第12話 帝央大学 健斗とレイラ

黒板のコツコツという音だけが響いていた。

ヒールの音が鳴らないように、忍び足で入ってくる。

後ろの出入り口から一番近い席に身体を滑り込ませる。

コツコツという音が鳴り始めたら頭を上げて、音が鳴りやんだら伏せて寝たふりをする。


まるで『だるまさんが転んだ』ね。

自嘲的に笑う。


     ねぇ あなたの目は

      誰を探しているの

     近すぎて 遠すぎて

   ここにいることすら気付かない


     ねぇ あなたの目に

      私は映っているの

    まるで蝶を 見るように 

    優しい視線はくれるけど


いつもそばであなたを見上げている

    春がきても 秋が終わっても

私がいつもここにいることを

今もあなたは気付かない 


頭を上げ下げしていると、2つ空いた座席越しにいた学生が、それに気付いた。

しきりにこちらを気にしている様子が目の端に映る。


「このように、「当たり前」と思えることを突き詰めるのが、大学数学の一側面です。一見すると当たり前に見えることの前提を明らかにし、直感だけで考えて間違えた議論をしないようにするために、定義は大事なのです」


准教授の低音の声だけが、教室の中に響き渡っていた。

内容が把握できないことも相まって、その心地いい声を聞きながら、本当に眠りそうになる。


しばらくして、長机の向こうの方からスッと小さな紙が差し出されたが、気付かない振りをして頭を伏せたまま、この講義の終わりを待った。


「それでは今日の授業はここまで。レポートの提出が2週間後に迫っているので、質問のある人は早めに来るように」


学生たちがガタガタと音をたてて、次々に退室していく。


黒板を消している准教授の周りを、多くの女子大生が取り巻く。


「藤田先生、質問いいですか?」


「なに?」


「ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学、どちらが正しいんですか?」


「お、悪くない質問だな、でも残念ながらどちらも正しいってのが答えだ。どんな公理を採用するか、出発点をどこにおくか、それだけの問題なんだ。それによって、のちのち展開される理論は変わって来るってわけ。ヒントになったか?」


「あ、はい。ありがとうございました!」


「次、私!」


「はいどうぞ」


「3年になったらゼミが始まるじゃないですかぁ? 数学科にはどんなものがありますか?」


「ジャンルで言えば、解析、代数、幾何、位相、統計、数値解析ってとこだな」


「じゃあ、藤田先生のゼミは?」


「私、先生のゼミに入りたい!」


「私も!」


「こら! そういう邪念を捨てて、自分将来に結び付くジャンルを選べよ」


「やだ、つまんない。キャンパスライフは楽しまなきゃ!」


溜め息をつく。


「先生!」


「何だ」


「モデル、やってましたよね?」


周りが騒然となる。


「私、ワールドコレクション、見に行ってたんです。先生がランウェイ歩いてるのを見ちゃって、ホントびっくりして! ほら、写真見る?」


「わぁ! 見る見る!」


「はいはい君たち、質問がないなら教室を出て」


「先生!」


「まだあるのか?」


「このあと学食でランチ一緒に食べませんか?」


「今日は授業がこれで終わりだから、昼飯は食わないで帰るよ。他には?」


「レイラと付き合ってるんですか?」


「君たち……未来の女流数学者になってくれるんじゃないのか?」 


「だって気になるんだもん」


「……ったく! レイラはただのいとこだ、母方の。もういいか?」


「そうなんですか!? 良かった!」


「じゃあ先生、さようなら」


まいったと言うように頭を振る。


本を束ねながら教室のすみに目をやると、それまで伏せて寝ていた学生がスッと身を起こした。


「学部の違う学生がどうしてそこに?」


「数学に興味が湧いたので」


「嘘つけ! いつからいたんだ? レイラ」


「終わりの方よ。健ちゃんの授業なんて長く聞いていられるわけないじゃない」


「だろうな、じゃあ何の用だ?」


「ただのいとこがお仕事の依頼に来たってだけよ」


レイラは机の上の紙をクチャクチャに丸めて、健斗に投げてくる。


「それ、捨てといて」


「なんだこれ。なになに、「レイラさん、ファンです。良かったらお食事でも」……って、これさっきの授業中に?」


こっくりと頷く。


「おいレイラ! うちの生徒の心を乱すなよ。日本の将来を担う数学者の卵だぞ」


「なに言ってんだか。もうここを出るでしょ?さあ、打ち合わせするわよ。モテモテの先生」


レイラはさっさと教室を出る。


「お前だってモテモテじゃねえかよ」


「今日はこの車、オープンにしてないの?」


窮屈そうにレイラが乗り込む。


「あのな、大学来るときにオープンにして乗り付ける教授がいたらどう思うよ?」


「意外とつまんない体裁気にするんだから。いいじゃない、チャラい大学教授なんだから」


「チャラい、は禁句だ」


「何で?」


「最近よく聞くワードで、俺もいい加減辟易としてる」


「今さら? あのね健ちゃん、オープンにしてなくても、こんな高級スポーツカーで乗り付けてるだけで充分チャラいの」


「厳粛な数学准教授をつまえて言う言葉か? 俺の授業は東大にも引けをとらないレベルなんだぞ!」


「ホント、健ちゃんって両極端よね?」 


レイラはサングラスをかけて、シートベルトを締めた。

「ま、そこがまたいいんだけど」


「何だって?」


「何でもない」


車が走り出す。


「どこかで昼飯だな、俺の店でいいか?」


「俺の店って、どの店? 『RUDE bar』?」


「いや、一番近くなら『サンセットテラス』だな」


ハンドルのボタンを押して運転しながら電話する。


「あ、支配人? お疲れ様。今日は混んでる?……そう。じゃあ今から二人で行くので。よろしく」


「健ちゃんってさ」


「何だよ?」


ハンズフリーイヤホンをはずしながら、滑らかに山道を走行する。


「まるでやり手の社長さんみたい」


「レイラ、それは冗談で言ってるのか? それとも何か知ってるから?」


「もしかして! CEOの話、受けるの?」


「やっぱり聞いてたのか…。ヘイスティングパパから?」


「うん。パパが藤田のおじさんから直接聞いたみたいよ」


「ひょっとして……俺がお前とモデル出演したりしてるのも親父は……」


「知ってるはずよ、パパに聞かれたし」


「マジか……」


健斗はハンドルにうなだれる。


「そんなに愕然とすることはないわ、ちゃんと大学で真面目に先生業もしてるって報告しておいたから」


「お前な! 上から目線か!」


「いいじゃない、オールマイティーで。これからの時代は多才で考え方の柔軟さが大切なんだから」


「まいったな」


「なんか魂が抜けちゃったみたいね。着いたわ、美味しいもの食べなきゃ!」


奥の個室で二人が向き合って食事する。


「しっかり食え。たんぱく質を摂らないと、炭水化物ばっかりじゃ太るぞ」


「親父臭いこと言わないでよ、モデルのレイラを捕まえてそんなこと言う?」


「食事制限とかしてないのか?」


レイラの注文したペスカトーレをちらりと見る。


「健ちゃんはしてる? 食事制限」


「してるわけないだろ」


「私も同じ」


「そっか家系的なもんだな」


健斗はオマールエビのテルミドールと格闘中だ。

「そんなことより」


「なんだ?」


「『JFMコーポレーション』、継ぐの?」


「あっさり聞くなよ。まあ……正直、めちゃめちゃ迷ってる」


「大学は?」


「もし継ぐなら、無理だろうな」


「准教授、辞めちゃうの?」


「まあ、今は議論中だ。俺のゼミは超人気だからな。簡単には辞めさせてもらえない」


「とかいって、ホントは数学者でいたいんじゃないの?」


「お前、意外と鋭いな」


「そう?」


  何年健ちゃんのこと見てることか、

  どれだけ頑張ってこの大学に入ったと

  思ってるのよ。


「何だ?」


「別に」


「親父がさ…」


「藤田のおじさん?」


「ああ、もう自分も年だからどうしても会社を継いでほしいって、頼んでくるんだよ」


「今まであまり干渉してこなかったんでしょ?」


「そうだな、むしろ俺のやることは何でも肯定的で、応援してくれてた。あの日からずっとだ」


健斗の視線が、少し落ちた。


「私、小さかったからあまり知らない、健ちゃんに何があったか…」


「そんなの知らなくていいんだよ、とにかく俺、むちゃくちゃだったけど、何一つ反対しなかった。思い通りにさせてくれたんだ」


「健ちゃん、むちゃくちゃの使い方間違ってるわよ。むちゃくちゃって言うのは社会に適合してないことを言うのよ」


「ほお、この俺に世論を説く気か?」


レイラは姿勢を正して座り直した。


「この際いわせてもらう、世間の常識から言えば、健ちゃんは全然、無茶じゃないよ! もともとただのバスケバカが、必死で勉強して灘高に入って、東大にも入って、博士号も取得して、一流大学の准教授よ! お父さんからしたら自慢の息子、そりゃ会社も継がせたくなるわ」


「ふうん、そうやって客観的に聞いたら確かに立派な息子だな。おまけにイケメンだし?」


「また茶化す」


「だけどな、ホントに俺、ひどい状態だったんだ、あの頃は……支離滅裂だったのに、父さんは何一つ反対しなかった、ただただ信じてくれて黙って見ていてくれたんだ。そんな親父がさ、初めて俺に頼み事をしてきたんだ、もう2年も待たせてる」


「そう、それで? そろそろ踏ん切りつけるわけ?」


「ん……まあ、一斉に片付くわけじゃないけど」


「そっか……健ちゃんが大学からいなくなったら、私も大学辞めちゃおうかな」


「なに言ってんだ!」


「だってつまんないもん」


「就活してないんだろ?」


「だってモデルでやっていけるし」


「大学は出とけ。Mr.ヘイスティングスに心配かけんなよ。それまでは俺もモデルだかなんだか付き合ってやるから」


「なによそれ! まるで子供のおもりでもしてるつもり?」


「まあ、そんなところだ?」


「失礼ね!」


「で。俺にその『お仕事』の話があるんだろ?」


「そうなの、なんだかムカつくけど」


レイラは山上ホテルのブライダルファッションショーの話をした。


「お前さ、仕事でウェディングドレスなんか着たら婚期が遅れるぞ」


「そんな古代の迷信なんて信じるわけないじゃない」


「ってか! 俺も真っ白のタキシードとかで出るのか?! そうなんだろ?! ……いい加減恥ずかしいぞ……出なきゃダメか?」


「由夏さんがノリノリなんだけど?」 


「あ、そうだった。『ファビュラス』の仕事だったな」


「そうよ。あ! 今、誰かさんの顔がよぎったでしょ?」


「何の話だ?」


 私が気が付かないとでも思ってるのかしら?

 それとも、本当に本人に自覚がないか…


「別に。で、受けてくれるわけ?」


「お前的には? 俺が出た方がいいのか?」


「そりゃ『ワールドコレクション』で話題になった二人だからね、しばらくカップリングされると思うけど」


「まあいい、わかった。あとしばらくしか遊んでやれないしな」


「もう! また保護者みたいな言い方して!」

「わかったわかった、ほら、食ったらいくぞ」


「ちょっと、待ってよ!」


長い足を折り畳むように、車に乗り込む。


「ヘイスティング邸でいいか?」


「ううん、『RUDE bar』でいい、健ちゃんも自宅に帰るでしょ?」


「ああ、論文仕上げないといけないからな」


「ホント、大変よね。何が楽しくて数学者になったりするんだろ」


「あ! わかった! お前、波瑠にレポート手伝ってもらう気だろ?!」


「ヤバ、バレたか!」


「お前なぁ、波瑠は忙しいんだから、やめておけよ!」


 ホントは今日は違う相談なんだけど…

 健ちゃんに言えるわけがない。

 根源が健ちゃんだなんて…


「ほら、着いたぞ降りろよ。まだ店は開いてないけど、波瑠はもう入ってるはずだ」


「わざわざ通りまで回って車を直付けしなくても、健ちゃんとこの駐車場でいいのに。無駄にフェミニストね」


「波瑠にタカるなよ! あ、俺今日はずっと家で論文やってっから、帰るとき連絡してこいよ。車で送ってやるから。じゃあな」


彼の声のような、低音のエンジン音を聞きながら健斗の車を見送る。


 なんてイイ男。なのになんで、

 こんなイイ女がそばにいるのに、

 気付かないんだろう。


『RUED bar』の扉を開けて、今度はコツコツヒールの音をたてて、階段を降りる。


「すみません、まだ開店では……、あれ? レイラ?」


「波瑠」


「どうしたの?」


「飲みたいの! なんでもいいから、強いお酒、出して!」


第12話 帝央大学 健斗とレイラ ー終ー


→第13話 天海の紹介 ルミエール・ラ・コート 















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