第二十九相 懐疑の執心
「悪いな二人とも、放課後に付き合わせちまって」
部活が終わった後、私と銀士郎さんは宍戸部長のお誘いで近所のコンビニに今来ています。何故、と聞かれれば私もよくわかってないのですが、どうやら部活中に銀士郎さんが部長に誘われたのが事の始まりらしい。私はその場に居なかったので断片的にしか聞いていないのだが、部長の彼女さんも呼んでいるのだとか。一体何故と言う疑問には未だ答えは出されていない。
「まぁ俺は時間があったので、瑠璃は大丈夫か?」
「はい、少し帰りが遅くなるのはもう連絡していますから」
なんて、実は連絡はしていなかったり。ほんのちょっぴりの嘘を吐いてしまうのは銀士郎さんに対して不誠実だと思ってしまうが、今は仕方が無い。だってしょうがないから。
「それにしても、まさか二年目も我妻に頼る羽目になるとは。部長として情けない限りだ」
「仕方が無いですよ、日野先輩の怪我ならば理由も理由でしょう。寧ろ最後の夏を俺みたいな人間が代理で走ってしまう事の方が申し訳ないと言う他ありません」
「アイツからの伝言だ。『不甲斐ない先輩だが、どうか俺の分まで走ってくれないか』とな。俊樹はお前を頗る気に入っていたからな、代理がお前になったと聞いて喜んでいたぞ」
「銀士郎さん、日野先輩とよくお話してましたよね、去年も練習中何回か見かけましたし」
「……人が良いと言うか、何処か不思議な考え方をしていますよねあの人は」
話題に上がる人、男子陸上部副部長の日野俊樹さん。部内でも随一の俊足を誇り、夏の大会のリレー種目においてはアンカーを任されていた。た、と言うのは既に出場が望めなくなったから。理由は自動車との交通事故らしく、自転車を運転していた日野先輩は横から来た車と接触し、右足靭帯損傷と左足首の骨折。大会の出場が不可能になったのを聞いた先輩は、病室にお見舞いに来た先生に開口一番『銀の奴に代理を任せて欲しい』と頼んだと言う。本人の了承も無く、本部員でも無い為先生はあくまで暫定的だと言い、銀士郎さんへとお願いをしたらしい。
そう言う
「しかし、やはり部外者がいきなり現れればどうしても後輩たちからの不満は出てくるな……想定していたが、お前に迷惑をかけるのは看過できない所なんだがな……」
「そうなんですよね……まだ本番練習をしていないので仕方が無いんですけど」
「元々評判は賛否両論、むしろマイナスだとも思っていますので。好かれる嫌われるは今は関係無いですよ。要は結果を出せば済む話です」
「しかしな……お前に色々言ってきていたアイツは――――」
「部長」
「……すまん、何でもない」
「でも大丈夫です! きっと銀士郎さんの姿を見ていれば絶対に皆さん見方が変わります! 私が保証しますよ!!」
「俺の意図するところではないんだがな……」
大切な人が不当な見方をされる。それは想像するよりも苦しいし、思っているよりも覆すのが難しい。
私は今まで幸いにも、自分への悪口や不満の言葉を直接聞いたことが無い。きっと何処かでは言われていると言うことは分かっていますが、聞こえていなければ関係無い。どれだけ詰られても、貶されても、私は私の望みである褒められたいと言う唯一つの願いのために行動してきました。最近――――それがちょっぴり叶っちゃいましたけど。誰かからの言葉じゃなくて、ただ一人からの言葉だけが私の救い。
ずっと私は私の事だけを考えていた。私だけの望みを、必死に求めて走っていた。だけれど私は生まれて初めて、人の事を考えるようになった。
今までも考えていなかったわけではない。誰かのために動こうと、誰かの助けになろうと、自分を動かしてきていた。けど、それは結局私を褒めてもらえる可能性を増やすための利己的な理由であり、そこに誰かのためと言う建前は空っぽのハリボテでしかなかったのです。聞こえのいい言葉で自分が喜ぶことをしてくれる人を探す。それが私でした。極論の様になってしまいますが、私は他人が幸にも不幸にもなったとしても全く興味は無かったのです。だってお父さんもお母さんも、私の事を見ようとすらしてくれなかった。だから、人間は自分のためだけに生きる存在なんだなと、頭の悪い人間なりに答えを作りました。
――――それを変えてくれたのは、きっとこの人だ。
「兎にも角にも、俺は何時も通りの事をするだけです。先輩達のために、推薦してくれた先生や宍戸さんに日野先輩、そして瑠璃のためにも。持てる力は十全に使い、恥じる事の無い結果にします」
「固いな我妻は。俺も木島先生も俊樹も、お前だからこそ頼んだんだ。信頼があっての今、少しは誇らしげにもなってくれ。謙遜謙虚は美徳にもなるが、行き過ぎれば誰かの名を傷つけることもある」
「……すいません」
「そう言う所だ、まったく――――っと、来たな」
呆れながらも楽しげに笑う宍戸部長が、手に持ったスマートフォンの通知に目をやる。それを見るやスムーズに画面を表示し、チャットツールをタップし返信を終え、机の上に置いた。
「そろそろですか」
「あぁ、元々一緒に帰るつもりだったんだが、お前達の話をしたら少しでも顔が見たいと言ってな。個々には会ったことはあるだろうが、こうして揃って会うのは初めてだな」
「そうですね、去年は銀士郎さんとは顔を知っている程度にしか親交がありませんでしたし」
「それを親交と言うのか……? 俺は今初めて顔を知ったタイミングを聞いたが」
「因みに銀士郎さんは何時私を知りました?」
「正確に思い出したのは生徒会が始まってから暫くしてからだ。お前に言われるまで見られていたことも知らない」
――――ちょっぴり、ほんの少し、全然わずかに。傷付いた。銀士郎さんを見ていた事を知らないのは当然ではあるし知られていたら恥ずかしいことこの上ないが、存在を思い出すのに時間がかかり過ぎではないのでしょうか。これでも目立つ部類の人間だと自負しているのですが。
それともあれか、本当に他人に興味が無いのだろうか。今こうして生徒会の人や先輩と仲良くしているのも嘘で、私も他の人も同様に興味が無いのかもしれない。勉強を教えてくれているのも、私を褒めてくれているのも、悩みを聞いてくれたのも、全部その時に偶々気が向いたからなのではないのか。
ぐるぐるぐるぐる。頭の中は渦潮の様に回る。考えたくなくても、銀士郎さんなら有り得てしまう。人のためなら自分なんて一切考慮しない人が、ちょっとズレがあったくらいで今までの事を消すはずがない。お情け、善意、哀れみ。銀士郎さんが私に親切にしてくれているのは、もしかしてそれが元のなのではないか。
嫌だ。そんなこと認めたくない。銀士郎さんは私を本当に見てくれている。今日だって小テストで点数が上がったのを報告した時、あんなにやさしい笑顔で頭を撫でてくれた。時間を割いて、労力もかけて、テスト用の問題集も作ってくれた。あんなにやさしくしてくれたのに、私のために沢山色々な事をしてくれていたのに、嘘なのかもしれない。
信じたくない。そんなはずない。
「瑠璃」
だって銀士郎さんは私を褒めてくれた。認めてくれた。自分を認識してくれたタイミングで少しショックを受けただけで揺らぐ事実ではない。
「おい、返事をしろ瑠璃」
なのに、なんで私は今苦しいのだろう。何故呼吸が上手くできなくなりかけて、浅い息になっているのだろう。おかしい事は無い。冷静に、何時もの様に笑えばいいだけ。早く笑え、胡桃瑠璃。銀士郎さんに変な気遣いをこれ以上させるな。笑え、笑え、笑え笑え笑え笑え笑え笑え笑え笑え笑え。
「瑠璃、息を深く吸え」
煩い、銀士郎さん。今私は銀士郎さんの事を考えて――――違う、今の言葉は銀士郎さんが言ったんだ。煩くない。大丈夫。でも私は間違っていない。銀士郎さんは本当に私の事を考えて想ってくれている。本当に?嘘ではないと言う証拠は?真実の提示はできるのか?
「……仕方が無い」
「……おい我妻、何をする気――――」
弾かれた額。激痛。視界が明滅するほどの衝撃。私は今何をされたのか、全くわからなかった。
目の前にあったのは、いつもより顔を強張らせた銀士郎さんと、目を見開き唖然としている部長の姿。額にはジワリと広がる痛みと熱。添えられているのは銀士郎さんの中指。恐らくデコピンをされたのだろう。事実を呑み込むのと並行して鈍くなっていた感覚が急速に戻る。そして、私は錯乱し銀士郎さんがそれを止めてくれたことをようやく理解した。呼吸が浅くって苦しかったのに、今はそれが無い。代わりに、胸が苦しくなってきた。
「あ、の――――」
「すいません部長、今日はコイツを連れて帰ります。あの人には後日謝罪します」
「いや、元々急な話だったから心配しなくていい。胡桃を頼んだ」
「はい」
腕を掴まれ、椅子から立ち上がるよう動かされる。鉛の様な思考と符合したような体の重さは、二足で立つ事すら億劫ですぐに座りたいと思いました。それを一切許してくれない銀士郎さんは私の側に立つと、片手を腕に、もう片方の腕を腰に回して支えてくる。太い腕が、私の体を沿う様にして触れている。不透明な優しさが、私を支えている。
「……立てます」
「掴まってろ」
私の言葉を封殺してコンビニから出る。外は蒸し暑さが僅かに納まりながらも、残存する湿気の名残で不快感が増していく。意味も無く空回る思考も相まって、胃の中身が喉を逆流してきそうになる。
「……ごめんなさい銀士郎さん、離してください」
「断る」
「もう歩けます」
「家まで送る、ふらついた人間放って帰ることができると思うな」
「……そんなの勝手です、私は今一人が良いです」
今は信じられない。信じたいのに、突然前触れも無く振ってきた疑いが頭からこびりついて離れない。そんなはずがないのに、銀士郎さんはそんな人じゃないのに。
「いいか瑠璃、今のお前の顔は明らかに不安定だ。気持ちはわかるが、一旦荒れた状態の思考を戻し――――」
「――――……機械じゃないんですよ」
「……?」
「……みんながみんな、銀士郎さんみたいに――――機械的に……気持ちをコントロールできる訳じゃないんですよ」
ああ、こんなこと言いたい訳じゃないのに。
「自分ができるからって、可能な事だからって、私に簡単なように言わないでください!」
荒げた声は自分だとは思えない、しゃがれ濁ったものだった。私が声を荒げたのが珍しいからか、銀士郎さんが滅多にしない、驚きと不安の表情のまま無言になってしまった。
――――何故だろう。銀士郎さんの表情を、普段ならまずする事の無いその表情を見た私の心は、嘘みたいに穏やかになった。それどころか、喜びと興奮が紙面に垂らした水滴の様にジワリと私の心に広がっていく。
彼の感情を独占している。彼の意識を独占している。彼の視線を独占している。彼が私だけに向けるものがある。その事実が混濁した思考を薙ぎ払い、充足感を与えてくれた。先程の不安が消えた。解決はしていないけれど、一旦は納まった。よかった。
だけど。
「……悪い、俺の配慮が足りなかった。本当にすまない」
深く頭を下げる銀士郎さんの姿で、今度は現実に戻された。彼に非はほとんど無い。元はと言えば、勝手にじたばたと暴れ混乱した私が悪い。なのに、私は自分で弁解の言葉を述べるために口を開くことができなかった。謝りたいのに。ごめんなさい、私が勝手におかしくなってしまっただけなんです、もう大丈夫。そう言えばいいのに、なんで、動いて、動け私の口。
「今日は俺はここまでにする。もうすぐにお前の家に着くだろうが、くれぐれも気を付けてくれ」
じゃあな。そう言って銀士郎さんは後ろに振り返り私の傍から離れていった。お礼も、謝罪も何もできてない。私の空回りで迷惑をかけたのに、彼に謝らせてしまった。
「――――ぁ……」
虚空に伸ばした手は、何にも触れないまま虚しく震えていた。
家の玄関を開ける。
明かりは無い。親は基本的に家にいる時間が少ない。私との会話も最低限。だって私に何の興味も無いから。子供として養う意思はあっても、それ以上は無い。何時だって寒々しいものだった。
靴を脱いで、階段を上り自室に入る。私の部屋、私だけの世界。辺りにあるのは机と椅子、ベッド、そして沢山の振り子時計。壁にも棚にも机上にも、ちくたくちくたく音が鳴っている。規則正しい音が、早くなっていた鼓動を落ち着けさせてくれた。
ベッドに横たわる。すぐ横のローテーブルにある写真立ての中から、一つ手に取る。
そこには生徒会の皆と撮影した写真。勿論銀士郎さんも、私とさっきまで一緒だった人もいる。薄く小さく、それでも確かに写真の中の銀士郎さんは、微笑んでいた。紛れも無い、銀士郎さんが自発的に出した笑顔。この顔を見れば、あの人がそんな冷たい優しさを私に向けないなんてわかるはずなのに。私は私の事しか見えなくなって、あの人を傷つけて、余計な憂いを抱かせてしまった。
「ぁ……ぅう…………っ!!」
ぽろぽろと涙が流れる。こんなことをしたいはずじゃなかったのに。自分の勝手な感情で人を傷つけたくなかったのに。銀士郎さんに心配をかけたくなかったのに。銀士郎さんに酷い事を言いたい訳じゃなかったのに。そんな簡単な事も出来ずに我儘に行動した自分が嫌になる。嫌い。だからきっと私のお父さんもお母さんも、私に興味が無いんだ。自分だけ自分だけと好き勝手をしているから、見限られたんだ。
落ちてしまった水滴が硝子の上に落ちて、銀士郎さんの姿を不明瞭にしてしまう。まるで私の視界から滲んで消えてしまったかのように。震える指で水滴を拭う。銀士郎さんは居る。少しだけ安心した。
写真を胸に抱く。何時もなら落ち着くはずの振り子の音は、唐突に湧いた孤独感のせいでさっき思考をぐちゃぐちゃにしてきた不安と疑念をまた呼び起こしてきた。体が震える。そんなはずはないと何度もつぶやきながら、私はそのまま瞼を閉じた。
今は、何も考えたくない。
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