待ちぼうけ

 「あなたはこれが好きだったわよね」

 腰かけた椅子から見える、天井からぶら下った輪っかには、僕の母が映っていた。僕はそれに舌打ちをする。

 確かに母のいう通り好ましい食べ物だったことに変わりはなかった。今でも好きだし、毎日でも食べられそうなぐらいだ。

 だけど、それだけを食べさせるのはどうだろう。

 僕は「当てようか、母さん」と一人呟いた。「母さんは僕が変化を伴うのを面倒くさく思っている」

 だけどそれを認めたくないから、「好きなら食べなさい!」と怒号を挙げるしかないのだ。白飯もなし、みそ汁もなし。僕が好きだといったおかずのみが、僕の食卓には置かれる。

 だから必然的に、後の人生では、好きなものをいうのをやめたんだ。

 好きなものを公表してしまえば、他人から見た僕のイメージはそれが定着する。そしてそれを書き直すことは少々面倒だ。

 以前、世界一の絵かきになるといっていた友達が絵を辞めた途端、周りから囃し立てられていたのを見たことがある。それは、彼は絵かきだ、という概念が定着して離れないから起こったのだと僕は思う。

 そんな友達をよそ目に、僕は一人で愛想笑いを繰り返していた。

 そして、彼は死んだ。僕が高校三年生の時だった。死因は自殺。いじめの可能性を示唆するものは幾らでもあったのに、全てなかったことにされた。

 僕はこうして社会人に至るまでの短い道のりで、何度も彼のことを思いだしていた。僕が助けに入っても何の影響もなかっただろうことは明白だが、それでも、後悔は知らず知らずに積もっていった。

 社会に出ても、別に今までの日常となんら変りはなかった。語れずじまいの夢は、元々そこになかったかのように空洞を作っていたし、伝えずじまいだった感情は、知らぬ男と共に去っていった。

 僕は立ち上がり、腰かけていた椅子を輪っかの下までもっていくと、椅子の上に立ち上がった。そこで真っすぐに輪っかの先を見つめる。

 不思議だ、と僕は思っていた。こんなに苦しいのに、痛いのに、どうしても死ぬ気が起きない。

 僕の中の彼は死を催促してくるのに対して、輪っかの向こうで笑みを浮かべる彼は、僕の死を拒んでいた。

 これで何回目だろう。こうして死にきれないのは。

 今日も僕は、輪っかを抱きしめながら泣きじゃくる一日を送った。輪っかの向こうにいる彼に、待ちぼうけを食らわせていることを知っているのに。

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