風をまきおこす

石川ちゃわんむし

風をまきおこす

 今日もまた、彼がいた。

 通勤途中にもかかわらず、私はいつもの公園で足を止める。

 スーツを着た彼はにこにこと明るい笑顔を浮かべて公園のタイルに銀色のCDプレーヤーを置いた。中肉中背で、短く切り揃えた髪がよく似合っている。二十代にしては少し顔が大人っぽく見えた。

 彼はプレーヤーの上についたスイッチを押す。

 プレーヤーから流れてきたのはパッヘルベルの「カノン」。いつもと同じである。正式な曲名は忘れてしまったが、とても有名な曲だ。バッハの「G線上のアリア」と並んで卒業式の定番である。

 そして、彼は踊り出した。

 実に優雅だ。手の動きは風に舞うタンポポの綿毛のように繊細である。あっちへひらひら、こっちへひらひら。重力を感じさせない軽快な動作は、バレエのそれを彷彿とさせるだけでなく、ピエロのように滑稽でもあった。ビジネスシューズはタイルの上を飛び跳ね、翻るスーツまでも輝いているようである。そして、それらの動きが弦楽器ののびやかな音と融合しているさまが絶妙であった。

 視線を感じた。振り返ってみると、数人のサラリーマンや学生たちが人だかりを作っている。

 私と同じく毎朝ここを通っているだろうに、初めて見るもののように不審げな視線を向けている。

 毎朝、公園で華麗に舞うサラリーマンなんか、そう多くはない。いや、ほぼいないだろう。

 そもそも、彼はサラリーマンなのだろうか。クルリとターンする男をぼんやりと眺めながら思う。それでも、彼はにこにこと明るい笑顔だ。誰とも目を合わせずにこにこと明るい笑顔を振りまく男は、少し不気味でもあった。しかし、彼の踊りをしばらく見ていると、彼の笑顔が自然な微笑みのように見えるのである。

 周りの人はそんな彼を横目に見ながら、一度足を止め、すぐに歩きはじめる。

 確かに変な人だ。ただの変人だと思えば、私だって立ち去っていたかもしれない。でも、私は動かなかった。

 にこにこと微笑みながら踊り続ける男。ただ、彼が毎朝踊るさまを見るだけ。

 これが私の毎朝の日課であった。

「なにを、していらっしゃるんでしょうね」

 私はとっさに右隣を向いた。いつもの彼女の声だ。

 私の右肩あたりから、彼の踊りを見つめ続ける彼女の横顔が見えた。

「朝のあいさつの代わりですか?」

「いつも同じことを言ってるなって、今思いました」

 そう言って彼女は、私の方をちらりとも見ず目を細めておかしそうに笑った。相変わらず、ショートヘアが似合っていた。

 彼女とは、この春から毎朝、この公園で会うようになった。年齢は分からないが、おそらく私と同じくらいだ。服装から推測するに、おそらくどこかのOLだろう。お互い連絡を取り合っているわけではない。ここで待ち合わせをしているわけでもない。職業も、名前さえも知らない。ただ、通勤ルートと通勤時間が同じだけである。

「いつも、素敵な踊りですね」

「心が落ち着きます」

「私もです」

 そう言って彼女はまた微笑む。素朴な笑みが素敵だった。

「でも、どうして踊っているんでしょうね」

 えっ、と言いそうになりあわてて口をつぐむ。彼との距離は十メートル近くあいていたし、音楽も流れていたので彼に聞こえる心配はなかった。しかし、私は喉の奥に何かが沈んでいくような感覚に襲われた。

「どうして、というと?」

「こんなにたくさんの人に見られながら、毎朝踊っているわけでしょう? それも同じ曲を。動きは毎日違いますけど、そうまでして踊りたいものでしょうか?」

「人それぞれ、ということでしょうね」

 そう言いながら、私は少しだけ迷った。

 彼女に話すべきだろうか。彼のことを。

 男はまだ、カノンに合わせて踊り続けていた。

「誰にも言えない、踊り続ける理由があるんですよ」

「そっか、そうですよね」

 彼女が一度だけ大きくうなずく。

 彼はまだ、踊り続けていた。にこにこと無邪気な笑顔を浮かべて。

 今更、彼女に彼のことを説明する必要はない。

「じゃあ、私そろそろ行きますね」

 彼女はそう言って、肩にかけたハンドバックをかけなおす。

「そうですか、私は、もう少し見てから行きます」

 彼女は少しだけ目を丸くしたが、すぐに元の笑顔に戻った。

「どうぞ、ごゆっくり」

「行ってらっしゃい」

「はい、行ってきます」

 そう言って彼女は、私に軽く会釈して背を向けた。

 あ、と思わず声が出る。彼女は何事かと私の方を振り返った。

 彼女と目が合う。一瞬心を奪われた。

 バイオリンの音が高鳴る。男の笑顔が浮かぶ。言葉は消えていた。

 私は彼女に「何でもない」と言うように首を横に振った。

 彼女は一瞬困ったような表情を見せたが、やがて私に大きくうなずいてみせ、笑顔のまま軽い足取りで立ち去って行った。

 見送る私の背後、プレーヤーから流れるカノンは終盤に差し掛かっている。

 振り向けば、スーツ姿の男は相も変わらず笑顔であった。

 彼は、踊ることをやめない。

 少しずつ、その表情が懐かしいものに変わっていく、そんな気がした。

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風をまきおこす 石川ちゃわんむし @chawanmushi-ishikawa

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