ふくろうカフェ

いとうみこと

ふくろうカフェ

 彼女を初めて見たのはある金曜日だった。会社を出るのが少し遅くなった夜、バス停でバスを待つ間、僕はスマホを弄んでいた。とっくに来ていいはずのバスはなかなか現れず、僕は少し苛立っていた。

 もう何度目だろう、バスを確認しようと顔を上げた僕の目に、さっきまではいなかったひとりの女性が映った。女性と言うにはまだあどけない雰囲気のその人は、白いニット帽で頭をすっぽりと覆い、顔の下半分をふわふわのコートに埋めて、クリクリとした大きな目をふくろうカフェの店内に向けていた。

 1月のいちばん寒いこの季節に、いくら厚手のコートを着ているとはいえ、身じろぎもせず立ち尽くしている姿は、今にして思えば少し異様だったけれど、その時の僕は、神秘の森で妖精を見つけた少年のように心が踊った。

 それでも多少の理性は残っていたから、じっと見つめ続けることはせず、来ないバスをイライラと待ち続ける青年を演じて彼女を時々観察した。

 もっとよく見たいという衝動に駆られ始めたその時、さっきまではあんなに待ち遠しかったバスが来た。これを逃すと、連絡の悪い田舎町の僕の家は、更に果てしなく遠くなってしまう。僕は後ろ髪を思い切り引かれながらバスに乗った。いちばん後ろの座席から彼女を見ると、さっきからずっと同じ姿勢で店内を見ていた彼女が、一瞬こちらを向いて、目が合った気がした。僕は慌てて前を向き、スマホに目を落とした。その日から彼女の姿が目に焼き付いて離れなくなった。


 月曜の夜、残業を無理矢理切り上げて7時半にバス停に着いたけれど、ふくろうカフェの前に彼女はいなかった。その日は金曜と違って、定刻通りバスが来たから、仕方なく僕は乗り込んだ。火曜日も水曜日も木曜日も、同じくらいの時刻になるように会社を出たけれど、彼女に会うことはできなかった。

 そして、金曜日も彼女はいなかった。僕はもう今日で彼女を探すのは諦めようと思いつつ、少し遅れて来たバスに乗り込んだ。いちばん後ろの席に座って振り返った時、ふくろうカフェの前に佇む彼女を見つけた。でも、その時既にバスは発車していて、僕は窓に貼りついて彼女を見つめることしかできなかった。


 その翌週も、僕は粘り強く彼女を待った。初めて会った日のバスの発車時刻が7時50分頃。次の金曜日の発車時刻は7時40分頃。多分、彼女はその間くらいにあの場所に来るのだろうと予想した。

 月曜から木曜まで、彼女は現れなかった。そして、金曜日。僕は帰宅が10時を過ぎるのを覚悟の上で、バスを1本やり過ごした。そして、僕の読み通り、彼女は現れた。

 僕は舞い上がった。しかし、その時になって僕は気付いたんだ。その先を考えていなかったことに。カフェの前に佇む彼女をチラチラ見ながら、ありとあらゆる声の掛け方を考えたけれど、良いアイディアは浮かばなかった。そして、何度目かに彼女を見た時、彼女は忽然と消えていた。時刻は8時を回っていた。次のバスまで30分以上待たなければならないという現実だけが残った。


 僕は珍しく諦めが悪かった。翌週は可能性の高い金曜日に絞って彼女を待った。7時40分頃にバス停に着いて、できるだけふくろうカフェが目に入りやすい位置に陣取り、彼女が来るのを見逃さないようにした。

 7時45分を過ぎても彼女は現れなかった。1分に一度くらいの割合で確認しながら、僕は忍耐強く待った。今日だめなら本当に諦めるつもりだった。

 そして7時55分、心が折れかけたその時、彼女は現れた。初めて見た時と同じく、白いニット帽とふわふわのコートに身を包んで、当たり前のようにそこに立っていた。

 僕は武者震いした。そして一生分の勇気を振り絞って彼女に近づき、生まれて初めて女性に声を掛けた。

「いきなりすみません。あなたを探していました。」

 彼女は振り向くと、ただでさえ大きな目をまんまるにして、小さくヒッと息をした。それには僕の方が驚いた。

「ごめんなさい。怖がらせるつもりはないんです。」


 僕は思わず後ずさりをした。運の悪いことに後ろには店の看板があって、僕はバランスを崩して横倒しになった。頭こそ打たなかったものの、肩から背中を歩道のゴツゴツした石畳に打ち付けて、痛みのあまり暫く動けないでいた。

 なんて情けない姿だろう。よりによってこんな時にかっこ悪い。さっきまでの意気込みすら虚しくて、涙が滲んだ。


「大丈夫ですか?」

 すぐそばで、鳥の鳴くような優しい声がした。顔を上げると、彼女がしゃがんで僕の顔を覗き込んでいた。僕の心臓は爆発しそうな勢いで拍動し始めて、呼吸がうまくできなくなった。


「大丈夫です。」

 僕は、痛みをこらえつつ、何事もなかったように立ち上がると、大きく深呼吸して何とか気持ちを整えた。

 間もなく8時。僕の予想が正しければ、彼女はもうすぐここから消える。時間がない。これを逃したらもう二度とチャンスは作れない気がするのに、僕は次の言葉を探しあぐねていた。想定外の事態に、予め用意した言葉はみんなどこかへ消えてしまった。いつものことながら、なんて僕は間抜けなんだろう。


「まだ痛みますか?」

 その時彼女が言った。彼女は柔らかな笑顔を僕に向けていた。僕はまた暴れ出しそうな心臓を手で押さえて、何とか笑顔を作ろうとした。

「もう大丈夫です。驚かせてすみませんでした。」

 僕の出来損ないの笑顔を見ても、彼女は表情を変えなかった。少なくとも嫌われてはいない、そう思わせる笑顔だった。


「ここで何を?」

 僕はやっとの思いで次の言葉を絞り出した。

「兄を待っているんです。ここで働いているから。」

 そう言うと、ガラス越しに店内を見渡した。カウンターにひとりの若い男がいる。恐らくあれが兄なのだろう。


 僕がそのことを口にしようとした矢先、幸せな時間は突然終わった。

「じゃあ、時間なので。さようなら。」

 そう言うと、彼女は何のためらいもなく店の中へ入っていった。


 追いかけようとした僕の目に、ドアに書かれた営業時間の文字が映った。午後8時閉店とある。見る間に電動ブラインドがウインドーを覆い尽くし、店内の様子が全く見えなくなった。僕にはその閉ざされたドアを開ける勇気はなかった。


 翌週の金曜日、諦め切れなかった僕は、今度こそ最後にする覚悟で彼女を待った。掛ける言葉も、会話のシュミレーションも幾度となく練習し、転んだりしないよう、辺りの障害物もくまなくチェックした。これで万全だ、あとは落ち着くだけだ。僕は息を整えながらその時に備えた。

 午後7時53分、彼女はいつものように現れた。僕は3回深呼吸をして、彼女に近付き、驚かさないように小さな声で話しかけた。

「こんばんは。先週はすみませんでした。」

 彼女は、まるで僕が来ることがわかっていたように、少しも驚いた様子を見せなかった。

「こんばんは。怪我は大丈夫でしたか。」

「だ、大丈夫ですっ。」

 彼女が僕を覚えてくれていた嬉しさで、僕は危うくまた同じ過ちを繰り返しそうになった。ここで舞い上がってしまうと、せっかく準備したことがみんな無駄になってしまう。

 僕は頭の中で質問の順番を再確認してから、もう一度彼女に声を掛けた。

「あの、学生さんですか?」

 彼女は何故かくすりと笑って首を振った。

「来月からここで働くことになってて、兄に色々教わってるところです。」


 彼女がここで働く?僕の職場のすくそばで?信じられない!そんなことが起こるなんて!ブラボー!神様ありがとう!

 僕は予想以上の収穫に有頂天になった。


「じゃあ今度、寄らせてもらいますね。」

「はい、是非。」

 彼女はとびきりの笑顔を僕に向けると、ぺこりと頭を下げて店に入って行った。今日の僕は、もう彼女を追いかける必要がなかった。これからはいつだって彼女に会える。そう思うと、会社に来ることすら楽しみに思えた。


 それから2週間後の月が変わった金曜日、僕は定時に会社を出て、真っ直ぐふくろうカフェへと向かった。お気に入りのスーツにネクタイ、おろしたての革靴。本当なら休みの日に早くから来たいところだけれど、センスのない私服よりスーツの方が見栄えがいい気がして今日を選んだ。


 もし、彼女が定時で上がれるなら、この後食事に誘おうと、財布にはいつもより多目にお金も入れてきた。何ならカードも持ってきた。準備は万端だ。


 どきどきしながら店のドアを開けると、先日カウンターにいた若い店員が近づいて来た。

「いらっしゃいませ。当店のシステムはご存知ですか?」

「いいえ。」

「では、ご説明させていただきますので、こちらへどうぞ。」

 そう言うと、僕をカウンターへと導いた。そう広くはない店内に、彼女の姿はなかった。

 その時やっと僕は彼女のシフトを知らないことに気付いた。相変わらずなんて間抜けなんだ。今日は休み、もしくは、もう上がったのかもしれない。


「あの、今日は妹さんは?」

 僕は、勇気を振り絞って、彼女の所在を知るための最終手段を使った。今日は無理でも、シフトがわかれば次こそ会えるはずだ。


「え?妹?俺に妹はいませんけど。」


 え?


「いや、あの、今月から妹さんがここで働くって、あの…。」

「うちは、バイトの俺とオーナーのふたりでやってるんですけどね。」

 男の眉間の皺が見る間に深くなった。


「どうかしたの?」

 奥からひとりの女性が現れて、僕たちの会話に割り込んで来た。この人がオーナーなのだろう、母と同じくらいの年代の、物腰の柔らかそうな人だった。

「何かうちの者がご迷惑をお掛けしましたか?」

「いえ、何でもないです。僕の勘違いです。すみませんでした。」


 ぺこぺこと何度も頭を下げた後、僕は狐につままれた気分でいちばん奥の席についた。店内の中央は、森に見立てたのか背の高い植木が密生していて、その木のあちこちにふくろうがとまっていた。


「お待たせしました。熱いうちにどうぞ。」

 先程のオーナーの女性がコーヒーを運んできた。

「いただきます。」

 彼女の柔らかな雰囲気にほっとしながらひと口啜ると、予想以上に美味しいコーヒーだった。

「美味しい!」

「ありがとうございます。コーヒーには自信があるんですよ。ふくろうじゃなくて、コーヒー目当てのお客さんもいらっしゃるの。」

 彼女はうふふと優しく笑った。お陰で僕の心は幾分か落ち着きを取り戻した。


「こちらへは初めてですよね。少しお話してもいいですか?」

「もちろんです。」

 僕はオーナーに席を勧めた。

「ありがとうございます。」

 彼女はトレーを抱えたまま僕の向かいの席へ腰を下ろすと、ふくろうたちを愛おしげに見つめた。


「実はここにいるのは、捨てられたり、飼育放棄された子たちなんですよ。」

「え?」

「ふくろうの飼育はとても難しいんです。お金もかかりますしね。ブームに乗って飼ってみたものの、持て余す人がいるんですよ。ここではそういった子を引き取って、新しい飼い主さんとのご縁を繋いでます。」

「あの、自然の森に返すわけにはいかないんですか?」

「難しいですね。この子たちはみんなペットにするために人の手で育てられたから、このまま放りだしたらすぐに死んでしまいます。そもそもどの子も日本原産ではないんですよ。」

「そうなんですか。」


「私はね、知床の大自然の中で育ったんです。子どもの頃は、厳しい自然の中で暮らす大変さを恨んだこともありました。でも今は、無性に懐かしいんです。そこでは人も動物も自由で平等でした。」

 彼女の目は遥か遠くを見つめていた。

「でも、この子たちには自然の森の記憶すらありません。その上捨てられて、行き場もなくて。中には、生まれてからずっと繋がれている子もいました。人間は何て残酷なんでしょうね。人間の世界で生きていくしかないなら、せめて飼い主が選べたらいいのに。」

 彼女の目が少し潤んでいるように見えた。


「あら嫌だ、私ったら初めてのお客さんにペラペラと。すみません。」

「いいえ、お話聞けて良かったです。僕、本当を言うとふくろうとか全く興味なくて、そういう話はちっとも知りませんでした。」

 オーナーは鳥のように小首を傾げた。

「え、じゃ、どうしてここへ?」

「信じてもらえないかもしれませんが。」


 僕はこれまでの経緯を話した。オーナーは不思議そうな顔をしながらも、時折相槌を打ちつつ最後まで茶々を入れずに聞いてくれた。


「どういうことなんでしょうね。うちのお客さんなのかしら。」

「多分からかわれたんだと思います。随分舞い上がってましたから。」

 返す言葉が見つからないのか、オーナーの顔が少し悲しげになった。僕はわざと明るい調子で言った。

「そろそろ帰ります。コーヒーごちそうさまでした。」

 

 突然、中央の木立からバサバサと羽ばたく音がした。

 オーナーはトレーを置くと、急ぎ足で音のする方へ駆け寄った。僕も何とはなしにそれに続いた。


「あなたなの?何かあった?よしよし。」

 オーナーの視線の先には、僕の手に収まる程の小さなふくろうがいた。宝石のように輝く丸い目、ふわふわの羽毛、僕はその子から目が離せなくなった。その子も僕の顔をじっと見つめて小首を傾げた。その姿に僕の心は一撃で射抜かれてしまった。


「か、可愛い!」


「可愛いでしょう?サバクコノハズクっていうんですよ。」

 興奮気味の僕の様子が可笑しかったのか、オーナーは先程までとは違う朗らかな笑顔で言った。

「ふくろうってもっと大きいと思ってました。」

「この子は大きくなっても20センチ程度ですよ。触ってみますか?」

「はい!」


 オーナーは革手袋を僕にさせると、その小さなふくろうをとまらせた。驚いたことにスマホよりも軽かった。

「この子は来たばかりでまだお客さんに馴れてないですけど、懐くと直接手に載せることもできますよ。背中をこうして優しくさすってあげてくださいね。」


 僕は恐る恐る羽に触れた。柔らかな感触が僕の手をくすぐった。ふくろうは嫌がることなくおとなしくしていた。

「あら、いい子ね。あんまり触られるのは好きじゃないと思ってたのに。」

 オーナーの言葉にまたしても首を傾げて応える姿がますます僕を魅了する。


「た、例えばですけど、初心者の僕がこの子を飼うことってできますか?」

 自分で言っておきながら、僕は自分の言葉に驚いた。オーナーも同じだったようで、意外そうな顔になった。

「ええ、まあ、不可能ではないですけど。確かに大きい子に比べたら飼いやすいですよ。でも、大変なことに変わりはないんです。猛禽類ですから、文鳥やインコを飼うのとはわけが違います。餌が虫や生肉ってことで飼い切れなくなるオーナーも多いんですよ。」

「うちは田舎で虫ならたくさんいますし、実家は肉屋なんです。生肉なら売るほどあります!」

 僕の勢いに、オーナーは声を立てて笑った。

「この子は見かけによらず大食いだからあなたにぴったりかもしれませんね。」

 それから少し真面目な顔になった。

「わかっていると思いますけど、思いつきで飼える鳥じゃないんです。もし本当に飼いたい気持ちがあるなら、暫く通ってください。適性を確かめさせていただいた上で、飼育環境をきちんと整えられると判れば、喜んでお譲りします。」

「わかりました。頑張ります!」


 僕は手の上の小さなふくろうを見た。僕の目を覗き込むように見上げる姿は、僕のところへ来たいと言っているように思えた。あの少女のことはもうどうでもよくなっていた。


「これからは、できるだけ毎日会いに来るよ。」


 僕の言葉に、その子はにっこりと微笑んだ。

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