ボヘミアン オクタヴィア

saica

紅い男

月が夜道を照らして、数メートルごとに置かれた街灯に男が照らされる。男は暗さい色彩の上下揃いの服に、深紅のツギハギが見える古びたコートを羽織っている。歩くたびに、コートの裾がくたびれたように揺れる。それは実際にくたびれているのかもしれなかった。男の歩みは実に緩やかだ。


半分ほど開いたシャッターを片手で開いて、地下に下る階段を音もなく下る。そのうち左手に見えるドアノブに手をかける。扉は無機質な音をたてて開いた。まるで感情がないような感じだった。招かれてもいないし、もちろん拒まれてもいなかった。男は後ろ手で扉を閉めた。始めから終わりまで素っ気ない音がした。扉は、もうこちらを見ていないだろう。そして男の方も、振り返ることはしなかった。


店の奥から女が出てくる。男はコートを着たまま、力が抜けたように椅子に腰掛ける。かつては鮮やかな赤色をしていたようなベロアのソファは、もはやそのかつての輝きを失って、いたるところにシミや煙草の灰で焦げた跡がある。


「長く生き過ぎたのね」女が口を開く。


「生きてなんかいないさ、誰も死んだことに気がつかないんだ」


「自分以外は」


「自分以外は」男が繰り返す。


向かいのソファに女が座って、テーブルに置かれたランプがその顔を照らす。その目は男の方をぼんやりと見つめていた。ウイスキーがグラスに注がれる。その音に耳を澄ませて、男の目が細められる。そのまま眠りについてしまいそうな気がしたが、女の声で目を覚ました。


「貴方も飲む?」


「僕はやめておくよ」


男は背もたれに寄りかかり、煙草に火を着けた。女の薄く開いた目が変わらず男を見ていた。あるいは男のいる空間を見つめていた。男はそこに自分がいる確証がなかった。男は後者の案を採用することにした。深紅のコートがソファの一部になっていくような気がした。煙草の灰が落ちそうになってから、ようやく身体を起こした。


「貴方は、今ここにいるのかしら」

女が尋ねる。


「いつもここにいるじゃないか」


「…いないわ」

吐き捨てるように女が言った。男は煙草に口をつけて、煙を吐いた。二、三度それを繰返して、そうかもしれない、と言った。とても小さな声だった。灰が落ちるのと同時に焼け落ちてしまいそうな声だった。

男はいつから自分の言葉が影のようになる感覚を覚えたのだろう、と思った。そして実体は何処にあるのだろう、と思った。店に入ってから、よりその影が濃くなる感覚がある。女がウイスキー飲む。そのたびに女の輪郭が濃くなった。男が頻繁にこの店に来るのは、実体をそばに感じられるためでもあった。しかし、未だそれには辿り着けずにいる。


目がさめると水の中にいるような感覚がした。どれくらい時間が経っただろう。窓から漏れる街灯の明かりが優しく男のコートに落ちる。光の中にチラチラと埃が浮かんでいる。横になったまま再び瞼を閉じて、昨晩のことを思い出した。女がいた。白附 唯。懐かしい友人だ。あるいは友人だった。彼女はどこにいるんだろう?瞼を閉じていると、彼女の顔をいくらか鮮明に思い出すことができた。目を薄く開くと、視界は相変わらず霞んで、数メートル先の像すらまともに見ることができなかった。

男は再び瞼を閉じる。そして眠りについた。深い眠りだ。


……男が二度目の眠りに入った。

女が男を見下ろしている。男はソファの上に横になって、今にも沈黙に埋もれてしまいそうな寝息を立てている。時折、暫くの沈黙に包まれることもある。そうすると、再び寝息が聞こえてくる。男は影に飲まれつつある。女は男の隣に座る。それに気がつく様子はない。静かに、深い眠りについている。女は男の頰に人差し指の裏を押し当てながら、産毛を逆さに撫でた。「…が……な?」男は僅かに口元を動かして何か呟いたように見えた。それと同時に女が「それがいいわ」と言った。それ以上、男は何も言わなかったし、女も何も言わなかった。男を見ることも無かった。女はしばらくの間テーブルの上に転がるライターと煙草の灰を眺めていた。


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