【あずき】ホームプラネット。
「地球は人類の揺籠である。しかし人類は揺籠にいつまでも留まっていないだろう」
宇宙旅行の父と呼ばれたコンスタンチン・ツィオルコフスキーの言葉が頭の片隅にずっと残っている。
気になって図書館で宇宙開発について調べてみると、幾つかの興味深い話が分かった。
宇宙進出によって人類が得たのはツィオルコフスキーの言う「揺籠」から「家」への変化だった。
「家」とはその外部に出て行ける可能性があってこそ意味を持つ概念なんだとか。
つまり、宇宙開発によって、地球はいつか出ていくべき「揺籠」から、帰ってくるべき「家」へと反転した。
あずきの父、一郎がピーコック四階の403号室に戻ってきた時、彼の中で403号室が「揺籠」から「家」となったのかも知れない。
地球と宇宙の関係で考えれば人類にとって地球は易々と出て行ける場所ではないけれど、普通の家庭である田中家は揺籠化し、出ていくことは可能だった。
だから、また一緒に暮らし始めた父を前にして、あずきの中に浮かんだのは、――彼はまたふらっと何処かへ行くのではないか、ということだった。
父が次に出て行った時、あずきは彼を許せなくなる。
そういう気持ちを姉の友香に電話で話をした。友香は数年前に結婚して旦那さんと東京で暮していた。
「あずき、今年で二十一歳でしょ?」
「うん」
「一応、大人って言える年齢だよね?」
「多分」
「変な言い方だけど、夫婦はただの大人が一緒に住んでいるだけなんだよ」
「ただの大人が一緒にいる?」
「そう。大人は自分で考えて行動する権利があるんだよ」
「権利? その結果、家族を裏切ることになったとしても?」
「それを咎めることはできても支配したり、権利を奪ったりはできないの。いや、多分しようと思えばできるんだけど、そうしちゃうと、対等な大人としての関係が崩れちゃう」
「対等な大人としての関係?」
「本当はそんなものはないのかも知れない。夫婦とか、家族って関係は相手がいないと成立しない以上、互いに支配し合ったり、権利を奪い合ったりして、どろどろに混ざりあうべきなのかも知れない」
分からない、と思った。
そして、多分、友香も分かっていない。
「それでもね、一緒に生きていく以上、相手の権利を奪わないようにすべきなんだと思う。その上で、一緒にいようとすることが健全なんだよ」
「健全であることで一緒に住んでいる人が、どこかへ行っちゃったらどうするの?」
「例えば、一緒に住んでいる旦那が他の人のところへ行ったら、私は悲しいし、待ってるとも言えないし、思えない」
「別れるの?」
友香は考えるように少しだけ黙った。「多分、そこで別れられれば、傷は浅く済んで幸せなんだと思う」
待つことはできないけれど、別れることもできない。
それが友香の実感に基づく本音なのだと思った。
「人と人が一緒にいるのって不条理なんだね」
あずきの言葉に友香は頷いた。
『不条理』事柄の道筋が立たないこと。
生きていくことは多分、不条理で満ち溢れている。
あずきは大学で新聞部に所属していて、ひと月に一回、地域新聞を発行していた。そこであずきは地域の人に取材をして記事を書いていた。
時々、取材とは別に悩み事を相談されることもあった。一介の大学生であるあずきに解決できる問題は当然、限られている。
それでも、問題は遠慮なく起こり人を不幸にしていく。
目の前で人が不幸になる様はまさに不条理に満ち溢れていて、どうにか力になりたいと思った時、あずきは岩田屋町にある探偵事務所「ワルツ」に相談を持ちかけた。
「ワルツ」のスタッフ、紗雪はとても簡単に問題を解決してくれた。
世界には何か特別な力を持っている人間が何人かいて、紗雪はその中の一人だった。
「ねぇ、あずきちゃん」
「はい?」
「あずきちゃんがワルツを頼ってくれたおかげで色々実績ができたの。ほんと、それまで全然、依頼とかなかったからね。だから、ありがと」
「いえいえ! 私の方こそ、いつも頼って助けてもらってますから、お礼を言うのは私の方です」
「助けるのは仕事の一環だから、当然なんだよ。でね、あずきちゃん。良かったらなんだけど、貴女に夢をあげたいの」
「夢ですか?」
「うん、そう」
言って、紗雪から渡されたのは宝くじだった。
なるほど、面白い。
紗雪からもらった夢は現実になった。宝くじは当たりだった。
大当たりじゃないけれど、アルバイトの一年分からいのお金があずきの手元に転がりこんできた。
夢が叶うと、人間は困ってしまうらしい。
手に入ったお金は貯金で構わなかったけれど、宝くじをくれた紗雪を考えると、何かに使った方が良いように思えた。
うーむ、と悩みつつ休日の街を歩いた。
ふと、普段なら素通りするようなジェリーショップが目に入った。
スーツを着た男性がショップから出て来るのを見て、父のことが浮かんだ。
あずきは心のどこかで父はまた家を出て行くのだと思っていて、それが起きた時、もう彼を許すことはできなくなる。
姉の友香と話をした後でも、その気持ちは変わらない。
けれど、おそらく母は父がまた何処かへ行っても待つのだろうし、戻ってきたら受け入れるのだろう。
それは素晴しいことにも、とても悲しいことにも思えた。あずきはどちらかと言うのなら、悲しい気がした。
昔、あずきは母のスケジュール帳の後ろのカバーに古びたメモがはせてあるのを見つけたことがある。
その古びたメモには父の字で以下のように書いてあった。
目 録
一、結婚指輪およびルビー一個。
右を結婚の記念として汝に送る(拇印)
最後に日付もあって、そこには父と母が結婚した日の翌日が書かれていた。
ルビーは確か、母の誕生石だ。
未だに母の指に指輪の類が嵌められていない。ただ、母は父が出て行った後も、その古いメモを大切に持って、約束を胸に刻んでいる。
いつか、父が結婚指輪およびルビー一個を送るのを母はじっと待っている。
その姿は素晴しく美しいけれど、残酷で悲しい。
あずきはジェリーショップに入った。
父と母へペアリングをプレゼントしようと思った。
それを見て父が約束のことを僅かでも思い出して実行に移してくれれば、あずきにとって万々歳だった。
ディスプレイを見て回り、一つのブランドに目が留まった。
『ホームプラネット』
人間にとっての家としての地球。
父にとってピーコック403号室が確かな家とするためにホームプラネットというブランドの指輪は必要な気がした。
ホームプラネットは真新しいブランドで、ペアリングであってもそれほど高い訳ではなかった。
あずきは両親の指のサイズを知らなかった為、姉の友香に電話で相談すると、あっさりと分かった。友香も一度、二人にペアリングをプレゼントしようかと考えたことがあったらしい。
「でも、大きなお世話かな、と思って止めちゃったんだ」
と電話口で友香が言った。
考えていなかった。一瞬で恥ずかしい気持ちになって
「大きなお世話かな?」
とあずきは言った。
「見ようによってはね。でも、あずきはそれを渡すべきだって思ったんでしょ? なら父さんと母さんは喜んで受け取ってくれるよ」
友香の言葉に背中を押されて、あずきはホームプラネットのペアリングを買った。その日の内に両親に渡すつもりだった。
父を地球という家に縛りつける為に。
あずきは、それがとても自然なことだと思っていた。
けれど、やっぱりそれは不自然で大きなお世話だった。
家には父がすでに帰ってきていて、母と向かい合って座っていた。
帰ってきたあずきに気が付いて母が笑みを浮かべたが、その目には涙が溜まっていた。
「どうしたの?」
あずきが尋ねると、父が母にプレゼントを買ってきたらしかった。
そして、それがルビーの指輪だった。
その日の母の上機嫌ぶりは、あずきが高校生だった頃からだと考えられないものだった。
良かったねぇ、お母さん!
やるじゃん、お父さん!
と言いながら、鞄の中にしまったホームプラネットのペアリングは絶対に気付かれないようにしなければ、とあずきは細心の注意を払った。
さて、困った。
姉の友香には事情を話したが、紗雪にはどう話すべきか。
まだ紗雪には何を買ったか伝えてはいなかった。誤魔化すことはとても簡単にできる。
けれど、それでいいのかな? と言う思いもある。
そんなことをぐるぐる考えながら、あずきは探偵事務所ワルツが出す花火大会の屋台の準備をしていた。あずきが大学一年生から手伝いをしているので、今年で二回目だ。ちなみに屋台は金魚すくいだった。
紗雪はまだ来ていない。
スタッフの人と談笑しながら、準備をしていると知り合いが声をかけてきた。
「こんにちは、あずきさん」
「うん、こんにちは。総江ちゃん」
金髪ポニーテールの総江は礼儀正しい笑みを浮かべた。確か、まだ中学生のはずだが、彼女はいつも大人びた表情を作る。
スタッフの人に一言告げて、総江に近付いた。
「総江ちゃんのところは今年も射的なの?」
「はい。今年は私に任せてもらえるってことなので、少し高級志向にしようかな、って思っています」
「へぇ」
と頷き、あずきは総江と共に彼女たちのブースを見にいくと、確かに少しびっくりするくらいの高級品が並んでいた。
ふむ……。
「そういえば、あずきさん。この前の事件はちゃんと解決されましたか?」
総江に言われて、はっとする。
「まだ少し残っているけど、もう大体終わったよ。ありがとね、総江ちゃんに手伝ってもらって、ほんと助かっちゃった」
「いえいえ。お力になれたようなら良かったです」
総江はいわゆるやくざの娘だった。
紗雪を特別な力を持つ人間の一人とあずきは考えているが、総江もその中の一人だった。
やくざの娘なんて関係なく、そして、中学生ということも関係なく総江は特別で確かな力を持った人間だった。
彼女が予想し、考えた未来が外れたことは今のところ一度もない。
あずきは両親の為に買ったホームプラネットのペアリングをどうすればいいか、総江に相談してみた。
総江はポニーテールの髪先を指でもてあそびながら、ふっと笑った。
「一番はあずきさん自身が使うだと思うんですけどね」
「使う相手がいないからなぁ」
「勇次さんはどうなんですか?」
久しぶりに聞く名前だった。高校三年の夏から行方不明なり、現在に至るまで音信不通の男。
「いない人間とは使えないよ」
「それはそうですね。じゃあ、どうですか? そのペアリングをうちの射的の景品として出品してみませんか?」
「総江ちゃんのところに?」
「もちろん、誰かの手に渡った場合は購入された時のお値段をお支払します」
「いや、それは別に良いんだけど」
「景品として出品して、誰もそのペアリングを手に入れられなかったら、あずきさんにまたお返しします。そうしたら、次はあずきさんが、そのペアリングを一緒にしたいと思う人を探してみてください」
「一緒にペアリングをしたいと思う人?」
「勇次さんがいなくなって三年が経ちました。そろそろ、別の人に目を向けても良いと思いますよ」
総江は特別な力を持つ人間だ。
彼女が予想し、考えた未来は外れたことはない。けれど今回はどこか曖昧で、髪先をもてあそぶ表情はイタズラを計画する子供のような無邪気さがあった。
中谷勇次以外の人間を選ぶべきだ。
ここ三年間何度も、あずきはそう言われてきた。
その度にあずきは別に彼を選んだつもりは一度だってない、と答えてきた。
ただ、彼が私を選ぶのであれば、選ばれてあげても良いかな、と思っているだけだ。
総江はあずきのそういった気持ちを理解した上で、あえて別の人を探すべきだと提案しているような気がした。
中学生の女の子に全てお見通しというのも、大学生のあずきとしては情けないことこの上ない。
だが、相手が総江である以上は仕方がない。
「分かった。出品してみるよ。で、ペアリングが手元に戻ってきたら、彼氏を作る!」
「頑張ってください、応援しています」
総江の声には応援しているような響きはまったく含まれていなかった。
了
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