第三十三相 林間学校編:陽光の下の水月

「はいはーい、みんなお疲れ様。荷物を置いて休みたいだろうけれど、一回簡単な説明をしなきゃいけないから集合してねー」

 学園所有の林間合宿場所へと移動した俺達不知火学園二年生一行。各々がバスの貨物室から荷物を降ろしている中、一足早く荷物を肩にかけた雪乃は木々がひしめく山の中でも損なう事の無い、通る声で全体の注目を集めていた。各々が荷物を持ちクラス毎に整列したのを確認した雪乃は、一度周りを見渡す。

「うん、みんな迅速な行動ありがとう。それじゃあ今日のざっくりとした予定をまず実行委員の諫早君から」

「はい。今日の行程ですが、この全体集合での施設の説明が終わり次第、事前に班の割り振りをした通りにグループで集まり、各宿泊小屋まで荷物を運び入れてください。班全員の荷物が運び終わったのを確認したら、男子は俺か我妻君、女子は嶋野さんか承和さんに声をかけてください。そこで小屋の掃除道具を渡すので、各々が過ごしやすい程度に清掃をしてください。見回りも行いますので、あまり適当な事をしないよう。備品などの破損があった、あるいは破損させてしまった場合は、速やかに先程名前を挙げた四人の誰かに連絡を。清掃が終わったら、その後は夕食と入浴までは自由行動になります」

「うん、ありがとう諫早君。取り敢えず今日は移動で疲れているだろうけれど、もうひと踏ん張りで掃除をしっかりしてね? 夕食の時間や入浴の順番、場所の確認は各自しおりを見て忘れない様に。何かわからない事があればその都度聞いてね。以上で説明は終わるけれど、何か質問はあるかな?」

 雪乃の問いに、しかし誰も手は上げない。暫く周囲を眺めた雪乃は特に質問が無いことを確認すると一つ頷き、拍手を一つ鳴らした。

「よし、それじゃあ一旦解散! あと、掃除が終わった後の自由時間は出歩いてもいいけれど、かけられたロープの外側の山には行かないでね? 命の保証はできないから」

 そう言ってにこやかに笑う雪乃に、荷物を担ぎそれぞれ散会しようとしていた同級生たちは苦笑いと共に間延びした返事を返した。まぁ物騒だと苦笑いをするのも、そこまで真面目に受け取る人間もそう多くないだろう。山とは言え学園所有で管理された場所、俺自身も、余程の阿呆でもなければ何かしでかす事は無いだろうと思っているが、しかし教員が居るとは言え油断はできない。風紀取締役である以上、他の者以上に気を配る必要がある。

 とは言え、そういう俺も荷物を小屋に運ぶ必要があるのは当然の様に存在する。手前のことも済まないままに人に指摘をするのはそれはもう道理が立たない。つまりは迅速に自分の用事を済ませる必要がある。そう考えた俺は、生徒会役員同士での簡単なミーティングが済んだ後にショルダーバッグを肩にかけ、足早に自分の宿泊する小屋へと向かう。暫く歩いた先の目的地である木造のログハウスの小屋が見えてくると、見慣れた二人の男が手持無沙汰に待っていた。

「あ、おーい銀」

「……ふぁ…………ぁ」

「先に着いていたのか、遅れてすまん」

「生徒会の話があったんでしょ? 別に気にしないよ」

「助かる、まずは荷物を小屋に置いてから掃除道具を取りに行く。俺はすぐには手伝えないから、他の奴らと掃除を進めていてくれ」

「……眠いんだけど寝ちゃダメ?」

「駄目だ響也、寝るのなら掃除が終わった後の自由時間に寝ろ」

「はいはい……」

 会話をしながら手に持つ鍵で小屋の扉を開ける。開かれた扉からは、埃っぽさは無いが籠った空間特有の臭いと木造故の木の匂いが混ざった、何とも言えない空気が溢れ出た。普段雪乃の世話をする時や自宅では決して感じないそれに、果たしてあの生徒会の面々はどういった反応しているのかと、無為な事を考えてしまった。

「うわ……空気悪い」

「銀、これはまず窓を開けて換気をしないとダメそうだね」

「窓を開けるのはいいが、あまり勢いよく開けるなよ。急な空気の流れは埃を巻き上げる」

「了解」

 涼と響也が眉を顰め鼻を覆う。俺も正直顔が歪みそうになったが、そうしていても仕方が無い。素早く荷物を部屋の隅にまとめて置き、梯子を上ったロフトに似た二階に上がるといくつかの小窓を開ける。錆の見当たらない鍵金具は特に抵抗も無く動き、それと同様の状態の蝶番は軋むことなく扉を開けさせてくれた。

 ゆっくりと開いた窓は僅かに埃をたたせるが、即座に霧散する。そうして目線を先に向ければ、青々とした自然の景色が一望できることに気が付く。

「ほう」

「銀、どうかした――――って、凄いなここ。響也」

 俺の後を追って梯子を上ってきた涼が横に並び窓の外を眺める。それが甚く気に入ったのか、涼が階下の響也へと声をかけると、先程よりも面倒臭さの隠せていない声色の返答が聞こえてきた。

「何? 今は上がるの面倒だから口頭で説明して」

「山の景色が一望できるみたいだ、広い湖も見えるね」

「別にアウトドア的な良さは求めていないんだけどなぁ……まぁ後で見るよ」

「どうせ明日にはあの湖周りで行動するんだ、見物よりもまずは掃除だ」

 空気の通りを確認し問題ないことが分かった以上、景色を延々と眺める理由はない。俺は再びはしごを使って降りると、一足早く埃を落としたソファーで寛ぐ響也に鍵を投げ渡す。

「響也はここで留守番をしていてくれ。他より狭い小屋になる代わりに俺達は三人班なんだ、少しでも役に立ってもらうぞ」

「まぁ……ここで待ってればいいならいいよ」

「涼は俺と一緒に道具を取りに行くぞ、その後は他と同じように掃除をしていてくれ。俺は見回りと並行してここで掃除を手伝う様にする」

「別にそんな気にしなくてもいいよ、そこまで汚れも気にならないし、家具とかの埃を落として掃き掃除してから濡れ布巾で拭けば終わるだろうし」

「作業の順序は任せる、じゃあ行くぞ」

 ぐでんとソファーで寝転ぶ響也に後を任せ、俺と響也は小屋から暫く歩いた場所にある倉庫が立ち並ぶ場所へとやってきた。そこでは既に、各班の代表者が実行委員の諫早や島野、そして雪乃の指示で道具を分けられていた。少し出遅れたかと考えていると、袖をついと引かれる感触がし、振り返る。

「お疲れ様ね、我妻君」

「月夜か……それに伊桜もか」

「やっほ我妻君、響也君はちゃんと働いてる?」

「わかり切った事を言うな、今奴はソファーに寝転んで留守番中だ」

「だと思った……ごめんね手間かけさせちゃって」

「まるで母親みたいな言い草だなぁ……」

「限りなく事実に近いだろうな」

 紫谷響也という男、あれは別に完全なダメ人間という訳ではない。むしろ基礎スペックで言えば名門校である不知火学園の中でも上位に入ることはそう難しい事ではない。俺から見ても、あの男に純粋な欠点というのは世間一般の目よりも少なく見ている。

 しかし。だがしかし、だ。あの男の数少ない欠点にして致命的な傷。それは怠惰な性格だ。

 あの男、高いスペックを活かすどころか持ち前のサボり癖やマイペースな気質も相まって十全に発揮するつもりが皆無なのだ。気が付けば数少ない興味関心を向ける対象である楽器が置かれている音楽室に入り浸り、授業中は寝る始末。それでも成績は悪くない並みを維持できるのは元の能力の高さ故だろう。少しでもやる気を出せば話は別だが、今はこの灰月伊桜という甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる人間のせいでその気を微塵も湧かそうとしない。悪いとは言わないが、しかし彼と彼女の関係的にいつまでもそのままでいることはできないと、そう苦言を呈したくなる――――と考えるようになったのは、成長か退行か。敢えて言葉にするような無粋さは無いが、数少ない友人の行く末くらいは案じてもいいだろう。

「今日も忙しくなりそうね、我妻君」

「月夜は月夜でかなり直近まで林間学校に関する予算会議をしていただろう。前準備の忙しさか、当日の忙しさかの違いだけだ」

「労わってくれているのかしら?」

「勿論、お疲れ様だ月夜」

 なんてことはない。彼女の忙しさのピークは、ここに居る同級生達には一切知られる事の無い事前準備だ。それに気が付く程生徒の多くは一個人を見ている訳でもないし、同じ生徒会の面々もそれぞれの仕事がある。教師陣も慌ただしい以上、柱の一人である彼女を労う人間はそう多くない。居ても姉妹の月乃くらいだろう。

 だからこそ、俺は敢えて言葉にする。彼女の苦労も努力も、それに見合った何かが本来与えられるべきところではあるが、生憎俺は彼女の努力に見合うものを持っていない。この労いも、苦し紛れにも似た精一杯の彼女への思いやり、とは独り善がりすぎるか。しかし何もしないよりマシだろうと言った俺の言葉に、彼女は何も返すことなくジッとこちらを見つめてきていた。

「……月夜?」

「…………」

「おい……?」

「……………………」

 ひたすら、ひたすら、ただジッと俺の顔を見つめる月夜は、凪がれた水面の様に揺らぎの無い瞳に俺を映したままだった。俺の銀交じりの紅目とは違う、言うなればより白っぽい紅目に射抜かれ、柄にもなく気圧される。

「どうしたの? 銀」

「我妻君?」

 涼と伊桜の声で意識が戻る。戻るというよりは靄がかった思考が晴れたと言った方が正しいか。顔に出さぬよう努めながら、二人に振り向く。

「少し、コイツと話す事がある。二人は諫早と嶋野と雪乃から道具を借りて掃除を始めてくれ。雪乃に俺のことを聞かれたらすぐ戻ると伝えておいて欲しい」

「え、あぁ、わかった」

 我ながら急で若干捲し立てる様な物言いに我ながら呆れる。しかし黙りこくり様子のおかしい月夜を放っておくわけにもいかない。断りを入れた後に口を噤んだままの月夜の手を引き、俺は人気の少ない倉庫脇まで移動した。現状を冷静に考えると、林間学校初日の慌ただしい時間に同級生の女子を人気のない倉庫脇に連れ込む男の図となるのだろうが、一切邪な動機は無い。誰に言い訳するでもなくそう心の中で呟くが、しかし二年生に上がってから人気のない場所で生徒会の面々と一対一で会話する機会が多い気がする。

 ――――違う、本当に何もない。事実おかしなことはしていない。だから大丈夫だ。

「さて……」

「――――こんな場所に連れてきて、私に何をするつもり?」

「……お前な」

「冗談よ、気を遣ってここに連れてきたのでしょう? ごめんなさい、もう大丈夫」

「大丈夫な人間の表情じゃないな、事前の疲れが残っているなら少し休んでいろ」

「気にしないで、私は大丈――――」

「いいから、休め。俺はお前にここで無理をして倒れられて欲しくない。お前の悪い所は無理を無理と言わずに押し通そうとする所と、それを誰にも悟られぬようにする所だ。他の奴らに弱体を見られたくないのは分かるが、せめて俺の前で位は気を落ちつけさせろ。口は堅い自信がある」

「…………」

 月夜の顏から薄っすらと浮かべていた笑みが消える。凍てついた雰囲気と言えばよいか、まるで周囲の空気の温度が下がった錯覚すら覚えさせるその表情に、またしても怯んでしまった。

(……何をしているんだ、俺は。今ここで怯みも怯えも相応しくない。月夜に対しても失礼極まりないだろうが)

 小さく息を吸い、吐く。肺から血液に取り込まれた空気は普段とは違い澄んでいて、とても冷たかった。月夜が小さく胸元を動かし出された吐息が、周囲の空気を冷やしているかのように彼女の纏う空気が凍てついているのが気がかりだが、それにかまけて重視すべき問題を見落とすのはあってはならない。俺自身が彼女の隠し抱えていた物を明るみにしたのならば、それに対するアクションと相手からのアンサー、その二つをもたらして待つ必要がある。俺に関する行動は義務、彼女のアンサーは任意。それを踏まえ、ここまでで築いた信頼が果たして如何程かを問うこの相対の結果がどうなるか、俺は静かに待った。

 そして、彼女は口を開いた。

「――――……双子って、いつも同じ存在の様に扱われるの」

 冷えた声だった。氷を溶かしたような言葉だった。

「どちらかが何かを成しても、もう一人もできることだろうと言われたことがある。個性があっても特技があっても、突き詰めれば双子なんて同じスペックとしか見られない。事実、私と月乃は似たものが多い。だから余計に、個が無くなる。月乃が出来た事は私もできるだろうと、私が出来る事は月乃にも出来るだろうと。それで月乃に当たった事は無いわ。でも、そう見てくる他人の目が私は耐えられなかった。じゃあどうする? どうすればあの子と違いが生まれる?」

「…………限界を無視した行動、か」

「そう、あの子は怠惰ではないけれど無理も無茶もしない。自分の限度を弁えて、出来る範囲を精一杯する。とても優秀でしょう?」

「そうだな」

「だったら私は無理をすればいい、無茶を押し通せばいい。少しでもあの子が出来る事の上をいけば、私とあの子は『同じ』じゃなくなる。誰も不幸になっていないわ」

 また、薄ら笑いが転び出てきた。彼女が普段、人を揶揄う時、そして大丈夫だという時の表情。近しい人間にしか見せないそれを、酷く寂しげなまま俺に向けてきた。

 自分を見て欲しい、自分を『自分』のまま居させて欲しい、月夜という個で居させて欲しい。双子故にだろう、つい先日会話した姉妹の月乃も、内容に差はあれど己の個を他者に認識され、認めて欲しいという願望を言っていた。悲しいかな、そこでもこの双子の姉妹は似通っていた。

 正直、それは俺一人ではどうにもならないだろう。彼女らは恐らく『大衆』からの『個の認識』を求めているのであって、『我妻銀士郎』からの『個の認識』では十分ではない。俺がいくら彼女らを見分ける術を得たとしても、十全な意味での願望の成就には至らない。歯痒く虚しい、そして俺はあくまで他人の一人でしかない事をまざまざと突きつけられる気分だ。人のため、彼女らのために身を窶す事へ一切のためらいもない程度には俺自身は信を置いているが、それで解決できるものなら既に誰かが成し得ている。できていない現状はそういう事なのだ。

 だが――――。

「それでもお前は幸福ではない。お前自身の幸福を求めようとして、不幸どころか幸福そのものまで代償にしてしまっているお前の手元にあるのは無意味な行動の残滓でしかない」

「それでも何もしないよりはマシよ」

「だろうな、マイナスになるよりはプラマイゼロがベターなのは当然だ。だが、俺はそれを許容できない。俺の目の届く俺の大事な友人がその幸福を手から零れ落しているのなら、それを放っておく薄情さを俺は持っていないのを恨んでくれ。俺自身の掌がもうボロボロになっているから、お前が満足できる受け皿になることは難しい。が、空っぽなお前の中身を俺と言う個人が『月夜』と見る認識で少しでも埋める助けになれるかもしれない。お節介だろうがな」

 満たせない器と穴だらけになった椀、それでは流体の様な他人の認識で埋めることは不可能だろう。だが、俺と言う椀自体が月夜の欲望の器に入れば、内容量が変わる。俺と言う存在で僅かに空白が埋まる。それは彼女の求めているソレではないだろうし、椀と流体では絶対的にモノが違う。

 でも、それでも、何もないよりはマシだと、俺の存在がそれにすら足らない物で無いのならば、空白のままよりもシミが一つあった方が良い場合もある。俺と言う前例が出来れば、後々にはそれを見て、本来満たすべき流体が満たされていくかもしれない。それまでが俺の役目、それ以降は捨てるなりどうとでもできる。彼女には選択肢がある。

 独善的であまりにも相手からの友好度を過信したような提案なのは自分でもわかっている。それでも、友人が抱える苦しみを素知らぬ顔で素通りできる非情さはない。

「俺に対する俺への感情を過信した物言いなのを承知で言う。俺はお前を――――月夜を、そして月乃を絶対に見分けることができる技能を必ず身に付ける。そして月夜、お前がお前を見失わない様に、水月の如き儚いお前を、泡沫に消えさせる真似はさせない。だから、せめて、俺だけが居る前でそんな顔をするのは止めてくれ」

 勝手極まりないのは承知の上。月夜から一蹴されるのも覚悟している。それでも救いたいと思うのは、この生徒会全員に共通する『自己』の曖昧さとそれに苦悩する姿を看過できない為か。或いは月夜個人に感じた俺なりの憐憫か。共に妹を持つ身、その妹の幸福の為に我が身をくべる事が、どうしても他人事に思えなかった。だから、珍しく強引なのかもしれない。

 果たして、月夜は一度目を伏せ、沈黙の後にこちらを再び双眼で見据えてきた。相も変わらずわかりにくい表情だが――――しかし、その瞳の水気は、恐らく拒絶ではないだろう。

「…………私、凭れかかり方を知らないの」

「だろうな、俺もだ」

「いつも自分だけでって行動していたから、自分の為だけに行動していたから、貴方に迷惑がかかるかもしれない」

「上等だ、それを込んでの提案だからな」

「……きっと、はしたない姿になるかもしれない」

「俺しか見ないから安心しろ、他言もしない。お前が凭れかかりたくなった時に、俺はその都度柱となる。お前の満たない器に紛れ込む物体の一つになる。俺と、お前だけの契約だ」

「――――我妻君、貴方って人たらしって言われない?」

「…………」

 湿っぽい問答をしていたかと思えば、突然訳のわからない質問が飛んできた。人たらし、つまりは人の心を絆し溶かす事に長けた人間、という事か。

 あまりにも自分に馴染みが無い指摘――――いいや、馴染みがない訳はなかった。俺は幾度となく無自覚に女性を絆し、そして傷つけた。強ち間違っても居ない。訳の分からないと考えたのは訂正する。が、それを認めるのはあまり良い心地はしない。思い出したくもない顔が思い出されてしまう。

「とにかく、お前は頼りたい時に、人の居ない時に俺を頼れ。その時は全霊を以てその願いを叶える」

「何時でも?」

「そうだ……と応えたいが、絶対とは言えない。俺にもするべきこともあるし、他の人間との関わりもある。可能な限り、と答えよう」

「私嫉妬深いから、他の人にも同じことをすると拗ねるかもしれないわ」

「……は?」

「面白い顔ね。まぁ……私も馬鹿の一つ覚えに貴方に凭れかかりにはしないわ。必要な時だけ、我妻君を頼る。いいかしら?」

「あぁ、元より俺が言い出した事だ。是非もない」

「そう……じゃあ、この話はここまで。それと最後に一つ、早速お願いを聞いてもらってもいいかしら?」

「今ここでできる事ならな」

「なら大丈夫」

 そう言って月夜は周囲を見回し始める。右に左に、倉庫の脇までわざわざ行ってそこも確認し、誰も居ない事が認められたのか一つ頷くと、再び俺の前に立った。そうして俺を見上げるように顔を上げ暫く互いの瞳が交わった後、おもむろに彼女の肩程までに両腕を持ち上げた。

「……?」

「抱きしめて、少し寒いの」

「今は夏だが」

「寒い、寒いの。満たして」

 その言葉で、意図を察した。物理的な意味での寒暖ではない、彼女の言う寒いとはすなわち、心の寒さだ。孤独感を耐えてきていたその場所から不意に現れた人のぬくもりに中てられたのだろう。僅かに紅潮した頬と濡れた瞳は、恐らく耐え難い孤独感からの解放からだ。本来ならこういう過度な接触は自分からも、相手から求められても臨むべきではないのがそもそもだ。だが、意図して俺からその寒さを自覚させた以上、責任は取らなければ男が廃る。一時の間己の信条を歪めてしまうが、致し方ない。

 俺は両手を広げた月夜の体を包む様に抱く。強くも無く、しかし弱すぎもしない。辛うじて服が接触する程度の触れ方。それに対して月夜は遠慮を知らないとばかりに、俺の腹部に顔を埋め、腕は強く締まり、決して離れんとばかりに密着してきた。意識しないようにはしていても、女性特有の柔らかさが感じられたため、俺は意識をぼんやりと遠くの山の峰へと向けることにした。

「――――…………暖かい」

 安堵の声。ただそれだけで、彼女の重荷が少しだけ、軽くなった事がわかった。それだけで十分だった。





 結局それから数分間月夜は離れる気配が無く、俺は満足のいくまで好きにさせる事にした。その後合流した雪乃からは、掃除道具の貸し出しが粗方終わるまでの間、揶揄う様な笑みで軽い問答を浴びせられた。代償としては、まぁ妥当か。

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