司りし者のヘルハール

ヒグマ

第一章 血の伯爵夫人

第1話 見知らぬ大地

 「吸血鬼の一つの特徴として、手の力があるね。将軍が斧をふり上げた時に、あのカーミラの細い手が、まるで鉄の万力みたいに将軍の手首を掴んだでしょう。しかし吸血鬼の手の力というのは、握るだけじゃなくてね、握られたところは、手でも足でも、痺れて利かなくなってしまって、あとなかなか治らんものですよ」

                  J・S・レ・ファニュ『吸血鬼カーミラ』







 はじめに、壱ヶ谷真尋いちがやまひろは決して素行の良い人間ではない。

 

 とはいっても盗んだバイクで走りだすような典型的な不良ではないし、勉強に寝る間を惜しんで取り組む優等生でもない。体育館に乗り込んだこともなければ、放送室を乗っ取るなどもっての外だと声を張れるほどには常識というものを身に着けているつもりだ。

 ここで言う素行とはそんな極端な代物ではなく、誰しもが等しく持っているであろう怠惰性にある。 


 呑気、高校の友人はその二文字がお前の性分だと宣告した。

 確かにと真尋はその時、納得したのを覚えている。焦躁がないと言えばいいのか、真尋には皆が求めて懇願する将来が未だに見据えられずにいたのだ。

 別段、それを原因と決めつけるつもりはないし、自分以外にもそれが悩みの人間はいるだろう。

 自分は何処に向かえばいいのか?など万人が通る道だと真尋は考えている。真尋自身、それに解答を得ているなどと驕るつもりはないが、解決はしているつもりだ。そしてそれをいつまでも拗らせている気はさらさらない。

 第一、真尋はまだ人生のじの字すら始まって間もない十六歳だ。それに真の構築式を築くには後、何十年もの歳月が必要となる。

 恐らく友人が言いたかったのはそんな人生経験に対しての主観的意見ではなく、ただ単に友人故の警告だったのだろう。気をつけておけよ程度の他愛のないやり取り。やや濁った瞳を掲げた人間に対しての親しいからこその呼び起こし。


 「ん、あ…?」


 もし、自分を造り上げた神様などというのが存在するのなら、真尋はこの性質に一番、文句を並べてやりたいと思った。


 土曜の昼過ぎ、真尋は朝の晴天に意識を覚醒させられ、雲一つ失せた空と光の本流たる太陽の輝きによって布団から起き上がった。

 春の陽気に助力を受けた温風が真尋の髪を揺らし、そんな自然の神秘に触発されたのか、それともいつもの性分が働いたのかどうかは分からないが、猛烈に起床と同時に、とてつもない散歩意欲を掻き立てられてしまった。鏡に写った自身のやるせない表情を救ってやりたいと思ったのかもしれない。

 真尋は白のTシャツの上にカーキブルゾンを羽織ってベージュのズボンを穿き、近くのそれなりに広い自然公園へとリュックを背負いながら日向ぼっこ兼休息を取るため足を運ばせた。

 休日とだけあって家族連れなどはいたが、それすらも自然を象徴する音色だと木のざわめきと共に靡かせながら、真尋はバッグに詰んだ一人分のレジャーシートを広げ二度目の暗闇へと眠りについた――筈だった。


 「今日って、確か雲なんざ一つもない青空だったよな…?」


 あれから、真尋は何時間、睡魔の渦に晒され続けたのか、気づけば自分を見下ろす空模様は青を忘れ濁った白色に変わっていた。

 雷の気配や雨の心配はない。単純に薄い膜程度の脆弱なそれだ。だが真尋には違和感があった。己がどれだけの時間を睡眠に捧げたのかではない。空の色にだ。

 数日前に桜の開花予報を終わらせた早朝のニュース番組における天気予報では、キャスターのお姉さんが大凡、寝起きの人間には喧しいとすら思える声量で快晴であると伝え、晴れマークは四十七都道府県のほぼ全てを制圧していた。

 それがどうだ。暗雲とまではいかないが太陽の恩恵は遮られ、今では涼風に少し湿っ気すら感じられる。

 天気である以上は多少の誤差は許容するべきだろう。だが、快晴からの曇りと来た。これでは日向ぼっこの意味がない。そもそもその日向が消滅してしまっているのだから。


 「あと、俺ってレジャーシート蹴り飛ばすレベルで寝相悪かったっけ…?」


 しかしそれだけなまだいい。所詮は真尋の気分の話だ。たとえ曇天だとしてもそれだけの理由で機嫌を損なうほど、贅沢を求めているわけではない。

 真に問題なのは持ってきた荷物の所在にある。レジャーシートだけなら強風に煽られただの理由もつけられるが、リュックの行方どころか親子の遊び声すら聞こえなくなっている。

 お陰で今の真尋は大自然の一部たる地面にその背中を預けているわけで、服への被害は甚大なものになっていた。


 「うわぁ…最悪だ」


 背中を起こして可能な限りの土やいつの間にか潰してしまっていた虫を叩き落す。ズボンも同じ手順で人力の成すままに汚れを払い、頭のは無視した。数時間ぶりに動かすであろう両足に神経を通して指示を伝達させ、立ち上がらせる。


 「んだ、ここは…」


 そして次の瞬間にはその疑問符に対しての解答が容赦なく真尋へと雷撃の如く打ち落とされた。曇りなのは当然で、自分の所有物が失せたのも必然で、木々のせせらぎや親子の会話が一切、聞こえなくなったのも当たり前だった。


 真尋の双眸に映し出されたのは、ただ一面に広がる深緑に囲まれた平原であり、そこにはこれといった特徴など一つもない。

 あるとすれば一際、その位置から離れた真尋からでも把握できる巨大な石畳の城があることぐらいか。それでもそこが先までにいた場所とは明らかに差異があるという事実だけは今の真尋でも理解できた。できてしまった。


 「夢ってワケじゃないもんな…」


 身体にこれといった異常は見受けられない。強いてあげるとすれば寝起き特有の気だるさと原因の知れぬ不快感ぐらいか。


 夢ならばと期待するが生憎と意識がハッキリしすぎている。両手両足は真尋の思い通りにその機能を果たし、脳が作り出したにしては余りにも精密なその世界ではそんな確認作業すらおこがましい。頬を抓る必要性すらない。何せこれは、


 「ついに俺も異世界転移デビューですか…」


 ――紛れもない現実なのだから。


 ※※※※※


 最初に自分はどうなってしまったのかを考える。


 壱ヶ谷真尋、この世に生を受けてさした幸福も極度の不幸も経ずに平凡な環境で十六年の時間を捧げたごまんと蔓延る凡夫の中の一人である。

 茶色の短髪に男子高校生の平均身長を少し上回る程度の身長に体重、趣味は昼寝と読書。それだけで彼の人生における骨子は成立する。

 もし仮にそんな人間である真尋の特徴を上げるとすれば、生まれつきの流れ出る鮮血もかくやな紅く鈍い光を放つ宝石にも似た深紅の双眸だろう。これの所為で中学の時はカラーコンタクト疑惑をかけられたりもした。現在では笑い話の一つだが。


 そんな人間に起きた事態、事故の方が正確だろうか。取り敢えず厄介ごとが起きたのには違いない。

 異世界、なのだろうか。だとするのならば無防備で放り出されたという解釈が正解だろう。あの城は王族が居を構え勇者やら転移者を輩出しているのだと考えれば、辻褄が合わないことはない。真尋の場合は手違いか何かだと説明されれば取り敢えずの整合は成立する。それか流れ作業に飽きた王様の粋な趣向かもしれない。

 現状、真尋が把握可能な範囲はこの程度だ。これ以上は実際にこの異世界(仮)を歩まないことには始まらない。


 「マジかぁ…勘弁してくれよ…」


 だが、そんな事情はこちら側の人間たちの都合に過ぎない。真尋からしてみれば昼寝をしていたら突然、なんの予告も暇もなしに自分の存在が必然として浮くであろう世界に迷い込んでしまったのだ。

 それは即ち元の世界への帰還が困難になってしまったことを意味し、魔王に代表されるこの世界における最大の敵を倒すまでは解放もなく拘束の運命にある。


 「だからといって直談判するわけにもいかねぇからな…」


 真尋は恐らくは己を召還したであろう城の主が居そうな位置を黙視して少し睨む。

 もし仮に自分の立場を改めさせろとカチコミにでも行こうものなら八つ裂きか打ち首獄門等の典型的な処刑に有無を言わさずに突入しそうな威圧感がその城にはあった。それが事実なのか杞憂なのかは不明だがそれでも天から地を見下ろす主君の為にと意図して設計されたものなら効果は覿面だろう。


 「ま、取り敢えずは身の安全の確保だな…」


 「だったらこの先にある城下町を目指した方が良いね。ここじゃお姫様の手先が攻め込んでくるし」 


 「あぁ、そうなのか…って」


 不意に、その声が聞こえた。女性のそれも妖艶さの欠片もないような幼女の声。あまりにも突然に、しかし適切な応答を示されたことで、その違和感と驚愕が遅れて背筋からやってくる。

 後ろ、前、左右と順に振り返り首をこれでもかと人体の許す限り回し続ける。傍から見れば奇怪な光景にしか写らないそれは結果として不毛なもので終わった。


 「どうしたのさ、くるくるくるくるとアホみたいに首を回転させたりなんかして」


 「おわぁ!?」


 眼前、ひらひらと桜色をした蠅の羽のようなものを生やした金髪の少女が小首を傾げながら真尋の正面に逆さで佇んでいた。少女と言っても人間サイズではなく三寸程度かそれ以下の身長をしており、どう表現しても怪奇以外の何物でもなかった。


 「もしかしてアタシの姿を見て怖気づいちゃったのかな?かな?そいつは結構。じゃないと面白くないしねー」


 「な、な、な」


 わけが分からない。理解が完全にその仕事を放棄してしまっている。何が起きているのかも不明な状況でファンタジーでしか見たことのない幻想生物が間近に現れれば誰だってこうなるだろう。

 それを尻目に金色の髪を揺らしながら、軽快なステップを踏むかの如く妖精は真尋の正面に浮かび自身を写す瞳をまじまじと凝視する。


 「お前は、一体、何なんだ…?」


 純粋な疑問だった。それを妖精はどう捉えたのか笑みを浮かべながら自身の存在についての解答を提示する。


 「典型的な使い古されたセリフをどうもありがとう。それでアタシが何なのかは見てのとおりさ壱ヶ谷真尋君。アタシは可愛い可愛い妖精さんだよ」


 「あ…?何で俺の名前を…」


 「そりゃまぁ、知ってて当然さ。何せアタシはキミのアドバイザーなんだからね」


 それは真尋の予想していた解答よりも斜め上を行くものだった。妖精のアドバイザーとは何なのか。アドバイザーというからには当然、真尋の知り得ていないこの状況へのより詳細な理解を持ち合わせていることだろう。

 しかし同時にこの上ない怪しさも妖精を名乗る幼女の中に混在している。信用してはならないと本能で叫ぶ自分がいるのがそれを感じた原因なのかもしれない。


 「ってその顔は信用していない顔だなー。まぁ、当然か。こんなイミフな環境に放り込まれれば誰だってそうなるよね」


 「それもそうだが、お前みたいなマスコットの類は近年では信頼を預けてはいけないっていう暗黙があるんでな」


 「失敬な。アタシにだって一応の良識はあるんだよ。なんたってアドバイザーだからね」


 ぷくりと頬を膨らませて遺憾を訴える妖精。思わず可愛いと考えてしまった己の単純さに喝を入れながら妖精へと向き直る。


 「だったら答えろ。ここはどこで俺は今、何に巻き込まれている」


 それを聞いて妖精は自身の顎に右手を乗せてふむと少し耽ると、先までの子供の荒さのない怒り顔が嘘のように無邪気な笑みを浮かべた。不意にぞくりと真尋の背中から嫌な悪寒がする。それは単純な恐怖心なのか安堵なのか真尋には見当がつかずにいた。


 「あーそうだなぁ。何から始めようか…だったら先ずは自分の右腕を捲ってみようか。話はそこからだね」


 言われるままに真尋は自身の羽織ったカーキブルゾンから右腕を捲る。疑問がないわけではなかったがそれよりも事実が優先だとその符を払い、右腕の地肌を外界に晒した。


 「なん、だよ、これは…」


 赤色の刻印、それが真尋の右腕にびっしりと紋様を刻んでいる。

 禍々しくも法則性のある刻印は肘から爪まで細部に渡って装飾されており、精巧さや不可思議性の観点のみで測れば並のアートを凌駕する。

 しかし真尋にとっては知らぬ間に己の身体に紛れた異物であり、今まで気付けなかった不甲斐なさと相まって改めて現在の状況の異常さを再認識させた。


 「それは紋章。キミが魔法を滞りなく使用する為に取り付けられた安全装置とでも言えばいいのかな?とにかく君がこの世界で成立する最大の要因だから失くさないように注意してね」


 「魔法だって?」


 「そう。キミも漫画とかアニメとかで腐るほど見てきたでしょ。何もない所から物理法則を無視して発動する幻想の最大手。キミはそれを使えるってわけなのだよ。分かった?」


 魔法。その名の通り従来の化学や物理を覆す魔を体現し、具現化する絶対の法。現代では存在どころかその一端に至るまでが塗りつぶされ、否定されている未知の技術を真尋は自由に使える立場にあるという。

 いまいちピンと来ない。というより現実味がない。かつては夢想したものだが小学生を最後にそういった類とは卒業している。故に実際に揮えると頭で分かっても実感が湧かないのはそんな虚しい成長の証なのかもしれない。


 「…あぁ、まぁ、何となく」


 「煮え切らないなー。いかんぞ若人よ。現代社会の闇に空想を奪われては。目指す先も見えず廃れてしまうぞよ」


 「…いや、お前みたいな奇天烈に言われる筋合いねぇんだけど」


 「な、なんだとー!」


 ぽかぽかと痛みどころか身体に一切の影響が及ばない殴打を両手で繰り返す妖精。これだけ見れば正しくマスコットなのだろうが、信用できない以上は評価も一定しない。事の真相を全て知るまでは真尋の内にある心の扉が開くことはないだろう。


 ムキになりながら真尋を叩く妖精を右手で詰まんで引き離す。妖精は暴れるが、真尋の握力には敵わずただ遺憾の表情を浮かべていた。


 「むー、アタシの扱いが雑なのよ。あんまり乱暴するのならもう親切にしないかしら」


 「あー、悪かったよ。何せこちとら状況すらよく分かっていないんでな。ただ一々、そうやって口調変えるのだけはやめろ。余計にわけが分からなくなる」


 離して、未だ少し不機嫌気味の妖精を宥める。それが功を奏したのか妖精が単純だったのかは不明だが段々と機嫌が直っていった。


 「やれやれ面倒な注文客だねぇ。全く世話が焼けるったらありゃしない」


 もう反論するのすら疲れてきた。恐らくは妖精はこういう性質なのだろう。こちらが幾ら文句を垂れても他者の骨子を変えるのは容易ではない。

 故に真尋は受け流すことにした。そうすれば体力の消費を抑えられるというのもあったが、何よりも話が進まない気がした。


 「まぁ、その方がアドバイスのし甲斐があっていいんだけどさ」


 「…あぁ、そうかい。で、ここは結局どこなんだ?異世界だってんなら早めに世界観を説明してくれると助かるんだが」


 「…あー、そういう解釈になるのか。ま、妥当かな」


 「あ?どういう意味だ」


 いまいち煮え切らない回答だった。というよりは真尋の仮説に意外を感じていると言えばいいのか。妖精は頭に人差し指を乗せて考えてから平原の先にある城を指差した。


 「まず先に言っておこうか。ここは異世界でも何でもない。女騎士も嫌味な同級生も安易なハーレム要員も簡単にキミに愛を囁く尻軽なお嫁さんも存在しない」


 「…俺ってそこまでに見えたのか」


 「いんや、ただの割合の話さ。要は昨今の妄想癖も甚だしい異世界ではお約束のそういう連中はいないってだけだよ。紋章だって同じさ。万物すら叩きのめすようなチート能力じゃなくあくまでも生き抜き事態を突破する為の武器に過ぎない代物だ」


 「だったらここは何なんだ。まさか並行世界とでものたまうんじゃねぇだろうな」


 「まさか、そんなわけないじゃない。むしろ君の方こそアレには見覚えがあると思うんだけどなー」


なんだと、と言いかけて不意に視界が城を捉える。

 人々の心に影響を及ぼす以外、何の変哲もない石城だ。西洋の技術と意匠が惜しげもなく使われており、正しく特権階級の人間のみに与えられた牙城。気品と感性で凡庸たる人種の侵入を阻もうとするそのオーラは平原からでも充分に伝わってきている。


 「…見当もつかねぇな。あの城が俺に関わりがあるとも思えねぇし」


 「確かに関わりはないだろうさ。キミは純日本人だからね。でもそれなりに有名なスポットではあるんだよ」


 「…有名だって?」


 「あぁ、有名だとも。キミだってまさか吸血鬼の元ネタを知らないわけじゃないでしょ?」


 「なんだと……」


 不意にぞくりと悪寒が走る。危険信号なのか城の放つオーラに紛らわされてなのか、真尋の身体はいい知れぬ感覚によって震わされていた。頭に候補として挙がるのは二つの影。それを何とか押し殺して妖精に問いを投げるべく口を開く。


 「…吸血鬼って言ったな。それはどっちのだ」


 妖精の口元が歪む。それはとても無邪気で罪の自覚すらない子供が優越に浸る時に浮かべる邪悪そのものだった。


 「もうすぐ、答えが向こうからやって来るよ」


 最初に聞こえたのは声高い女性の悲鳴だった。どうやら近くに人がいたらしい。

 が、悠長に安心などしている余裕はなく真尋の立つ位置から十数メートル先の位置に敷かれたであろう道路に、軽快な音を奏でながら黒色の派手な装飾が成された馬車が止まる。次いで現れたのは白を基調とした軽装を着た女性二人。遠くからではよく見えないが右手に短剣らしきものを持っていた。


 「なんだよ、あいつら…」


 「言ったろ。お姫様の使いの者さ。侍女ってヤツだね。本当にそうかは知らんけど」


 百足が自分の両足に絡んでくる錯覚に襲われそうになる。本能で感づいた自身の置かれた状況に対しての解答を今更になって拒んでいる自分がいる。妖精はそれすらも読んでいたかのように不敵に微笑んだままだった。


 「…現代まで続く吸血鬼伝説を生み出した立役者は大まかに分けて二人。一人はワラキア公国の王であり敵国であるオスマンを恐怖のどん底に叩き落した大英雄。ヴラド・ツェペシュ」


 「…まさか、お前の言っていたお姫様ってのは」


 足早に片方は悲鳴の根源である女性の方へ、もう片方は真尋へと接近する。近づく襲撃者の双眸は虚ろで汚れていて、まるで全てを諦めた絶望のそれだった。


 「そう、ここは異世界でも並行世界でもなく過去の世界。正確には1610年のハンガリー王国にあるチェイテ城」


 迫る短剣の切っ先は硬直し、妖精の言葉に耳を傾けるしかない真尋を刺し殺すにはあまりにも最適で、無駄の多い女性の動きでも着々と距離は詰められ、遂には短剣が真尋の脳天目掛けて振り下ろされた。


 「ようこそ、壱ヶ谷真尋。血の伯爵夫人が支配する負の歴史へ」


 残響。曇天の空に薔薇の如き真紅の血飛沫が咲く。後に残ったのは業炎とそれによって骸と成り果てた一つの死体のみだった。

 





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