花影
仮重独楽
花影
白。
ゆらりと、立ちのぼる煙。
骨を焼いた時の煙というのは、あんなにも白いものだろうか。細長い灰色の筒から、細く千切れながら、煙は空に流れていく。真昼の空の青の強さに負けてしまいそうな頼りなさだった。強い日差しを遮るように、手を顔の上にかざす。目を閉じると、まぶたの裏がわずかに赤い。
あんなにも赤かった彼女の唇。最後に見た時には、ひどく白くて乾いていた。人形みたい。そう思った。いつも彼女から漂っていた、果実が甘く腐っていくような、独特の匂いもしなかった。あの匂いは一体何だったのだろう。棺桶の中にそっと横たえられた彼女は乾ききっていてかさかさで、ドライフラワーのようにも思えた。
彼女の訃報は、そっけないはがきの文面で知った。通夜には用事があって行けなかった。葬式までそんなに日にちも、それに金に余裕もなかったので、父の葬儀以来使っていなかった喪服を慌ててひっぱりだしてクリーニングに出した。服は葬儀の前日に取りに行った。そのついでに散髪屋に寄って、髪を整えた。なんだかずいぶんさっぱりとした。鏡に映る顔を見つめながら、ぼんやりとこれからのことを考えた。無口な散髪屋の親父は、黙々とはさみを動かしていた。足元にできた黒い髪の山は、自分の怠惰な生活を表しているようでもあった。足を動かすと、あっさりと崩れ落ちて、数本が靴に張り付く。軽く振ったら、それも白い床に落ちた。思わす口元がいびつに歪み、親父が怪訝そうに鏡の中で眉根を寄せた。
笑いが出てきてしまうのも仕方がないだろう。これはあまりにも俺自身だったのだ。心の中でつぶやくと、言い訳がましい気分が増した。
金を払う時でさえ、親父は軽く頷く程度だった。普段ならあまり良い気分にはならないだろうが、その時はそんな態度がひどく好ましいものに思えた。そこで、人が死んだのだということにやっと気がついた。
外は晴れていた。喪服を入れた紙袋が、歩くたびにわずかに音を立てた。軽いな。思わず、言葉が口をついて出た。短くなった髪の毛のせいで、頭が浮いているような、奇妙な感じがした。さっぱりしたもんだ。風は暖かく、雀のさえずりは澄んであたりに響いていた。光線が自分の体を貫いて、影に突き刺さっているように感じた。そんな妄想は不愉快だった。老朽化したアパートは、日の光を避けるように薄暗い所に佇んでいる。立地条件の悪さが、気に入っていた。ここを見つけた時、自分が住むのにぴったりだと思った。まるで穴蔵じゃないか。不愉快な気分は、アパートの影に消されていった。
部屋は二階にある。階段を上ろうとした時に、後ろから声をかけられた。大家の老婆が立っていた。年齢は知らないが、六十は過ぎているだろうと思わせる、小柄な老婆だ。檜皮色の着物に褪せた薄紫色のショールで体を包んでいる。あんた、誰だい。目をしょぼしょぼさせながら、しゃがれた声で老婆は言った。二〇一号室に住んでいる、春宮です、と答えると、老婆は首を傾げた。その拍子に、ひっつめにした白い髪の毛が何本かほつれているのが分かった。苦笑して、散髪をしたのです、と言うと、老婆は口をもぐもぐさせて、納得したように背を向けた。
「葬式かい」
階段にかけていた足を戻して、首だけで振り向く。老婆は曲った背中をこちらに向けたままだった。
「何故、そう思うのです?」
「長く生きてると、分かるようになるのさ。今まで何回葬式行ったと思う」
そこで、老婆は、かっかっか、とやけに大きな声で笑った。
「私もいつ棺桶に入って焼かれるんだか。焼かれるのは嫌だね。昔の詩人みたいに、桜の木の根元で死にたいねえ」
そのままそこに埋めてもらいたい、と老婆は言った。その言葉で、桜の樹の根元には死体が埋まっている、という戯言を思い出した。老婆はいつのまにか、日陰から出て、陽の光の中にいた。そのまま、白い光の中をゆらゆらと歩いて行った。階段を上る硬い音があたりにかつーんかつーんと響いた。部屋の電気は点けないまま、風呂に湯をはる。体を綺麗に洗い流してから、下着だけを身につけた姿で、紙袋から喪服を取り出した。しわのない服に、そっと袖を通した。服が重い。随分痩せてしまったのだな、と気付いた。姿見に映る姿は、針金の人形に布を被せたようで、我ながら滑稽だった。この姿で葬式に出るのだろうかと、僅かばかり逡巡したが、すぐにそんなものは気にすることではないと思った。この格好はむしろ相応しいのかもしれないとさえ考えた。俺はこんなに自虐的だったろうか。
黒い喪服姿で畳の上に座り込んだ。白いはがきが目に付いた。彼女の白い肌と、あの匂いを思い出した。甘く腐った匂い。あれと同じ匂いの香水は、どうやっても見つからなかった。あれは、彼女独特の体臭に、服やらシャンプーやらリンスやら化粧品やらの匂いが混じったものだったのだ。つまりは彼女の匂いだ。それは首筋からとくに強く匂った。よく彼女の首筋に顔を埋めたものだった。
あの匂いは、死体となった彼女からも匂うのだろうか、とふと思う。葬式の会場に、あの匂いがたちこめているような、そんな気がした。勿論、ただの幻想にしか過ぎない。だが、あの匂いが鼻孔をつく。白い着物を着た彼女が、桜の樹の根元に横たわっている。盛りの花の柔らかな影が幾重にも重なり、彼女の体の上をゆらゆらとゆらめいている。あの匂い。首筋に顔を近づけた。微かに匂いが残っている。しかしもっと強い匂いの元は、桜の樹の根元であるらしかった。死んだら根元に埋めてもらいたい。老婆の声が頭蓋で反響する。それは段々と、彼女の若々しいくせに陰気な声と重なって、手は自然と根元を掘り返していた。土は柔らかく、穴が深まるほどに甘美な匂いは増した。これは死の匂いだ―――、と気付いた頃には、沢山の死体が根元から現れていた。ゆっくりと腐っていく死体から、水晶のようにすんだ透明な液体がとろりと流れ出し、それがあの匂いを発していた。花の影が優雅に揺らめいている。
頭を振った。部屋はすっかりと暗い。どうやら、畳の上で少しうたた寝をしてしまったようだ。頭がぼんやりとしている。そういえば、と唐突に思い出した。彼女と桜を見に行く約束をしていたのに、結局一度も行かなかった。直前になると、とたんに気が進まなくなり、何かと用事をもうけて避けていた。時計を見ると、もう夜中の二時であった。彼女の葬式は今日だ。
了
花影 仮重独楽 @imojyo
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