白髪大蛇
@SyakujiiOusin
第1話
小説「白髪大蛇」
百神井応身
緑深い山間は、そこに至る道が僅かにそれと判る杣道以外開かれていないこともあって、人が殆ど入り込むことがなかったから、獣たちの楽園であった。
その、険しい崖に囲まれた山中に、僅かばかり開かれた盆地状の場所にできた村落があった。白髪大蛇と名乗る者を首魁とし、数十人の不落戸に占拠されていて、周囲からの出入りは設けられた木戸を通る他なく、そこに至る道も麓の村からは隔絶されていた。
シラガダイジャとはクスサンの幼虫で、シラガタロウとかシラガダイジンと呼ぶところもあるが、白い毛が密集していて親指くらいに太さの、10cm強の大きな毛虫である。
「クスサン」(楠蚕)というヤママユガの仲間ではあるが、見るからに禍々しく、栗の葉に山ほどたかってそれを食い荒らす害虫であることに違いはない。
蛾であるから繭はつくるが、それから糸が取れるわけではないし、毛虫も見るだけで悍ましいので、用途がないこともさることながら、嫌われものであることに変わりはない。
白川村育ちの厄介者がそんな二つ名を名乗るくらいであるから、その素性もその品行も推して知るべしの男であった。とにかく手の付けられない無法を犯しまくるのだが、誰も手出しができなかった。
そこは山根藩3万石の所領地内にあったが、藩域は山地が殆どで水田は少なく、実際の取れ高は2万石にも満たなかったから、藩の財政は困窮を極めていた。
それでも禄高通りの格式と体面を保たねばならないから、領民は苛斂誅求を余儀なくされていた。
生活が苦しく厳しいという事は、領内の治安も悪いということに繋がっていた。
このまま放置すればいつ一揆が勃発するやも知れず、それは即座に藩の取潰しとなることは目に見えている。
藩の重役は何の知恵も出せず、無為のうちに過ごすばかりであった。
武士というのは、米経済にばかり頼り、生きていくための経済活動に目を向けることは、まるで卑しいことのように考えていた。士農工商などという身分制度を作って、そこに胡坐をかいていた。
目付として父の代を襲った若侍に山村大膳が居た。差配違いは承知だが、藩の財政を立て直すには特産品を整え、それを流通させることで益を生み出すしかないと考えた。そこまではまともである。
領民を困窮の極みから救わんとする志がなかったとは言わぬまでも、自らの野心がそれに勝っていた。まずは藩内で力を得る段階の手始めとして、次席家老桑名頼母に取り入ることで、自らの勢力範囲を広げようと図った。
百姓というのは農民のことだと思っている者が多いが、古くは臣・連など数十種の姓 (かばね) を持つすべての人民をさし、「おおみたから」「 ひゃくせい」といい、大化改新以降は公民をさした。律令制下の土地公有制がくずれ、 私有制が展開されるにつれて、百姓は農民を意味するようになったのだが、7パーセントほどしか占めない武家の言いなりにしかなれない階層であることは確かである。
しかし、米しか考えられない武士と違い、この百姓と呼ばれる階層の生産者たちは、知恵を絞って段々に米以外の殖産により収入の道を図り、力を蓄えていったのである。
その考え方の走りともいえる山村大膳は、領国が山間の地であることから、山に降り積もった雪が溶けだした潤沢な湧き水が生まれ出る清流に目をつけ、これを使って何かできないか?と考えていたのであった。
冷たい清流に適したものといえば山葵。
山葵の産地といえば伊豆ということになっているけれど、伊豆の山葵は自生していた山葵を栽培することで生産量を増やしたのではない。そもそもの山葵発祥の地は、同じ静岡の有東木であるとされる。そこから内々に伊豆に持ち込まれたことでその地の名産物となった。
「内々に」というのは、江戸時代当初、山葵は将軍家に献上されるもので、「有東木から他の地に持ち出すこと罷りならぬ」という御禁制品であったからである。
山葵は日本原産で、古くから自生のものが薬味として利用されていたようであるが、江戸時代初期に有東木沢の村人が、野生の山葵を湧水地で栽培してみたところこれが成功し、有東木地区での栽培が始まるに至った。有東木の山葵は駿府城に入っていた徳川家康に献上され、家康はその珍味を称賛して、山葵は有東木から門外不出の扱いにするよう命じ、栽培技術は他地区に広げられることが禁じられたのは上述の通りである。
1744(延享元)年、伊豆天城の板垣勘四郎が椎茸栽培の技術指導で有東木を訪れ、半年間をそこで過ごしたが、その間に山葵の栽培を目にし、伊豆でも栽培したいと熱望した。
有東木の住民は椎茸栽培技術を教えてくれた板垣への感謝の気持ちから、帰国の際に禁を犯して山葵の苗を持たせた。この結果、天城でもわさびの栽培が始められることになったのである。
しかしこのことは当然のことながら、間もなく幕府も知るところとなった。評定が行われたが、町奉行は「有東木の者が渡したのは弁当であり、板垣等が伊豆を思う気持ちが弁当の飯を山葵に変えてしまった」と粋な裁きをして、厳しい詮議を逃れた。殖産を起こすことに意味があるのだと言う意識があったからだとまでは思えない。
伊豆の地で栽培されるようにはなったが、更にそこから他領に持ち出されることは厳に禁じられ、隠密などを潜入させて持ち出そうと試みた藩は有ったが、いずれも捕らえられ領境を越えることが叶わなかったとされている。
山村大膳は、それを掻い潜って苗を手に入れようと企んだのである。
幼い時から山間の地を駆け巡りそこが遊びの場であるとして育ったことから、夜間でも熊や猪の襲撃を避けて移動することに慣れている忍者顔負けの屈強な者が大膳により遣わされた。勿論、秘密裏のことであった。
秘密裏のことは、成功した暁には、それに携わった者たちに権益が生まれる。大膳の手下として前々から手懐けられていた白髪大蛇は、そのうちの一人であった。
山村大膳は切れ者であった。段取りの立て方が巧い。時にはご法に背くような手立てをとることもあったが、尻尾を掴まれるようなことはなかった。
例えば、役目柄の探索の為には、手下として箸にも棒にもかからないような無法者を使いこなした。勿論、表立って人の口の上るようなやり方はしない。出世欲は人一倍強いから巧妙であった。
太平の世となり忍者が表立って動くような時代ではなくなっていたが、伊豆といえば戦国時代に関八州を治めていた戦国大名は北条氏であり、そこを拠点としていたのは頭領が代々風魔小太郎を名乗る風魔忍者であったから、その名残は残っていて、他領からの隠密であれば容易く見破り捕らえることができたが、山伝いに移動する猟師や山賤の類は見逃されていた。
潜入した白髪大蛇他の一党は山賤同然の者たちであったから、人里を通ることなく山伝いに移動したし、食料も山中で賄ったから、決して人目につくようなことはなかった。
夜陰に乗じて、明るいうちに目星をつけておいた山葵田から苗を抜き取ることにまんまと成功したが、帰路が西であるにも関わらず東へ向かって脱出したあたりが巧妙であった。追跡者があることを用心したから、少しでも異変を感じると、マシラのように樹上に上りやり過ごした。倍以上の日数をかけ、迂回して故郷に無事たどり着いたのである。
禁制品である山葵が流通するようになったとき、それが自然に生えていたものを採取したものだとの口実を設ける為には、その段階までに相当量の産出がなくては適わぬ。
そうできるまでの時間稼ぎとして、その山の麓を拓き、養蚕を殖産家業として農民が携わることを奨励した。このあたりが、貧しさに喘ぐ領民を取り込む策としてはうまかった。
蚕からできる絹織物は美しい。贅沢品としての価値が高い。
昔は絹への憧れが強く、金の重さと同等の価値を持つとされた時代があった。
一般的には、桑を餌として育てた蚕から糸をとるが、養蚕することができない山繭から糸をとって紡ぐ山繭の織物は、蚕によるものよりさらに価値が高かった。
蚕を飼って繭を育てるとしても、その産出量には自ずから限度がある。それを補うものとして、より高価な山繭も手掛けることにした。山繭は、そのあたりに沢山生息していたのである。
山繭蛾科の蛾の成虫は、口が完全に退化しており、蛹化以降は一切の食餌を摂ることなく、幼虫時に蓄えた栄養だけで生きる。
前翅長は70 - 85mmと翅は厚く大きい。その4枚の翅には、それぞれ1つずつ大きな黄茶色で目玉状の模様がある。
幼虫はブナ科のナラ、クヌギ、コナラ、クリ、カシ、カシワ、ミズナラ等の葉を食べる。年1回の発生で、出現期は8 - 9月頃であり、卵の状態で冬越しをする。
幼虫の体色は緑色で、4回の脱皮を経過して熟蚕となり、鮮やかな緑色をした繭を作る。繭一粒から得られる糸は長さが約600 - 700m、1000粒で約250 - 300g程度の絹糸が採取されるが、桑で育てられる蚕より少ない。この糸は「天蚕糸」と呼ばれる。一化性であるから年に1度しか出現しない。即ち、1年かけて卵→幼虫→さなぎ→成虫のサイクルを繰り返すだけであるから、収量は限られたが、あくまでつなぎの産物であるとの大膳の考えは変わらなかった。
産出物の用途は絹織物である。しかし、ヤママユの糸はカイコの糸と比べて色が染まりにくいという特性がある。同じ紅色の染色液に漬けても、蚕では紅色になるのに、山繭では薄紅色となる。そこが蚕の糸から作る白い反物を染める時との差であるが、何と言っても光沢には得も言われぬ趣があって珍重された。
この二つが軌道に乗るだけでも十分であっただろうに、山村大膳は当初の目論見通り、山葵販売を成功させないことには気が済まなかった。無理を犯す萌芽を内在していたことになる。
山村大膳は白髪大蛇一党を引き連れ、山葵を育てる地と決めていた山間の地に赴き、山肌から湧き出して何条もの小さな流れを作る石と砂だらけの小川に苗を植え付けた。
作業を終え沢伝いに山間を下ると、少し広い川になり、そこから流れ下る川水が領内の水田を潤す水源となっている。喉の渇きを覚えた大膳は、腰の竹筒に水を汲むべくその小川に降り立ち白い川砂の上を流れる清水を眺めたのであるが、砂に混じって金色に輝く粒を見つけた。
引き連れていた同行の者たちに気づかれぬように何食わぬ顔をして一粒掬い上げ、懐紙に挟んだ。砂金に違いないと信じた。チャンスというのは重なってやってくる。
養蚕は、百済から蚕種が渡り、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えるなどして、養蚕技術の導入が行われた。奈良時代には全国的(東北地方や北海道など大和朝廷の支配領域外の地域を除く)に養蚕が行われるようになり、租庸調の税制の庸や調として、絹製品が税として集められた。
しかしながら国内生産で全ての需要を満たすには至らず、また品質的にも劣っていたため、中国からの輸入は江戸時代に至るまで続いた。その代金としての金銀銅の流出を懸念した江戸幕府は養蚕を推奨し、諸藩も藩制を潤す殖産事業として興隆を促進した。
その結果が功を奏し、幕末期には画期的養蚕技術の開発・発明がなされ、中国からの輸入品に劣らぬ、良質な生糸が生産されるようになった。日本が鎖国から開国に転じたのはこの時期であり、生糸は主要な輸出品となった。
絹といえば、天下の糸平が有名である。信濃の国伊那軍赤須村生まれの平八は、弘化3年頃に飯田城下の魚屋に丁稚奉公に出された。染物屋の娘、田中はると結婚し、田中家の婿養子となる。いろいろあってのその後、江戸の斎藤弥九郎の練兵間の門下生となり、吉田松陰や清川八郎らと交わったとされる。元治元年には水戸の天狗党の乱に参加、捉えられ小伝馬町に投獄された。この投獄によって剣に生きることは諦め、商売に生きることを決意したという。 安政5年頃からは横浜へ出て、生糸・藍玉を扱う商売をしていたという説があることからも、天狗党の乱の時期とは前後しているが、単に投獄で済んでいることから水戸藩士らが挙兵後に参集した群衆の一人というところであろう。
平八が筑波の山林を買い占めていたために天狗党首領の武田耕雲斎に掛け合ったというような逸話もあるが、志士との交流や投獄されたことによる決意も、後に名声を得たことによる伝聞かも知れない。
慶応元年、横浜で大和屋の後ろ盾を得て、弁天通に「糸屋平八商店」を開業。生糸・為替・洋銀・米相場で巨利を得た。通称「糸屋の平八」「天下の糸平」と呼ばれた。
明治時代に至り養蚕は隆盛期を迎え、良質の生糸を大量に輸出した。養蚕業・絹糸は「外貨獲得産業」として重視され[1]、日本の近代化及び富国強兵の礎を築いた。
日露戦争における軍艦をはじめとする近代兵器は絹糸の輸出による外貨によって購入されたといっても過言ではない。農家にとっても養蚕は、貴重な現金収入源であった。
だが1929年の世界大恐慌、1939年の第二次世界大戦、そして1941年の太平洋戦争によって、生糸の輸出は途絶した。一方で1940年には絹の代替品としてナイロンが発明された。戦災もあって日本の養蚕業は、ほぼ壊滅状態に至った。
いずれにしても、これらは山村大膳の時代の後のことである。
大膳が目くらましの方策として考えた養蚕は、春蚕・夏蚕・秋蚕を通じて1年間に何度も繭を採ることができることから、当初に予想した以上の収入を得ることができていた。
とりあえず百姓たちの不満を逸らすことはできそうであったが、一揆を企てた者たちをそのまま放置しておくつもりはなかった。いずれは彼らを捕らえて山葵畑に囲い込んで栽培に従事させる腹積もりでいた。
そんな頃、繭の販売先に生糸問屋と呉服商を兼ねる大店、山形屋の知遇を得られたことが大きい。
偶々上方への道中の帰り、険しい峠越えを目前にして温泉に浸かって疲れを癒そうとしていた山形屋が、地回りに絡まれて難儀しているところを、山村大膳が通りかかってそれを取り鎮めたのが縁である。お礼ということで酒肴の持成しを受けていた席で、繭の販路を如何にせんかと考えていた大膳と話が通じた。
繭を扱ってもらうについて、山繭を多量に無償で渡したことも功を奏した。山形屋には山繭の使い道があったからである。
勘定奉行は、江戸幕府の職名の一つであり、勘定方の最高責任者であって、財政や幕府直轄領の支配なども司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つとして知られているが、共に評定所を構成した。元禄年間までは勘定頭とも称した。
評定所においては、関八州内及び江戸府外の訴訟についても担当した。定員は約4人で役高は3000石。老中職の下にあり、郡代・代官・蔵奉行などを支配した。後にはその内一人が大目付とともに道中奉行を兼務した。かなりの権限を有していたことになるが、その上の老中職を望んでも不思議がない立場ではあった。
関八州とは、 江戸時代における関東の八か国の総称で、相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸を指す。関東取締出役ができるまでは幕府領では郡代・代官が、大名・旗本領では領主が担当することになっていたが、実際上は天領については郡代・代官の下にいる手付・手代が担当し、大名領では一般に郡奉行・郡代・代官などが設置され、そのもとに配属された武士が治安・警察機能を果たしていた。
江戸府外、即ち朱引き外の治安はどうなっていたのか。
同じ村でも支配が複数の場合があり、一部天領、一部大名領、一部旗本領などの場合があったことから、いくつかの村が支配の違いを越えて組合を結成して組合村をつくり、治安維持にあったる事があった。特に、支配が錯綜することによる犯罪の増加に対応して、天領・大名領・旗本領の区別なく警察権を行使できる関東取締出役が出来てからは、組合村が再編され、数十か村の村々が大組合・小組合に再編され、情報の伝達もこの組織を使ったとされる。また、関東取締出役の下に、道案内とも目明しとも称される手下を置き、その警察機能の一部を担当させた。事件が起こった場合は、現地の手付・目明し・関東取締出役などが犯人を捕え、重要犯罪の場合、犯人の身柄は事件が起こった村の負担で江戸に送られ、裁判にかけることになっていた。小さな件については一般論ではあるが、村に自治があり、村中で解決することもあった。
関東郡代は1792年まで伊奈氏が世襲し(最初は関東代官)、治安維持にもあたっていたが、伊奈氏の改易後に一時廃止されたこともあるが、ほぼ存在していた。
ただし、郡代・代官は勘定奉行の支配下にあり、その内訴訟関係については公事方勘定奉行の職掌であった。その訴訟については評定所が扱った。
山形屋惣佐衛門には春という名の妹がいた。山形屋はそれまでさしたる規模の商家ではなかったが、妹が少しでも良い家に嫁入りできるようにと考えて、少しばかりの伝手を頼って山形将監の屋敷に行儀見習いとして上がらせたのであった。
そこで将監の目に留まりお手が付いた。日ならずして男子が出生し、正妻との間に子がなかったから、ゆくゆくは大名家である山形家の跡目を相続することが期待された。
山形屋が一気に商売を広げ、大店と呼ばれるようになったのはそれからである。同じ山形という名も大いに役立てた。勘定奉行山形将監の伝手で大名家や旗本家への出入りが叶うようになったから、日の登る勢いとなった。山形屋は商売上のやりかたに吝ではなかったから可愛がられ、益々大きくなっていった。魚心あれば水心ということが生来身についていて、勘所を掴むに長けた商売上手であった。
絹織物は、勘定奉行であった山形家を通じ、多方面に上納された。とりわけ、山繭で織られた着物は、各家の奥向きで喜ばれたのである。当然のことながら、山村大膳もその恩恵に預かることになっていったから、家中でも幅を利かせる立場を得るに至った。出府して江戸屋敷に行くことが多い。江戸に出れば必ず山形屋に立ち寄った。
白髪大蛇は悪知恵にも長けていたから、そんな気配を嗅ぎ取るにも敏であった。唯一頭を押さえつける存在であった山村大膳は、役儀上のこともあったが武士であるから武術では敵わないということを考えがちだが、実戦を経験して修羅場を何度も潜っていることを勘定に入れると、どうであるかは判らない。大膳が部下として使えるのは、小藩であることからせいぜいが10人ほどであろうが、現時点では侮りがたい。そうかといって山村に心酔しているわけでもないから服従しているわけでもなく、無法者としては、いずれはその支配から逃れる術を身につけておかねばならないということが、白髪大蛇の念頭から離れることはなかった。要するに互いに信頼できる者同士ではなかったということである。
しかも、大膳が川から何食わぬ顔をして拾い上げた砂金についても目ざとく気づいていた白髪大蛇は、後日一人秘かに先日の川筋を探り確認もしている。一人で浚っても量はまとまるまいから、いずれは大掛かりな手段をとることになるに違いない。その機会を逃さず旨い汁を吸えばよいと考えた。
ただその時点で白髪大蛇が考えていた手立てというのは、圧倒的な暴力と、女を与えることで手下を支配することができるのだと思い込んでいたことが、彼の限度であった。
江戸末期で276の藩があり、1万石から50万石以上の大名が存在したといわれる。
1万石とか2万石の小大名というのは、何人くらいの藩士を抱えていたのかというと、一万石で約200名くらいだったようであるが、二万石だとその倍かというと、せいぜい300人くらいであった。山村家の家臣もそんなものである。しかも太平に慣れて強くはなかった。
諸大名の所領とされる石高で準備しておく一定の兵員と武器は「軍役」という制度で最低の線が決められてはいた。備える義務のある兵員は石高50石につき一人で、1万石では最低200名が必要とされ、軍役・武器は馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されていた。「中間」は武士階級でないので、この人数を引いた数が武士としての家臣である。中間などを約100名と仮定して、1万石の大名家の抱える武士は120名~150名ではなかったかと思われる。江戸における幕府からの拝領屋敷地は2500坪。
幕末時点で城持ちの大名家が158家あり、無城大名家(陣屋敷のみ)が100家あったとされる。この無城大名家の総石数が151万石であることから、一家平均1・5万石と推定される。そうしてみると、山村藩3万石は内証はともかくとして大きい方であった。
ただ、ご多分に漏れず財政は厳しかったのである。皺寄せは必ず領民に向かっていた。
領内に至る峠道に老人が血に染まって倒れていた。
「おい、爺さん、どうしたんだ?」傍らに駆け寄り抱き起して顔を覗き込むと、白川村の権三であった。孤児となってどこに行っても邪険に扱われていた白髪大蛇を唯一親切に、ときには自分の食べ物を我慢して与えてくれた恩人である。ひねくれ者として育ってしまった白髪大蛇が、権三に対するときだけ人間に戻れる大人であった。
「権爺、しっかりしな。俺だ。白川村の大二だ。どうしたんだ。」
「おお、大二か。」苦しい息を吐きながら薄目を開き、「やられた。身売りの金を盗られてしまった。」
「身売りって、誰のだ。」「娘の、花だ。」「ええ~!何でそんなことをしたんだ。」
「仕方がなかったんだ。年貢が納められなくて、一揆が止められそうにない。そんなことになれば、捕らえられて磔になってしまう。花が、そんなことになるなら私が苦界に身を沈めても良いから、みんなを助けてくれと言ったんだ。それなのに・・・」
「わかった。花はきっと俺が見つけ出して助ける。死ぬんじゃないぞ。」
しかし、権三はそれだけ言うのがやっとで、息絶えてしまった。白髪大蛇は途中で誰にも会っていない。犯人は領内の方に下ったのだと思った。
白川村の花は、美しくて気立てが良い娘であった。山村大膳は領内の見回り探索をしていたときに目にしてより、秘かに自分の妾にしたいと考えていた。かといって、強引に召し連れるわけにはいかない。そんなことをすれば、それでなくても一揆の機運があるのに、自分のせいで火をつけることになってしまう。自分が百姓たちに嫌われていることは十分に承知していた。権三から花を奉公に上げさせるように仕向ける手立てを考えねばならなかった。
繭の販売、山葵を売り捌くことで、その上がりをもって農民の生計が少しは上向くか、或いはそれが間に合わず騒動に向かうかの瀬戸際であるから、手段はいろいろありそうである。最悪の場合は、一揆の談合をしているだろうというのを口実に、首謀者の何人かを目こぼしにすることを交換条件にすれば、権三を懐柔することもできよう。取り敢えずは年貢の取り立ての手は緩めないということで圧力をかけてはいた。そうすることは、権三たちの動きから目を離さないということでもあった。最近、女衒らしき者が立ち回るようになっていることは掴んでいた。
白髪大蛇は、峠道から少し外れた所に穴を掘り、権三の遺骸を埋め、目印に大きめの丸石を運んでその上に置いた。この男には珍しく、涙が出てきて止まらなかった。
埋葬を終えるまでの間、ずっと考えていた。「こうなったら、先々のこととしてはいられねえ。砂金は横取りしてしまおう。人足はこの峠道を辿って逃散しようとする者を10人も捕まえれば、当面なんとかなる。掘っ立て小屋を作ってそこに住まわせ、食い物を与えれば、行く先に当てのない連中を囲い込むことはできる。」そうしようと決心した。
村に帰ると、権三の家を訪ねた。花にはまだ幼い弟である三吉が居ることを知っていたから、自分が引き取って育てるしかないと思ったからである。無頼の自分の傍に置くことがどうかということよりも、生きていくことの方が大事だと思えた。権爺への恩返しになるからということを考えたわけではない。
「三吉、わけは聞くな。これからは俺と一緒に住むんだ。お前も俺と同じ孤児になってしまったんだ。」三吉は、権三に育てられていたから、周りの連中とは違い、白髪大蛇のことをそれほど嫌ってはいなかった。
三吉を引き取った白髪大蛇は、この子を強く育て上げねばならないと思った。自分が生き延びてくる間に受けた数々の仕打ちを考えると、そうせざるを得ないと決めたのである。
極貧というのは、人の精神を歪める。自分が苦しいのだから他の苦しみにも寄り添って助け合えばよいものを、人としての基本的な優しさを失ってしまい、より弱い者を虐めることで憂さをはらそうとするのである。いやというほど経験してきた。
里に居るとそれらの標的となるのが常であったから、山に籠ることが多かった。空腹を満たす食べ物は、そこには沢山あったし遊ぶ道具にもことかかなかった。
山中に庵を結んで、何やら一人で修行している髭ぼうぼうの男がいた。一見恐ろし気であったが、里の男たちに比べればなんということはない。いつの間にか近づいて話をするようになった。その髭面は、剣の工夫を凝らしているらしく、大二を相手にしてそれを試すようになった。たくまずして大二は剣の修行をしていたことになる。何年かすると、髭面の打ち込む太刀先を躱し、逆に打ち込むことすらできるようになっていた。或る日いつものように山に入ると、髭面は伸び放題であった髭を小柄で綺麗に剃り落とし、旅支度を整えていた。
「大二、儂は望んでいた剣の工夫ができたから山を下りる。今まで世話になった。これで別れることになるが、達者で暮らせ。言っておくが、其の方が今までに自然に身に着けてしまった技は、いざという時まで人前で使うなよ。生半可な侍より強くなっているであろうが、それを知られるのは其の方の身分を考えると、決して幸せにはならない。刀を手にすることも避けよ。」と告げて去っていった。また一人になる。
自分を親切に遇してくれた髭面の言を守り、三吉を鍛えるのに教え込んだ技は対捌きのみにとどめた。
権三が人知れず殺されたということは、いつの間にか噂として広まっていた。当初は白髪大蛇がそれをやったのではないかと疑う者が多かったが、いつも手元に引き連れて甲斐甲斐しく三吉の世話をする白髪大蛇の姿を見るに及んで、そういう噂は影を潜めた。世話になった権三の子の面倒を見ることもしなかった村人たちにも、忸怩たる思いがあったのである。人の口に戸は建てられない。いずれ真相は明らかになる。
兄貴兄貴といってついて回る三吉は可愛かった。初めて家族ともいうべき情愛を感じさせてくれたのである。
ワサビの葉が徳川家の家紋である三つ葉葵に通じることから、幕府の庇護を受けることにもなったと思われる山葵は、薬用効果もあり寿司・蕎麦の普及に合わせ、広く一般に普及・浸透していった。摩り下ろすだけで済むことも、屋台での商品販売に添えるにも適していた。
日本人は古くからマグロを食用としていたらしく、縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土していることからも証明される。古事記や万葉集に「シビ」という名で記述されてもいて、「大魚(おふを)よし」は、「鮪」の枕詞だという。
江戸の世相を記した随筆「慶長見聞集」では、鮪の扱いは決していいものとはいえなかった。脂身の多いことから鮮度を保つ方法が無く、腐敗しやすいことが原因で下魚とされた。現代では高級魚であるが、江戸時代には最下層の庶民の食べ物だった。
江戸時代中期からは醤油が普及した。これにより、マグロの身を醤油漬けするという保存方法が生まれ、それを「ヅケ」と呼んで、握り寿司のネタとして使われることで庶民の間に流行り出した。
マグロに防腐効果もあり味をピリッと引き締める山葵が加わることは、江戸っ子には文句なしに受け入れられたから、山葵の需要はある。
山村大膳は、勘定奉行である山形将監に取り入る機会を狙い続けていた。山形将監が勘定奉行から老中職を望んでいることは、山形屋を通じて判っていた。賄賂として纏まったものを差し出すことができれば、それによって山根藩の家老職への出世は容易かろう。
繭の増産を図ることくらいでは十分ではない。かといって砂金を集めてそれに充てることには危険が大きすぎる。下手をすれば天領として召し上げられかねないからである。
秘密裏に栽培している山葵の収穫が待ち望まれたが、まだ少し猶予が必要であることが苛立たしい大膳であった。が、山村大膳は油断していた。山葵が増えるにはまだ何年かかかるであろうからと、確かめに行くのが困難な山中を見回ることを疎かにしていた。
白髪大蛇はそんなことはお構いなしの立場である。砂金は集め放題集めてしまえば、そこは蛇の道。捌く方法はいくらでもあった。囲い込んだ人足を使ってどんどん掘らせた。
作業が終わると、砂金が一粒たりとも彼らに残らないように身体検査をして徹底的に取り上げた。そうすることが砂金採りの秘密を守れる方法であったからである。逃げ出す道は手下を配置して全て塞ぐことにも抜かりはなかった。たまに逃げ出す者が居ても、山中に不慣れな者たちが逃げおおせるわけがなく、苦も無く捕えられ、見せしめのために殺すほどではないにしても手酷い折檻の憂き目に合わせた。
並行して、白髪大蛇は花の行方を捜していた。権三を殺し花を連れ去った者は、里の方に下ったことは確かである。人目に触れていない筈がない。今は黙っているしかできないということに違いないのであろう。
村人が一番恐れるのは村八分である。葬式と火事の二分以外の全ての付き合いから排除されてしまったら生きてはいけない。そのあたりのことでつつけば、耐えかねていずれ口を割る者が出てくるだろうと踏んでいた。どう考えても山村大膳が怪しい。
僅かばかりのものであっても、自分が得ているものを失うのを人は嫌う。その地の百姓はもともとが貧しいのに、極貧は尚きらうということで、おこぼれに預かろうと黙り込んでいる者がいるということになる。
貧しくして怨(うら)む無きは難(かた)く、富みて驕(おご)る無きは易(やす)し。
貧しい時にその貧しさを他人のせいにしないのは大変に難しいことであるが、裕福になったのに奢らないのは易しいことである。人を恨んだり、奢った振る舞いをすることは人生において悪影響を及ぼすということだということなのであるが、貧すれば貪する。何らかの弱みもあって、口を噤んでいる村人がいるということは確かである。
論語にいうところの礼は礼節ということであろうが、礼とはコミュニケーション能力のことである。礼節などを言っていられない生活の中で、仲間から浮き上がってしまったら、それこそ悲惨なことになる。何時まで耐えられるか?他から漏れたらどうにもならない。白髪大蛇は、今までに虐め捲ってきているから、バレたときの報復は空恐ろしい。白髪大蛇が真剣に花の行方を捜していることは、誰の目にも明らかであった。
彼の手下たちも日を追ってその数を増していて、藩の役人たちがそれを抑え込むことなぞできそうにないくらいの勢力になっていたのである。何故かやたらに羽振りもいい。
連れて歩いている三吉の周りにも、村の子供たちがついて回るようになってもいた。
山村大膳は、繭の販売から上がる利益を百姓たちの困窮を救う事には当てなかった。
隣村のはずれに、こじんまりした数寄屋造りがあり、そこに花は閉じ込められていた。
女衒と謀んで権三を刺し殺し、自分をこの家に連れ込んだ大膳の家の老僕と件の女衒が常時監視している。時折夕闇に紛れた大膳がやってきては、言うことを聞けと迫るが、花がそれに応じるわけがない。頑として拒んでいた。無理押しをすれば死をもって報いる覚悟であることは、その顔色に表れていた。時間をかける外ない。いずれ一揆の首謀者の命と引き換えにすれば、首を縦に振るだろうと、とりあえず手籠めにすることだけは避けていた。いくら自家の家僕とはいえ、その前で理不尽を重ねることまではできなかった。
「足るを知れば辱(はずかし)められず、止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず」である。人間の飽くなき欲望、執着心を警戒する箴言であるが、極限状態にある村人たちに通用することではなかろう。
欲望というものは際限なく膨れあがるものである。ある程度の生活を経験すると、そのレベルを落とすのは苦痛に等しい。同じことが権力についてもいえる。
権力は往々にして高位にある人間が屈しがちな誘惑である。水呑み百姓だとして相手を見くびれば、目先は曇る。しかも権力は富と一体であるから、尊大で理性の曇った人間は、ついついこの誘惑に負ける。不幸にして知識は人を富と権力の魔力から解放してくれない。
武士としての素養から知識はあっても、実力以上の権力を手に入れると、更に大きな権力を得ようとする。しかし、どれほど絶大な権力を掌握しようとも、他人を信用できず、傲慢にも頼れるのは自分だけだと考えるのも権力者の限界となる。
村人たちは、近頃子供たちが外に出て、子供たち同士が仲良く遊ぶようになったことに、今までの自分たちが余りに自分のことだけに汲々とし過ぎていたのではなかったかと教えられていた。どの子も貧しいのにも拘らず屈託がないのである。年長の子は年少の子の面倒を見るのに何の見返りも求めていない。僅かばかりの気配りと思いやりで仲良くできるのである。苛めをする者がいれば、必ず誰かが窘めて治めてしまうのである。白髪大蛇が三吉を通じて教え込んでいるというわけではないが、彼の傍らにいる三吉の影響は大きそうであった。
山村大膳は、今後を急ぐことを考えて、山奥の川原の砂金を確かめに出かけた。そこで彼は愕然とした。誰知るまいと思っていたのに、そこには組織的にと思えるような砂金を採っている者たちが居たのである。強権をもってそれらを排除しなくてはならない。藩の役人を動員するわけにはいかないから、自分の直轄の手下の者を軸に百姓たちを動員する。彼らの年貢を減ずると言えば、仲間である百姓を攻撃することをためらうまい。
口実は一揆の鎮圧ということにして、砂金が表沙汰になることを隠蔽し、あわよくば一揆の鎮圧をしたということを手柄として藩内での地歩を固める。仕組めばうまくいきそうである。
我ながら悪知恵は働くと悦に入った。行きがけの駄賃に花にも楔を打っていくことにした。
「山中に籠り、百姓一揆を煽る白髪大蛇一党を討ち取りに参る。後顧の憂いを断つために、捕縛ではなく皆殺しじゃ。数日を経ずして出陣致すが、山中には其の方の弟である三吉もいる。色よい返事をするならば、三吉一人くらいは助けてもよい。帰ってくるまでに思案しておけ」
非常事態であるからみな出払ってしまい、監視の手は緩んだ。脱出するには今しかない。必死の思いで囲いを破ると、白川村に向かって必死に駆けた。村はまだ静かであった。大膳たちはまだ手配に手間取っていたのである。
「あ~三吉のお姉ちゃんだ。」顔見知りの子供が駆け寄って来た。
「三吉はまだこの辺りにいるの?」「うん、この先の焔魔堂のあたりにいるよ。」
「そう、呼んできてくれるかしら。」「うんいいよ。まかしときな。」
三吉が息せき切って駆けて来た。
「姉ちゃん、散々探し回ったんだぞ。無事でいてくれてよかった。どこに居たんだ。」
「それは後で話すから、大急ぎで大二さんに伝えて。もうすぐ山村大膳が襲撃して殺すと言っているの。みんなを連れて逃げてって、間違いなく伝えて!」
「それは無理だよ。大二兄貴は大膳だけは何があっても退治すると言ってるもん。」
「じゃあお姉ちゃんも一緒に戦うから連れてって。」
「それも無理だよ。あんちゃんは山奥にいるんだぜ。おれは大急ぎであんちゃんのところに行く。どうしてもっていうんなら、後から仲間の子たちに案内してもらってよ。」
「わかったわ。一度家によって身支度したら追いかける。」
花は家に帰ると、大急ぎで母の形見の白い肌着に着替え、箪笥の奥深くに隠していた短剣を帯に刺した。足手まといになりそうになったら、自害する覚悟をした。
手に手に松明と竹槍を持たされた百姓たちの後ろから、見つからないように見え隠れに後を追って崖路を這い上がった。
山では、白髪大蛇の手下たちが10数人、木戸の前に集まっていた。三吉の知らせを聞いた白髪大蛇は、手元にあった砂金を分け与えて、皆に逃げろと声をかけたが、誰一人として、そこを立ち去ろうとする者はいなかった。そもそもが貧しい農家の出で、ぐれるよりなかった彼らは、白髪大蛇の気持ちが骨身にしみてわかっていた。ここで一緒に死んでも良いと思い決めていたのである。
攻め手は目前に迫っていたが、百姓たちの意気はさっぱり上がらず、そこから一歩も踏み出そうとはしなかった。
白髪大蛇は傍らに三吉を呼び寄せると「峠の頂上近くに大きいブナの樹があるのは知っているな?その樹と峠道の間に大きな丸石がある。それが権三爺さんの墓だ。その墓の前を一尺ほど掘ると甕が出てくる。その中に掘り集めた砂金が入っている。花の身請けの為に貯めたのだが、花が戻って来たのならもう必要ない。三吉はここを落ち延びて、大きくなったらそれを村人たちのために役立てろ。」
「おれは嫌だ。逃げないで兄貴の傍にいる。」「馬鹿を言って俺を困らせるな。」
「だって、姉ちゃんもきっともうすぐここに来る。姉ちゃんは小さいころから兄貴のことが好きだったから、ここに来て一緒に死ぬ気だ。」
動こうとしない百姓たちの囲みを後ろから破って、花が白髪大蛇の目の前に必死の面持ちで現れた。
「花、折角たすかったのになんて馬鹿なことを。」「いいの。一緒にいると決めたの。」
「気持ちはわかった。だけど、三吉はまだ幼いんだぞ。一緒に来てしまった子供たちのことはどうするんだ。俺が逃げ道を作るから、花がみんなを連れて逃げろ。」
そう言い終えると、立ち上がって寄せての百姓たちに向かった大声で叫んだ。
「皆の衆!駆り出されて来たらしいが、さっぱり気が進まないだろう。大方一揆の取り締まりなのだと言われて来たんだろうが、そんなわけはないと皆の衆にもわかっている筈だ。山村の使い捨てで終わったんじゃたまるめえ。俺が大膳を斃せば、騒ぎはもみ消されて終わりになる。決して表沙汰にはなるめえ。」
百姓たちは今更ながら動揺した。
「俺はその日暮らしの毎日が続いて先の見込みがないから、泣き言を言ってばかりいてな~んにもしなかった。」
「俺は誰かが困っていても、自分も同じなんだからというのを言い訳にして、何の手助けもしなかった。」
「俺は全部他人のせいにして恨んで愚痴ばかり並べ立てて、人さまのためになるようなことは一つもしなかった。」
「白髪大蛇の言う通りだべ。敵は山村大膳だべ。オッ取り囲んで討っちまうべ。」
「そうだ。」「そうだ。」
百姓たちのざわめきを聞き取った白髪大蛇は、「皆の衆は動いて怪我をしないように引いてて下せえ!騒ぎが収まったら、この奥には山葵が育っているから、それを売れば村の暮らしは楽になる。それを励みにして下せえ。」
言い終えると、住処にしていた山小屋に火を放った。髭面に言いつかっていた訓えを破り、その手には刀が握られていた。凄まじい勢いで迫る白髪大蛇に、大膳は抜き合わせて一人で切り結ぶしかなかった。
「三吉!花を連れて逃げろ!」三吉は、今度は言いつけに従った。大膳の手下の武士が振るう刃は、白髪大蛇に鍛えられた三吉には苦も無く躱すことができた。百姓たちが間に割って入って庇ってくれたのも助けとなった。
切り結ぶ姿を背後に、花と三吉は山間の闇に紛れて脱出を果たした。
小屋の焼け跡に、小さな栗の苗木が残った。それは何年か過ぎると大木に育ち、緑が深い時季になると、そこには白髪大蛇が群れるようになったが、村人たちは栗の木にも虫たちにも決して触れないようにすることを仕来りとして伝えた。傍らを通り過ぎる者たちが、或いは頭を下げ、或いは立ち止まって手を合わせる形で、後世まで遺ったのである。
白髪大蛇 @SyakujiiOusin
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