第8話 久しぶり。ヨハンは、いる?

 親友の恋人に恋するのは良くあるが、自分の下僕に恋するのもまた良くある事だろう。人が人を想う気持ちは、身分の差など簡単に越えてしまうのだ。人間の心が高い壁を越えるように。壁の向こうには、自分の愛する人が立っている。


 愛する人の周りには……今の所は、誰もいない。町の夕焼けが二人に当たり、その影が屋敷の中庭に伸びているが、建物の影ほどは目立たなく、通りを走る馬車の音も何処か虚ろな感じに聞こえていた。

 

 アリス・レザは真剣な顔で、下僕の顔を見つめた。


「率直に言うわね」


 無言の返事。


「アタシは、アンタの事が好き」


 を聞いて、下僕の表情が変わった。


「わたくしの事、が?」


「そうよ! アンタに初めて合った時から! アタシは、アンタの事が好きなの」


 ノリスは、告白の返事に困った。彼にはそう、ずっと想いつづけている人がいる。自分の身分では決して届かない。彼の好きな想い人は、彼が従う主人の親友だった。親友の少女は……最近はあまり来ていないが、彼にいつも温かな笑顔を見せてくれる。


 彼は、その笑顔が何よりも好きだった。


「ご、ごめんなさい、お嬢様。お嬢様のお気持ちは嬉しいのですが、やはり」


「ミレイの事が好きなんだ?」


「……はい」の返事が重かった。「そうです。わたくしは、彼女の事が!」


 アリスはその言葉に落ち込んだが、すぐに顔を上げて、彼の目をじっと睨みかえした。


「諦めなさい。彼女には、もう」


「以前に話された、『ヨハン』と言う人ですか?」


「そう。あの子は、その幼馴染を愛している。彼には、色々と言われたようだけど。アタシは、親友の恋を応援したい。今までは、アンタの恋を応援していたけれど」


 アリスは右手の拳を握り、足下の地面に目を落とした。


「もう、自分に嘘を付きたくない」


 真っ直ぐな想いだった。今までの彼女とは、まるで違う。今の彼女は、自分に正直になっていた。その想いに胸を打たれないのは、色んな意味で終わっているだろう。


 ノリスは彼女の想いに怯んだが、気持ちの方は決して変わらなかった。


「それでも、わたくしは……」


「そう。でも! アタシは」


 アリスは暗い顔で、彼の前から歩き出した。


「何があっても、諦めない。アンタがあの子に夢中になっているなら……アタシは、アンタを必ず振り向かせてみせる! アタシのすべてを賭けて!」


「お嬢様」


 ノリスはただ、主人の背中を見つめつづけた。



 二人の会話に当然気付く筈がない彼女……ミレイは、部屋の中で窓の外をぼうっと眺めていた。窓の外には、美しい夜景が広がっている。通りを照らすガス灯の光。その光に糾われて、多くの人々が夜の町を楽しんでいた。


 ミレイは、その空気から視線を逸らした。


「はぁ」と、溜め息を一つ。溜め息は部屋の空気に混じって、やがて聞こえなくなった。


 彼女はベッドの前に行き、そこに思い切りダイブした。


「ヨハン」の声が切ない。「どうして?」と呟いた瞬間、その目から涙が溢れた。涙は彼女の頬を伝って、ベッドの上に落ちて行った。


 彼女は、両目の涙を拭った。


「私は、あなたの相棒なのに?」


 ヨハンは、彼女の事を遠ざけてしまった。言い様のない想いが込み上げてくる。


「心だけ繋がっているなんて嫌! 私は、あなたの身体とも繋がっていたいの」


 官能的な意味も込めて。ヨハンは勘違いしているかも知れないが、恋愛と官能は切っても切れない関係なのだ。精神的な繋がりだけでは、その絆もいつかは綺麗に消えてしまう。男が女を求めるように、女もまた男を求めているのだ。


 ミレイは心の葛藤に苦しんだが、自分の気持ちと向き合うと、今までの抑えを忘れて、ベッドの上から立ち上がり、明日の朝、彼の店に行く決心を固めた。


 次の日は、朝からずっと曇っていた。


 ミレイは自分の親や召使い達にそれらしい嘘を付くと、屋敷の馬車にも乗らないで、そのまま彼の店に向かった。店の中では、ヨハン達が今日の朝食を食べていた。


「はーい」と、セーレが店の扉を開ける。「どちら様ですか?」


 セーレは、突然の来客に思わず「ハッ」とした。


「あ、あなたは!」


「久しぶり。ヨハンは、いる?」


 セーレは不機嫌な顔で、相手の顔を睨みつけた。


「居ますけど。何か用ですか?」


 ミレイは彼女の言葉を無視し、無断で店の中に入った。


「ヨハン!」


 ヨハンはその声に驚き、店の中から出て来た。


「ミレイ! って、どうしたの?」


「ああ!」


 ミレイは、彼の身体に抱きついた。


「ヨハンは、ああ言っていたけど。私はやっぱり、ヨハンの事を諦められない!」


 ヨハンは彼女の言葉に辟易したが、店の中からナムリィが出てくると、その行動に驚いて、彼女の目をじっと見つめてしまった。


「ナムリィ、さん」


「ヨハンさん!」と驚くナムリィだったが、ミレイの視線に思わず怯んでしまった。「ひぃ!」


 ミレイは不安な顔で、ヨハンの顔に視線を戻した。


「ねぇ? ヨハン、この子は?」


 誰? を聞かなくても分かる。ミレイは、彼女の事を色々と勘違いしているのだ。


 ヨハンはその誤解を解こうと、真面目な顔で彼女の事を説明しはじめた。


「彼女はね」


 ミレイはその話を聞き、改めてナムリィの顔を睨みつけた。

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