聞いた。
「かれん、この前の仕事がなんだったか、覚えてる?」
「覚えてるわよ! レストラン『ルミエール・ラ・コート』のブライダルショーでしょ? ケーキビュッフェが充実してて、そう……オーナーは乾さん。どう! ちゃんと覚えてるでしょ! なにもヘンじゃないでしょ?」
「じゃあ……その時に藤田センセに会った時は……どんな気分だったの?」
葉月が控え目に聞いた。
「藤田センセ……、藤田センセって? 誰?」
由夏と葉月は息を飲む。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
白衣をまとった天海宗一郎が入ってきた。
「お母さんから話を聞いたんだけど、かれん……」
言葉を失った。
宗一郎を見るかれんは、明らかに初対面を思わせる表情だった。
かれんは回りの違和感を取り繕うように言った。
「あの……? あ! 由夏、わかった! この人が藤田センセでしょ?」
一瞬3人は呆然とした。
「何言ってんのよかれん! この人は……」
天海が由夏の方に顔を向けて、小さく首を横に振った。
「僕は天海といいます。天海宗一郎。この病院の外科医です。実は初対面じゃないんだよ」
「え? そうなんですか?」
「レストランのオーナーの乾、知ってる?」
「ええ」
「乾の友人なんだ、大学時代の」
「そうだったんですね! じゃあこの前のブライダルイベントにいらしてたとか……?」
「うん」
「ごめんなさい! きっとご挨拶してるはずですよね。私ったら失礼なことを……」
「いいんだよ」
「本当にすみません。乾さんのご学友なら東大ですよね? 凄い! 天海先生……でしたよね? ということは、この病院の?」
「うん、父が医院長をしてるよ」
「やっぱり! じゃあ……今回はだいぶんお世話になってますね」
「君の主治医も僕の友人なんだよ。名前を覚えてるかい?」
「はい、赤塚先生。でも天海先生より年上に見えますけど……」
「そう、高校と大学の先輩なんだよ。灘校バスケ部の」
「灘校バスケ部……」
「かれん、何か思い出したの? 藤……」
天海が制する。
「まあ、記憶が混同することはよくあるから、気にしないで。あまりストレスを抱え込まないようにね。じゃあ僕はこれで」
葉月に任せて、由夏は退室する天海のあとを追った。
「天海先生!」
立ち止まった天海は落ち着いた声で言った。
「彼女の記憶から欠落してるのは、今のところ僕と藤田くんのようだけど、まだ他にもいるかもしれない。もしそれが判っても、上手く促してやってくれませんか。気丈に見せていますが、彼女は過去を思い出したことで相当なストレスを感じているはずなんです。だから由夏さん、事実を突きつけることより、なるべく自然思い出させてやってください」
「必ず思い出すものなんですか?」
「いや、永遠に思い出さない事もある……」
「天海先生は……それでいいの?」
「もしそれで彼女が幸せなら」
背を向けたままそう言って、歩いていく。
向こうから来たかれんの両親に声をかけられるも、天海は軽く頭を下げて行ってしまった。
「天海先生……」
由夏が声をかけても、振り向かなかった。
さゆりが由夏に近付いて来た。
「宗一郎くん、様子が変だったけど……かれんと何かあった?」
由夏は病室でのやり取りを、かれんの両親に話した。
両親が病室にはいるその寸前に、藤田健斗が走り込んできた。
二人に気付かずに由夏に詰め寄る。
「かれんは?! 記憶を取り戻して倒れたって……で、かれんはどうなったんだ?! かれんは、今どこに?!……」
「藤田先生、ちょっと落ち着いて……かれんは大丈夫よ」
「でもあいつ、思い出したんじゃ? 思い出しちゃいけないんだ! 思い出したらあいつは……」
「健斗くん」
後ろから東雲亮一が声をかけた。
「おじさん……」
「ちょっと外へ出ないか」
健斗と東雲は中庭に出た。
「おじさん、かれんは……」
「大丈夫だよ」
「あの事故の事、全部思い出したんですか?」
「ああ」
「……そんな……あんな辛い思い……してほしくなかったです」
健斗はうつ向いた。
「それで君はかれんのために身を引いてくれてたんだね。大丈夫、かれんは強くて、もう大人だ。君の方こそ長い間、辛い事実をずっと背負って律の分まで、律のように、生きてきてくれたんだね」
東雲が健斗の肩を叩いて、抱きしめた。
「ありがとう、健斗くん」
「おじさん……」
「ただひとつ……実はね健斗くん……」
「何か問題が……あるんですね?」
かれんが上体を起こすのを、さゆりが支えてその肩にカーディガンを掛ける。
「外はいい天気なのよ。こんな日は外でも歩きたい気分……」
窓の外を見ると、健斗と東雲が話していた。
健斗の肩に手を置く東雲。
「……でも意外と日差しが強いわね」
そう言ってさゆりはブラインドを閉める。
さゆりが少しよろめいた。
「大丈夫ですか?!」
由夏が声をかける。
「大丈夫。少し外の空気を吸ってくるわ。かれんについててもらってかまわない?」
「もちろんです」
由夏と葉月がかれんに寄り添う。
「ごめんね。私の体が潜在的に思い出したくない過去を封印してたみたい」
かれんは15年前の出来事を、自分でも整理するように、ゆっくりと一通り話した。
由夏と葉月は涙ぐんで話を聞いていた。
「やだ、泣かないでよ」
二人がかれんに近付いて、三人は抱き合った。
「そんなに辛い思いをしてたなんて……大丈夫なの? 混乱してる?」
「混乱してないと言えば嘘になるけど。しばらく時間はかかるかもしれない」
「私たちを信じて! 仕事もなにも心配しないで、私たちに任せて!」
太陽の角度が変わった。
由夏はブラインドをあげる。
中庭に座り込んでいる健斗を発見した。
「かれん、ちょっと打ち合わせの電話入れてくるわね。ほら、『Frances Georgette』のPDが近々来日するでしょ? 各分野のスタッフのスケジュールを予め取っとかないとね!」
由夏の様子を見て、葉月もちらっと窓の外を覗いた。
廊下を出るなり、由夏は走って中庭に向かった。
第33話 『催眠療法』 -終-
→第34話 健斗の決意
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