Code:Ⅵ 禍つ想起
ウロボロスには勤務する職員に各個部屋が与えられている。上級の職員になれば部屋は一人一つとなり、下級ならば二~四人ほどのシェアハウスのような形となっている。部屋はカードキー式のロックがかけられており、そこに住む人間や登録された人間、一時的に許可を与えられた人間のみが開けられる仕様となっている。
そんなウロボロス職員居住スペースの上級職員の一室。医療事務局薬品課主任兼医療課ドクターのカルミアは自室で紫煙を燻らせながら気だるげにパソコンのモニターを眺め、椅子の背もたれに体を預けていた。眼鏡のレンズ越しに眺めるのは医療課利用者のバイタルデータや新薬開発データ。面倒臭がりながらも纏めなければ、また艾がしつこく宛ら姑の様に仕事の進捗を聞いてくるため仕方なしに開いていた。しかし夜も更けていく。集中が切れ始めたのを感じ、煙草に火を点け休憩を挟んでいるのが今この瞬間だった。
と、完全に気を抜いた状態でいたその時、前触れなく自室の入り口が開かれた。また艾か?と椅子を回転させると、
「…………」
焦げ茶の髪を持ったよく知っている者が立っていた。普段の柔和な笑顔が既に消えている、深い翠の瞳はそのまま垂らされた前髪に隠れ、僅かに覗く表情は良く知るものでなければ分からないほどではあるが微かに強張っていた。
カルミアはそれを見た後、一つ溜め息を吐く。
「入るならせめてノックくらいできるだろう? 李雨。それともそんなことができないくらい今私は衰弱していますとでも言っているのかい?」
「……煩い」
半眼で捲し立てるカルミアを他所に、李雨はカルミアの部屋にあるベッドから掛け布団を奪い去り、それに包まりながら窓際のソファに腰掛ける。まるで蓑虫の様な風体の李雨に、しかしカルミアはそれを見て一切表情を変えることなくキッチンへと向かった。淡い翡翠色のマグカップを取り出すと、インスタントコーヒーの粉を入れ湯を沸かす。数秒で水が沸き、それをカップに注ぐ。濃い湯気が立ち、香ばしいコーヒー豆の香りがする中、カルミアは胸ポケットから小さな小包を取り出した。そこに入っているのは液体の入った小さな容器。その蓋を開け、ゆっくりとかき混ぜながらその液体を注ぎ込む。透明なそれは一切の抵抗なく溶けていき、それを確認したカルミアはリビングにそれと普段吸う煙草とは違う種類の煙草を手に取り戻ってきた。
「ほら」
膝を抱え布団に包まる李雨の側にあるテーブルにコーヒーと煙草を置く。李雨の視線がそれにいっているのを確認したカルミアは、自分のデスクに戻り腰掛け、李雨の動向をコーヒーを啜りながら眺める。
「……………………」
暫くの沈黙。立つ湯気を眺めていた李雨はやおらカップを手に持つと、両手で包み込み一息吐き、そして傾け嚥下し始めた。ゆっくりと、しかし絶え間なく。小さく動く喉の動きをカルミアはじっと見つめる。
やがて嚥下を止めカップをテーブルに置く李雨。そのまま空いた手に煙草を持つと、ライターを取り出し火を点けた。ジジッと焼ける音が聴こえ、そして李雨はゆっくりと一息でその煙草を半分まで灰にした。
崩れ落ちる煙草の灰。しかし事前にカルミアが置いておいた李雨の膝の上の小さな灰皿により、その灰は布団へと落ちる事は無かった。
ひたすらに続く無言。しかし特段特別なものでもなく、時折コーヒーを啜る音だけが存在した。
――――不意に、李雨が口を開く。
「消えたい」
絞り出すように出される言葉。
「また聞こえてきたの、もう誰かも忘れた声が」
呟く。
「蓬とアリスが居れば大丈夫なのに、それでも聞こえてくる。一人で的を待ってると嫌なほど聞こえてくる。私は
呟く。
「蓬に指摘されたわ、隠していたはずなのに。不覚。蓬だからよかったわ。でも指摘されてしまった」
呟く。
「私は何時まで
呟く。呟く。呟いて呟いて呟いて、それはまるで自分への怨嗟にも似たような。はたまた贖罪の誓いか。
「…………今日はそれを飲んで吸い終わったら寝ていてくれ。仕事の邪魔だ」
「……」
カルミアはそう吐き捨てると、再びモニターへと向き直る。背後から衣擦れの音がする。それを確認しキーボードを叩き始める。
(内容成分を少し変えるか、丁度ほかの新薬に使えるかどうか人体実験も行える。丁度いいな)
夜が濃くなっていくのを尻目に、無機質な音だけが響いていく。
ウロボロス上層部。
ランヴァルト・ハイデッガーを中心に、各部門主任や倫理委員会、PMC内裁定員などを総称してそう呼ばれている。
時刻は午前三時、PMCウロボロス所長室にはランヴァルトと艾だけが居た。
対面に座り中央には書類が広がるテーブル。その中身は400分隊が遂行した依頼の報告だった。
「ランヴァルト、どう見る?」
「……まだ断定はできない、不自然と言えば確かに不自然だが、しかしピースが足りな過ぎる。この一件のみで済ませる方が自然なくらいにはな」
パサリと手に持つ書類をテーブルに置くランヴァルト。眉間に皺を寄せ手を添える姿を見る艾。
「老けたな」
「なんだ唐突に、ただの疲労だ」
「俺にはわからないものだな、不便この上ない」
「前線に出してほしいおねだりか?」
「不満はない、退屈ではあるがな」
「いい年をして何を言っているのか……しかし確かにここ最近お前には内勤しかさせていないな」
顎に手を当てるランヴァルト。その言葉の通り、艾は軍事参謀局とその実動部隊のトップであるが、ここ最近は一切の実動任務は無く、専ら局内での事務仕事や哨戒に留まっている。
本人が不満を溢さないとはいえ、それでは艾自身の存在の本懐としては正しくない。戦わせてこそ真価を発揮する存在に戦いをさせないのは、確かに根本から違っている。
「そうだな……うむ」
「……?」
一人何かを思案するランヴァルトに対し疑問符を浮かべる艾。その疑問符は即座に霧散する事となった。
「近々新人がここに配属されることは知っているな?」
「あぁ、こんな明日もわからない場所によくもまぁ」
「金払いは悪くは無いからな、勤務できればだが。特にこの時世ではな」
「で、それがどうした?」
「お前には新人入隊の際の演習訓練にて士官学校の内の上位幾人かを相手に模擬戦闘を行う教官をさせる」
「……本気か?」
模擬戦闘。字面だけで言えばそこまで激しくないと思われるが、その実は真逆。ウロボロスでの模擬戦闘は限りなく実際の戦闘に近い状況で行われる。模造銃にゴム弾、催涙弾なども用いて相手を戦闘不能に陥らせるまで戦うというシビアなもの。大抵は職員の内軍事実動隊の中から教官が決められるのだが、それを艾にする意味。
それは『半端な実力では訓練にならない』こと。
艾はその気になれば理論上1大隊程度であれば難無く殲滅可能なほどの戦闘継続能力を保持している。ウロボロス内でも一対一での戦闘で勝利できるものは恐らく存在しない。そんな彼を模擬戦闘の教官にするということは、下手をすれば新人の芽を摘みかねないことだってある。
「今年の新人は骨があると先方から聞いた。お前も程度を知らない訳ではない、見極めてやってくれ」
「……まぁ、構わないが」
「ではそうしよう――――さて、件の件についてだが、先に言った通り情報が少ない。引き続き400分隊には情報収集を任せたい」
「引き受けるだろう、蓬達ならな。一応言っておくが今日の分の報告書の追加報酬もしっかり出しておいてくれ、さもないとどう暴れだすかもわからん」
「その件に関しては既に問題は無い。とにかく、この件の連絡をあの子らが行く前に伝えておいてくれ」
「了解した」
艾がソファから立ち上がり、出入り口のドアに向かう。その時、ランヴァルトから声がかかった。
「艾」
「何だ」
「どれほど『深い』と見る?」
「…………深さは知らんが、根は広く歪に複雑だと見ている。まるで拗らせた蜘蛛の糸のようにな。恐らく今回のこれは簡単には片付かないだろう」
「……そうか」
「じゃあな」
そう言い残すと、艾は扉の先に消えていった。
あとに残ったランヴァルトが徐に内ポケットから電子端末を取り出す。そこには複雑なデータが画面に羅列され、所々に人体絵が記されていた。
「まだ、足りないか……」
誰に、何を対象に、それらが図れない言葉は虚空へと消えていった。
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