第三十四相 林間学校編:密やかな蔓足

 時刻は六時を過ぎた頃。夏とは言え空の色は茜に染まり、山中の小屋からはぽつりぽつりと明かりが漏れ出ていた。俺達の小屋の窓から見えるその景色は、酷く幻想的なようでどこかキャンパス越しの幻影に見えた。

「銀、そろそろ夕食の時間だけど」

「ん……もう時間か。今日は管理棟の食堂で夕食だったな」

「移動とか大掃除でみんな疲れてるだろうからって承和さんがスケジュールをそう変更したんだっけ? 同い年なのに凄いカリスマだよね。変更の意思を出せるのもそれで統率が取れるのも」

「あれでも実家の事業の一部を統括してるんだ。子供の頃から管理する者としている人間に、一学年を纏めるなんて容易いことでも不思議じゃない。それに付き纏う責任が幾分か軽ければ尚更な」

「凄いなぁ……俺は実家の仕事なんてまだ簡単に理解しているくらいでしかないのに」

「アイツが特殊なだけだ、それより管理棟へ行くぞ。響也も起きろ」

 窓際のソファーで寛いでいた俺の前にある椅子に座る涼が神妙な顔で唸るが、雪乃のあれは天性の才覚が根本のもの。その後に知識や経験を肉付けし、ああして人を纏め上げ引き連れるだけのカリスマを手に入れた。本人のたゆまぬ努力と才能の無駄のない利用、あとは世渡りの学び方に依るものだろう。それを見て比較をするのは土台が違う。正しい見方ではない。

 まあ、今はその話は関係ない。遅れては進行に支障を来すからと、ベッドで仮眠を取っている響也を気持ち強めの力で揺り起こす。

「んぁ……なに?」

「夕食の時間だ。管理棟に行くから起きろ」

「要らないから寝てるのは駄目?」

「足持って引き摺るぞ」

「わかったよ……起きるよ」

 大きく伸びをし、目尻に涙を浮かべる響也。怠惰なのはわかっているが、食事すら摂るのを面倒臭がるのは流石に如何なものか。もういっそこの林間学校の間は伊桜に全てを任せるか――――いや、ここまで来てお守りは無いか。わざわざ言わずとも、負担で無いのならアイツなら素知らぬ顔で勝手にやるだろう。

「よし、鍵も閉めた。行くぞ」

「おっけー」

「ふぁあ……山の中だと陽が沈むのが気持ち早い気がする」

「ここは北と東西に山がある。陽が沈む西の方角はそこそこ標高があるから、光が遮られ暗くなるのが早まっているんだろう」

「なるほどね」

「この景色もいいと思うけどね、裾野にできるオレンジと紫の境界線とか、暗い山の中で点々と明かりが灯ってるの」

 雑談を交わしながら管理棟を目指す。薄暗い管理棟への道は舗装されておらず、砂利を踏む音が規則的に鳴る。移動や掃除などの疲れからか、涼と響也の足取りは何時もより緩慢だった。

「疲れたか?」

「まぁね、思いの外移動って精神的に疲れが出るみたいで。掃除とかは平気だけどね」

「オレも疲れたけど」

「お前は何時もだろう」

「響也は何時も通りだね」

「遺憾の意」

「そういうのはある程度の成果を出してからにしろ。今日のお前は気の置けない相手だけの空間が多い故にだろうが気を抜き過ぎだ」

「適材適所って言うだろ? オレはオレの適所でちゃんと働く意思はあるから」

「口は回るな」

 会話を交わしながら、俺達は夕食が提供される林間施設管理棟へと到着した。建物は簡素なクリーム色の壁が唯一目に付く外観。薄暗くなった周囲の景色の中に、照明が点々と点っているのが周囲の自然環境との不自然な乖離を意識させてくるように思えた。だがそれをまじまじと見る理由は無い。足は止めることなく、俺達は玄関から靴を脱ぎ食堂に入る。そこには、既に集まっている生徒が雑談を交わしながら、学校の食堂と同様にトレイを持ち各々好みの食事をバイキング形式で確保しながら席に着いているところだった。

「へぇ、結構豪華なんだね」

「食堂での食事提供を今年は減らして自炊を主にしたからな。いくら資金は多くとも無駄に使えないのが金だ。それを、今回は使う機会を絞った代わりに内容のグレードを上げたという具合だ」

「生徒会様様だなぁ。俺としてはバイキング形式でこうしてがっつり食べられるのはありがたいよ」

「席自由らしいし、早く取るもの取って座ろう。早く座りたい」

「わかってる。涼は俺と響也より後に取れ」

「なんで?」

「俺も大概だと自覚はしているが、お前は俺に輪をかけて食う。好きなだけ盛られて後から来たらありませんなんて話にならないからな」

「それ、後から来る人にも文句言われそうだね」

「今更じゃないか? オレは先行くよ」

「あぁ、俺と涼の順で行くぞ」

「はーい」

 大食漢二人を好き勝手に取らせれば、バイキングにおいて起こる惨事なんて明快だろう。言ってしまえば蹂躙だ。それを防ぐため、比較的セーブの効く俺が先導し、大まかに取る量の目安を決め、涼にそれを倣って盛らせる。そうすれば、用意された食事が不自然に減る事は無いだろう。というのが、俺の算段だ。視線で涼に意図を知らせた時、それに気が付いた顔をしていたので大丈夫だろうと判断し、俺達は順に食事を皿に盛っていった。






「うぅ……ん……」

 人が賑わう食堂内、雑踏と雑談が飛び交うそこで、胡桃瑠璃は皿に盛った焼き魚をほぐしながら唸っていた。箸でひと切れ作れば唸り、またひと切れ作れば眉を下げる。うんうんと声を漏らしながらも箸を止める事は無く、澱みの無い所作に淀んでいるように見える思考のちぐはぐさが、周囲の者の視線を集めていることに瑠璃は気が付いていない。

「瑠璃、そんなに悩んでると美味しいご飯も台無しになっちゃうよ?」

「雪乃……」

 そんな瑠璃を見かねて声をかけたのは、正面の席に座りポタージュスープに舌鼓を打っていた雪乃。持っていた匙を音も無くナプキンの上に置くと、両手の指先を互いに合わせた姿勢で口元を弧にした。

「銀士郎君とは話しできた? 結構空き時間多かったと思うけど」

「……ううん、まだ」

「なにかあった?」

 そう問う雪乃に、瑠璃は一瞬逡巡するように視線を横にずらし、暫くの沈黙の後もう一度視線を合わす。話すかな、と雪乃が沈黙を続けるも、当の瑠璃はそれでも話がし辛いのか、まるで餌を待つ鯉の様に口を開け示した。それを苦笑交じりに見た雪乃は、瑠璃が自ずから話始めるまで笑みのまま待つことにした。

 そうして数十秒。場の雰囲気には全く合わない瑠璃の表情に微笑ましさを覚えていた雪乃に対し、瑠璃は深呼吸を一度し、口を開いた。

「その、ね。今日の部屋掃除の時間の時に偶々外を歩いていた時に、銀士郎さんが……月夜と二人で人気の無い所で話をしてたの」

「ほうほう」

「その……外を歩いていたのは銀士郎さんと話す機会が上手く作れるかもって思って。そしたら月夜が……なんか、話してて。それ見て、なんか其処に居られなくなって逃げた……」

「そっかそっか、あの時瑠璃も近くに居たんだね」

「雪乃は知ってたの?」

「銀士郎君がまた困ってる人、この場合は月夜ね。その助けをしてるみたいだったから様子見してたんだけどね。しかし瑠璃は怖気づいた感じかな?」

「違うっ!」

 雪乃の疑問に、瑠璃は叫ぶように答える。当然、周囲の視線は声の発生源に集まる。は、とそれに気が付いた瑠璃はその視線から逃れるように体を縮こまらせた。

「ふふ……その様子ならしょげて尻込みしている訳ではないかな? なら今こそタイミングを探しに行く時じゃない? 瑠璃」

「でも、もう夜だし……銀士郎さんの小屋に行くのも迷惑じゃ……」

「そうやってタイミングを逃していって、折角の計画が崩れたら台無しじゃない?」

「う……」

「勇気を出して、私達全員が幸せになるために頑張ろう、ね? 瑠璃ならきっとできるって私は思ってる」

「……雪乃」

 若干の迷いが残る瞳。それでも、雪乃の言葉に背を押された瑠璃は胸元に手を当て深呼吸をする。大きく吸い、止め、徐々に吐いていく。そうして沈黙がしばらく続いた後、瑠璃は意を決したように椀に注いでいたコンソメスープを一息に口の中に流し込むと、食器をトレーに乗せ返却口へと大きい歩幅で歩いて行った。

 それを見送った雪乃は、にこりと笑みを浮かべると残っていたクロワッサンの欠片を口の中に入れ、若干熱の逃げた紅茶と共に胃の中へ流し込んだ。一息の間をおいて立ち上がり、瑠璃に倣う様に返却口へトレーごと食器を置き、賑やかな食堂を後にした。

 喧騒から段々と離れ声が遠のいていく中、自分の宿泊小屋であり他の生徒会メンバーが居るであろう場所へ向かおうとする雪乃の背後に、誰かの気配がした。

「何か用? 月夜」

 いつも通りの声色で、いつも通りの表情のまま、雪乃は毎日の挨拶をするような自然体で振り返り、照明に照らされる長い白髪の持ち主に問う。そこに立っていた少女――――白百合月夜は、雪乃とはまるで対照的な強張った面持ちだった。

「雪乃、聞きたいことがあるのだけれど」

「なに?」

「瑠璃に何を吹き込んでいるの?」

 その言葉に、す、と雪乃の瞳が細くなる。柔和な笑顔は、僅かな変化で得体の知れない表情へと変化した。月夜は表情に出さないながらも、長い付き合いの中で見た事の無い雪乃のその表情に体を強張らせる。

 だが、雪乃は月夜が隠そうとしているそれを敢えて指摘せず、再び顔を笑顔に戻す。

「吹き込んでるなんて酷い言い草だなぁ月夜。私は瑠璃が迷って困ってる問題の解決方法を教えているだけだよ?」

「それだけで説明が済むとでも思っているのなら甘く見られたものね。今の瑠璃は少しおかしい。何かに憑かれているみたいに彼を目で追ってる時があれば、何かから逃げるように人目を避けて行動する。今までの瑠璃には絶対にない行動よ。そしてここ最近瑠璃と多く接触しているのは貴女よ雪乃。下手な言い訳で逃げることはできないわ」

「……うーん、なるほど。月夜とか結乃、いろはなら勘付くかなって思ったけど、こんな早いとは」

「やっぱり。何をしているのか知らないけれど、瑠璃におかしなことをしないで。折角最近は以前よりも楽しそうにしていたのに――――」

「その楽しさを逃がさないためって言ったら?」

「……?」

「目の前に現れた幸せ、長い人生の中で二度あるかもわからない現実、手放したら生涯後悔だけに染まる分岐。そんなものがあった時に、人は冷静になれると思う?」

「何の話を」

「月夜、貴女もそうなんじゃない? 手を伸ばせば届く場所に、自分が求めたものを持っている何かが現れたが故に生まれた焦燥感。でも自分の中で結論を急ぎたくないからって別の理由を作って、それでいいと思う現状に自分自身どうしたらいいかわからないってね」

「……雪乃、貴女」

「ごめんね、この言い方は意地悪だった。でも月夜、貴女が凭れかかりたい柱には、他に何人も同じことを考えている人間が幾人もいる。厄介なのはその柱は凭れかかりたいと誘蛾してしまう性質を嫌って逃げようとする。欲しいけど本体が逃げる。それぞれが好き勝手に追おうとしても軽妙に逃げる。でも――――」

「待って、雪乃、お願いだからそれ以上喋らないで」

「どうして? これは月夜にも関係のある話だよ」

「やめて、私はそれ以上進まない」

「駄目だよ、私は月夜にも幸せになってもらわないと。今まで自分の欲を押し殺してきた貴女の姿をもう見たくない」

「それは私の勝手だから、お願いだか――――」

「月夜」

 耳を塞ぎ、顔を俯かせる月夜。周囲からは風のさざめきが、辺りには鈍い暗闇が、眼前には甘美な毒が。抵抗としては弱いその当否にもすがろうとした月夜の眼前に、雪乃の顔が現れる。

「無理強いはしないよ。本気で自分のその考えを通すつもりなら私はそれ以上何もしない。でも、この蜜を少しでも啜りたいと――――、完全な独占が出来ない事を許容してでも求めているのなら、私にまた話を聞かせて欲しいな」

「……わかっているの? 貴女がしようとしてることは、私は今予測でしか話せないけれど、倫理に反する事なのよ……!」

「倫理に殉じて生涯後悔する事に比べたら小さなことだよ。それに倫理を基に糾弾するんだったらそこに第三者へ迷惑をかけることも加味しないと駄目だよ? 今この話においては、私はみんなが幸せになるためにその本人達だけにしか影響が及ばないように話をしているんだから。後はそれぞれの気持ち次第。整理がついたら私にまた話をしてね、今日の銀士郎君とのやり取りみたいにでも」

「……ッ雪乃!」

「じゃあまたね。小屋を二つに分けちゃったけど、あそこは内線で会話できるようにしてるから何かあったらそれでね」

 ばいばい、とにこやかに言いながら雪乃は月夜の横を通り過ぎ小屋へと向かって行った。その場に残された月夜は、普段の色白さとは違う不自然なほどの血色の悪い顔で、虚空を眺め続けていた。

 脳内でぐるぐると巡る葛藤。常識を支える柱を、欲望デザイアが容赦無く叩き折ろうとして来る。何年も何年も維持し続けていた常識と理性と倫理の柱が、軋み悲鳴を上げている。駄目だと両手を広げていた自分が、押し寄せる波に消えてしまうのを許したくてたまらない。



 元来の白百合月夜という人間は、今現在の彼女の姿から読み取れる理知的理性的ではない。どちらかと言えば、自分の信じた物事には正直なまま進み続ける性分だ。それを強固な理性で抑え付け、秘した気持ちは無い物として扱っていた。

 だが、今現在の状況でそれを維持し続けるには、月夜という人間は欲に染まっていた。欲しい、手に入れたい、知って、識って、理解して、受け入れてくれる人。自分の押さえつけられていた泥をそれでも許してくれるだけの人。そんな人間を前に平静を保てるほど、彼女は聖人君子ではなく、そして欲が強く深い存在だった。

 だから、雪乃の言葉に動揺している。

 だから、雪乃の眼に見透かされている。

 だから、雪乃の笑顔に恐怖を覚えている。

 人の声が遠い。暗闇が揺れる彼女の足を呑みこもうとしているように見える。

「…………我妻君、まだ――――」

 それでも、認めがたい。自分の欲は強い。それは勿論、独占欲というものも。雪乃の言葉が甘美なのは理解しているが、まだ早計。ふらりと揺らぐ体を傍にあった柱に預け、腕で掻き抱く。夏に入った夜、若干の暑さが残る筈のその時間に、月夜の体は冷え切っていた。

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