【一郎】完璧な朝と冷たい牛乳が注がれたホットコーヒー。

 二番目の娘、あずきは寝起きの良い子だった。


 妻も寝起きが良かった。

 けれど、私は寝起きが悪く、妻とは別に住んだ女性も寝起きは良くなかった。

 家族と離れて生活を始めた頃、私は何度も寝坊をして会社に遅れた。朝、目覚めると家を出ないといけない時間を二十分も過ぎていている、なんてこともあった。

 その度に、バタバタと着替えをはじめる私の音で、同居人が目を覚まし申し訳なさそうな顔で、私を見るのだった。


「本当の奥さんだったら、貴方を会社に遅れて行かせるなんてことはないんでしょうね」


 同居人は私の妻のことを「本当の奥さん」と言った。


「そんなことは気にしなくて良いんだよ。一人で起きられない私が悪いんだから」


 気休めだと分かっていたが、そんなことしか言えなかった。そして、同居人が病気で亡くなるその時にも、口にするのは朝のことだった。


「わたし、結局、一度も、貴方のこと、朝、起こせなかったなぁ」


 どうして最後の最後だって言うのに、そんなことを気にするのだろう。そう思いながら、私は彼女の手を握った。

 もはや自分で体を起こすことのできない同居人は更に続ける。


「貴方が部屋を出ていく背中を見ながら、わたしはいつも思うの。こんなはずじゃなかったのになぁ、って。わたしの予定では、貴方より先に起きて朝食を作るの。凝っている訳じゃないけど、ちゃんとしたものなの。サラダが小鉢に盛りつけられているとか、そういうの。

 でね、貴方をゆすって起こして、一緒に向き合って朝食をとるの。朝のテレビニュースとか見て、今日の天気の話をしてね。で、着がえてスーツのネクタイをしめている貴方を横目にコーヒーを淹れるの。熱めのコーヒーに牛乳を足して飲みやすい温度にして渡すの」


 元気になったらできるよ、と私は言った。私の発する声がちゃんと言葉になったか分からなかった。

 同居人は、ふっと笑った。


「わたし、一郎さんと、結婚しなくて、良かった。良かったなぁ」


 私が何か言おうとする前に、同居人は続ける。

「幸せだったよ、一郎さん。わたしは、本当に幸せだった」


 これから、もっと幸せになるんだよ、と私は言った。

 同居人は笑顔で、うんと頷いた。

 そうだといいなぁ、と同居人が声なく言ったのが、私には分かった。


 死が彼女を連れて行こうとしている。

 止めてくれ、なんでもするから、と私は言えなかった。

 私は彼女の死が近いと理解して一緒に暮らし始めた。

 妻と離婚し、彼女と結婚しよう、と私はしなかった。彼女もそうしてくれとは言わなかった。

 死を前にして彼女に結婚を申し込むことは、まるで私が彼女に同情して、憐れみで何か形を残そうとしているようだった。もし、出会う順番が違っていれば、私は彼女に結婚を申し込んだかも知れない。


 承諾してくれたかは分からない。

 が、私の気持ちは、伝えることができた。

 しかし今、私には結婚した妻がいて、娘たちもいる。間違っても家族を愛していないと、私は言えない。同居人の彼女を愛すると同時に、家族も私は愛していた。

 それが間違っている、と私は知っている。

 愛するものは一つに定めなければならない。


 少なくとも結婚という、愛を形にする制度の上では。

 だから、私と同居人を祝福する人は世間にはいない。

 それはそれで良い。世間が我々を幸せにしてくれる訳ではない。幸せには自分でならなければならない。

 その幸せは同居人と、離れて暮らす家族を含んでいた。


 矛盾した感情だと、自分でも理解している。

 妻と娘たちを傷つけているのは私だ。

 それでも、幸せになってくれと祈った。

 間違っている。私は結局、誰一人本当の意味で幸せにはできないのかも知れない。

 死の淵で、「幸せだった」と言ってくれる彼女を前にして、こんなことを考えてしまう私が、たまらなく矮小で詰まらない人間に感じられた。


「貴女と出会えて、暮せて。私も、幸せだったよ」


 偽善的な言葉だ。

 彼女は柔らかく笑って応えてくれた。

 優しい人だ。少し優しすぎる。


 彼女は翌日から、言葉を交わせなくなり、四日間意識を失って過ごした。せめて、彼女が幸せな夢を見ていればいいと、私は願った。

 意識を失った五日目。

 死が彼女を連れて行った。その時、私の中でも何かとても大切なものが一緒に向こう側へ持って行かれた気がした。

 損なわれたものは戻ってこない。

 けれど、世界は時々美しく、優しい。

 私は自ら離れた家族のもとに戻り、また妻と一緒に暮せるようになった。奇蹟のような出来事だった。


 娘たちも成長し、二番目の娘、あずきが彼氏を家に連れてくると言った。

 妻は大袈裟に喜んでいた。私も当然、嬉しかったが、寂しさの方が強い、というのが本音だった。

 当日の朝、妻が私をゆすって起こしてくれた。私は未だに寝起きが悪い。


「あなた、今日はちゃんとした格好してよね」


 と妻は言い、私は生返事をし、布団から出た。リビングで妻が作ってくれた朝食を取りながら、朝のニュースを見た。

 同居人が望んだ光景は、こういうものだったのかも知れない、と思ったが彼女はここにはいない。そんな当たり前のことに私の胸は僅かに痛んだ。

 痛むことが少しだけ嬉しく、妻に申し訳なかった。


「あずきが連れてくる人は、どんな人だろうな?」


 私は何かを誤魔化すように言った。

 妻は「そうね、高校時代からの同級生だって聞いているよ」と言った。

 そうか。


 自分でも良く分からないが、その彼も寝起きが悪ければ良い、と思った。

 


                    了

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