黒の巣

三栖三角

創造者

これは俺の小説だ。





ここには俺がいて、他には何もない。

これは俺の小説だ。


だから、ここには俺がいて、他には何もない。


まだね。



椅子がある。


2メートルほど前。


俺は椅子に手が届くまで近づく。木製の椅子が使い込まれて黒く沈んで見える。そこに座った。


辺りは暗い。暗い。暗い。何もない。


そう。

まだ、ね。



俺と、座っているこの古い椅子がある。

それだけ。




細かい揺れと共に、車窓から見える暗がりに顔が映っている。

その顔は、とりたてて良いわけでも、悪いわけでもないが、所謂、普通、平凡、つまらない、ありきたりな、と言ったような類型的な表現に当てはまるほど独自性が無いと言い切るにはあまりにも異質。しかし、全体的な印象として、結局なところ"平坦な顔"という評価に落ち着くような、つまりなんとも複雑な印象を他人に持たせる容姿だった。いずれにせよ、まぶたは重く垂れ下り、眠気というよりも、ある種の訝しみを抱いているかのような、そう言った目をしており、不信感、といったものと同居するのに実に適していることは間違いなかった。


風が通り抜ける。その方角に、一人分の空間がある。誰もいない。赤いシート。俺は後部座席に座っている。

古い椅子はどこに行ったか?さあ、どこだろう?思考は移り変わる。そういうものだ。


開けた窓の先に、羊の群れ。

穏やかな足取りの生き物達が、俺とすれ違っていく。まるで途方もなく高い山の頂上にいるような気分だった。目下ではゆっくりと雲が風に流されていく。ありとあらゆる全てが遠くにあった。群れはそのまま去っていった。遠くの群れと混ざり合うと、その群れは瞬時に輪郭を溶かして散って行った。あるいは消えた。消えてしまった。


ここはどこだろう。


頭上に鳥が羽ばたく音が聞こえた。サンルーフを見上げると、3羽の鳥がバラバラに飛んでいた。無軌道な動きをして、それぞれの影がサンルーフの別々の縁に消えていった。


こうして、人の思考は容易に移り変わるものだ。なんだって形成されて、そして瓦解する。あるいは消失する。それらの失われたものについて俺はいつだって素人しなかった。

みんなどこかにいってしまった。そして二度と戻らない。きっとそうだろう。




運転席には男の頭部のてっぺんだけが顔を出している。残り数少ない、頼りなさげな毛髪が必死に頭皮にしがみついている。男はそれに気づかない。

あるいはそう振る舞っているのかもしれない。


ふむ。この男に見覚えはない。いったい誰だろう?男はまるで後部座席の乗客には気づいていないように無関心だった。

車はどれくらい進んだんだろう?俺は窓に再び目をやった。外は暗がりのままだ。

そのまましばらく車に揺られて、停車した。信号が赤く光る。右側に、コンビニエンスストアが、いかにも清潔そうに煌々と光って、暗がりを照らしている。

俺は眼前のこの男と話してみようかと思った。さっきから呼吸の音すら聞こえてこない。

しかし、たとえ話しかけたとしても、所詮は俺の一部にすぎないだろう。


天窓には雲が3つ浮かんでいた。……ああ、嫌になる。胃に淀みのようなものが溜まっているみたいだ。

堪らなくなって、肺に溜まった空気を吐いた。



さて、どこに向かっているんだろう?


右も左も塀が立ち並んでいる。住宅街のようだ。気付くと日が照って、昼になったようだ。立ち並ぶ草木がそよ風に吹かれて体を小刻みに震わせている。

タイヤがアスファルトを転がる音、そして排気、エンジンの振動。そして、時折鳥の鳴き声がした。それらは忘れ去られてしまった何かを、かすかに想起させようと俺に働きかけてきたような気がした。そうして生まれた数々を、喉の溜飲とともに全て飲み込んでしまう。


「お客さん?もう少しで、つきますんで」

「えっ」


男の声が聞こえた。

咄嗟に俺の声が漏れた。そう。こんな声だ。

しかし、この男の声は…どちらかといえば低音寄りの声。口の中でこもって、言葉がそれぞれオブラートに包まれたようで、要するに勢いがなく、沈みがちな、声通りが悪そうだ、といった印象だった。

聞き間違えることはない。男は俺の声と限りなく似ていた。

眉間に指を置いて、かすかに力を込めた。項垂れながら、ゆっくりと口を開いた。


「どこへ向かっているんです?」


「そりゃあ、ねえ、僕は運転手、ですから。お客さんにお願いされたように、動くだけですよ。勝手にどこかへなんて、連れて行ったりしません」


「俺はなんて頼んだんだろう?」


男から返事はなかった。

男は座席からのぞかせた頭をほとんど動かさなかった。残念なことに、男の顔はどの角度からも知ることはできなかった。

気付くと、天窓は無くなっていて、その代わりに車内灯が設置されていた。

そして、外は夜になっていた。街灯がぽつぽつと灯り始めて、その光が度々俺の膝先を照らしていた。


そろそろか、この車も、この男も、この終わりのない景色も、全て消して、全て始めからやり直してしまおう。もちろん、そうしたとして、終点を決めているわけではなかったのだけど。







……?





………………………………………これは。







………………俺の小説ではない。











彼女の物だ。










慌てて頭をあげて、目の前の男を見上げた。男の頭は相変わらずほとんど動いていないように見えた。

助手席の方を見た。女が座っていた。


いつから?


「"女"なんて随分と他人行儀じゃない?」


低音寄りの声だ。俺の声ではない。この声は彼女の声だ。低いのに、よく伸びて、よく通る。


「いや……便宜上、仕方なくなんだ。どうして、ここに?」


「もちろん、あなたの小説だから私はいる。汗、かいてるみたい。どうしたの?」


俺の……?額に汗が滲んでいた。彼女に言われることで、ようやくジャケットの袖で拭う。そうだ、俺はジャケットを羽織っていた。


……本当にそうだったか?

グレーのジャケット。パンツ。黒地のシャツにネクタイはしていない。左手首にはめられた時計に、彼女の嘲るような微笑が映った。時計のガラスにヒビが入っている。その奥の秒針が一瞬止まったような気がしたが、瞬きをする間に、小刻みよく進み始めた。


「どこに向かっているか訊いたよね」

彼女が前を向いたまま話す。



「知りたい?」



「いや、それは…」

知りたくない。知りたくない。知りたくない。知りたくない……。


「……知りたくないんだ、だからやめ」


体の奥から熱が生まれて、表面で不快にとどまっているのを感じる。彼女の横顔が、その口元が、何らかの言葉を発する動きを見せた。その時、もう全てが手遅れになっていた。もちろん、それはもうずっと前から手遅れだった。ただ僕はそれを認められずにいた。


「交差点に向かっているの。この信号が青になったら、到着するわ」だから、そこで終わり。



私はもちろん。そして、今度は貴方もね。

俺も?


信号が青になって。ゆっくりと動きだした。

左に曲がる。

時計を見る。


時計の針が、止まっているような、そんな感覚。











寒いよ。寒い。

冬はもう過ぎたと思ってたんだけどな。


あったかくなって、たまには二人で遠出しようと思ったのに、急にこんなに寒くなるなんて……。


ほら、そんなところで寝ていると、風邪ひくよ。上着を貸すから、そこで待ってて。



……おかしいな。君がすごく遠いんだ。さっきまで隣にいたのに。全く君に近づけない。手を伸ばすと、腕時計のガラスにヒビが入っているのが見えた。

秒針が動くことはなかった。そしてあらゆるものが遠ざかっていった。暗い。暗い。暗い。


あ、遠い。遠くなる。

ここは、暗くて、すごく寒い。













これは俺の小説だ。





ここには俺がいて、他には何もない。

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