ハンチとニット
東谷 英雄
ハンチが見た空 上
ごうん、ごうん。
それが世界の唸り声だった。どこから聞こえているかは分からない。世界全体から、低い唸り声が響いていた。時折体調が悪そうに音を詰まらせる、その音は世界の終わりかと思うから止めてほしい。
錆びた鉄パイプや配管で構築された世界の中心には巨大な柱が立っていた。天まで届き、頂点は雲に隠れて見えない。どこからみても見えるそれは、ある意味シンボル的な存在だった。
「ねえハンチ。なんか見つけた」
この街の住人は大抵、仕事といった義務が持ち合わせていない。すべきこと、なすべきことがないので、いつも暇を持て余していた。かといって娯楽もない。ないないだらけの街で、ハンチと呼ばれた少女もまた、眠る時間まで何をしようか考えることで暇を潰していた。
ハンチを呼んだ少女はニットと呼ばれていた。少なくともその名を使うのはハンチだけだったが。名前の由来はハンチはハンチング帽を被ってるから、ニットはニット帽を被っているからという、単純なものだ。
「なにそれ」
「分かんない。でもねすごいんだよ、これ。絵がいっぱい描いてあるんだ。しかも綺麗なんだよ。ほら」
ニットが持ってきたのは外装がぼろぼろの絵本だった。中身は親が子供を寝かしつける際に使うもののような、温かな絵柄で描かれている。絵くらい珍しいものではないが、絵本のイラストはどれも鮮やかな色彩で描かれており、ニットはこんなの見たことがないとはしゃいでいた。はっきりいって中身も劣化しており、色落ちしている箇所も多い。それでも二人からしてみれば色がついた絵は物珍しく、新鮮さがあった。この世界で絵とは、金属と金属をこすり合わせてできる線でしかない。
「これ、どこで見つけてきたの?」
「おへその近くだよ」
おへそ、とはあの巨大な柱のことだ。街の中心にあるので、体の中心にある臍と見立ててそう呼んでいる。
「あんたあんな不気味なとこによく近づけるね」
「……たまたま用事があって」
「ふーん」
ハンチはニットが目を泳がせたのを見逃さなかった。ついでに体を観察し、どこか異常がないか確認すると、上着の首元に皺があるのに気が付いた。自分の服も皺だらけだが、ニットのは普通の生活でつく皺ではない。
「それより、これ見てよ。これなんだと思う?」
話題を変えるように絵本をめくり、目当てのページをハンチに見せてきた。ニットが開いたページは清々しい青で塗りたくられ、白いもやもやとしたものがいくつか描かれている。ハンチは首を捻った。
「なにこれ」
「つまんないなあ。もうちょっと考えてよ」
「わかんないもんはわかんないわよ」
「これはね、あたしは空だと思うんだ」
ニットは絵本を愛おしそうに胸に抱いた。
「はあ? いやいや、ないない。青い空? 聞いたことがないよ。空はあんなんだって」
ハンチが現実の空を指さす。空というものは灰色の雲で覆われいるのだ。青色なんてどこにもない。
「もしかしたら青い部分があるかもよ。青い空が珍しかったから、この絵を描いた人も、絵に残したかったのかも。あたしも青い空、見てみたい」
そう言って、ニットは青空を探しに行った。ハンチのことを誘ったが、今日はもうやることがあると断った。
「見つかるといいね」
「うん!」
小走りで駆けていくニットを見送ってから、ハンチは何か手頃な凶器はないかと探した。
*
翌日、ハンチは汚れた上着をゴミ捨て場に捨てた。代わりを探さなくちゃなと考えながら、上着を穴に突っ込んだ。結構気に入っていたんだけどな。少し喪失感に襲われた。
この街にはゴミ捨て場と呼ばれる場所が多数存在していて、すべて同じ形をしている。鉄でできた土管に蓋がついているもので、その中にゴミを投げ捨てる仕様になっていた。捨てたゴミがどこにいって、どうなるか知るものは少ない。いやいないかもしれない。少なくとも、ハンチは知らなかったしどうでもよかった。
乱暴に蓋を閉めると耳障りな音がした。目的が済んだので、次はどうしようか。考えると頭にニットのことが浮かんだ。本当に青い空なんて探しにいったのか気になり、自然と姿を探した。
空を見れる場所、と限定すればそこまで歩きづらい街ではない。配管が入り組んだ場所や、建物の中に入ってしまえば迷路になるが、今のニットの目的ならそれはないだろう。長い付き合いだ。行動パターンは何となく読める。
「あ、居た」
ほどなくしてニットを見つけることができた。ただ一人ではない。三人の男に囲まれている。一人は片腕が無く、一人は片足が無く鉄の棒を支えに立っている、もう一人はここから見えないが体のどこかがないはずだ。この街では当たり前のことで、むしろ五体満足のハンチとニットが珍しいのだ。
珍しい、つまり他人とは違うということ。ならばどうなるか。
「お前、また変なこと言ってるらしいな」
片腕の無い男がニットを小突いた。気が弱いニットは、例の絵本を大事そうに両手で抱えているだけだった。
「青い空を探してるってほんとか? あるわけないじゃん、そんなの」
「……どこかにある、かも……しれない……」
「なんだって? もっとはっきり喋れよ」
何が欠けているか分からない男がニットを蹴飛ばした。その際に、男の顔に鼻がないのが見えた。ニットは小さな悲鳴を上げて尻餅をつく。
ハンチは頭に熱いものが昇るのを感じた。この感覚がした時は衝動に任せることにしている。きっとそれが正しい。本能よりも根深い感情の命令を、ハンチは遂行する。
ゴミを捨てる場所があるのに、それすら利用しない者は必ずいる。それが今は都合がよかった。誰かが適当に投げ捨てたのか、それとも建物から外れたのかわからないが落ちていた鉄パイプを拾う。一メートルくらいでずっしりとした重さを感じたが、ハンチにとっては心強かった。
「青い空とか馬鹿じゃねえの。空はあの色だって目の無い子供だって知ってる。それくらい当たり前のことだ。お前は体の代わりに頭の中身がないんじゃないの? 見た目だけ綺麗でも意味ないなあ」
駆け足で、けれど足音は立てずに接近する。まるで猫のように距離を詰めるハンチは手馴れていた。何度もやれば嫌でも慣れる。それもこれも学習しない奴らが悪い。短く息を吐きだし、鉄パイプを笑っている鼻無しに振り下ろした。
「ぎっ」
背後からの強襲に、鼻無しは変な声を出していた。目がぐりんと上を向き、笑っていたせいで開いていた口は舌を切断する勢いで無理矢理閉じられた。
「お前!?」
男たちは突然仲間がやられたことに驚くが、ハンチの姿を見たことで状況を理解した。
鉄パイプを横に構え、片足の足元へ振るった。ただでさえ杖が必要なのに、支えごと足を殴りつけられたらどうしようもない。片足はその場に倒れこんだ。そのまま追撃しようと顔面に鉄パイプを叩き込もうとする。だがハンチはこの状態になると視界が狭くなる。片腕が石を拾って自分に殴りかかってきているのに気付くのが遅れた。
「危ない!」
石がハンチの頭を捉える直前、ニットが片腕の足首に手を伸ばし掴んだ。ニットの力は弱いが動いている途中で急に足首を掴まれれば、大半の人間はバランスを崩す。転びそうになる片腕は、ハンチを殴ることよりも自分の体勢の安定を優先した。その隙に片足の代わりに片腕の顔面に鉄パイプをめり込ませた。片腕の顔はいびつに変形し、のけぞりながら地に落ちる。ぴくぴくと痙攣する二人に反撃する力がないことを確認してから、片足にとどめをさした。
ハンチは頭に血が上ると容赦がない。彼女の暴行を見て、やりすぎだと言うものは沢山いた。だがそれがどうした。警告だけをして見逃せば、お前たちは悔い改め、もう二度と同じ過ちをしないといいきれるのか。昔はハンチだってここまでしていなかった。しかし、口頭で注意しても、ある程度傷めつけても、奴らは変わらずハンチに唾を吐きかけニットをいじめた。いつからかハンチはこういうものなのだなと諦め、同じことを繰り返すだけならと、動けなくなるほど傷めつけるようになった。徐々に暴力はエスカレートし、できるだけ息の根を止めることを心掛けた。生きていてもニットをいじめるだけなら、死んでくれたほうがいいに決まっている。
「ごめんね、いつもこんなことさせて」
ゴミはゴミ捨て場へ。この街にそのルールはないが、ハンチは目の前のゴミが落ちてれば拾う主義だった。自分が出したゴミならなおさらだ。ニットもゴミ捨てを手伝ってくれた。
「いいよ。私が勝手にやってるんだから」
今回は返り血がかからなくて良かった。昨日は鋭利な得物でやったため服が汚れて気分が悪かった。
ゴミ捨てが終わると、ハンチの絵本を借りてあのページを見る。
「それで、青い空は見つかった?」
ニットは残念そうに首を横に振った。やはり簡単には見つからないか。そもそもハンチだって半信半疑なのだ。物心ついた頃から空は灰色で、色を変えたことはない。もし今から空が青色になり、これが本当の色ですといっても信じきれないだろう。それでも青い空の夢を否定する気はなかった。
「よし、じゃあ今日は私も手伝うよ。青い空探し」
「いいの?」
「うん。今日は特にやることないしね。あとあいつらに言われっぱなしってむかつくし。見つけてやろうじゃない」
「ありがとう! 次のごはん、半分あげるね」
「いらないわよ。あんたはしっかり食いなさい。ただでさえ小さいんだから」
今日は寝る時間までニットに付き合うことになった。さっきまで使っていた鉄パイプを持っていくことにした。決して軽いわけではないが、手になじむ形だし、持っていれば使い道はいくらでもある。
ニットと共に街を散策する。考えてみれば、こんなに注意深く観察しながら街を歩くのはいつもニットが何かに興味を持った時だけだな、とハンチは思う。目に見えるものはあるのが当たり前、視界が捉える色形こそが真実。空の色なんて考えることはなかった。自分の世界はとても狭いのではないかと疑問がわいた。きっと左右に世話しなく首を振り、時たま空を見上げるニットの世界はとても広いだろう。私と比べられないほどに。
ハンチはやることがなければ一日をぼぅと過ごす。ニットは自分でやりたいことを見つけ自主的に動き回る、ハンチを誘うことも多い。そんな正反対な彼女が羨ましく、存在そのものが救いだった。彼女はハンチを同類として接しているのではなく、ハンチという友人として接してくれる。その事実が嬉しかった。彼女だけが生まれて初めて自然な笑顔を向けてくれた。
あちこち行ってみたが、どこから見ても空は灰色のままだった。ニットが言うように、絵本の絵がどこかで見た景色なら空のどこかに穴でも空いているではないかと考えたが、そんな場所があるならとっくに噂になってるのではないか。なんにせよ、二人には情報収集は向いていないので、噂があるかないかは関係ないが。
二人で作戦会議をしていたらハンチの腹が鳴った。
「そろそろご飯の時間かな」
「さあ。今日は動き回ったからわかんない。何もしてなかったから腹の減り具合で分かるけど……」
ハンチの言葉のあとで、甲高いサイレンの音が鳴った。
「お、どうやらあってたみたいね」
この街では時計がないので時間の概念がないが、決まった時間にサイレンが鳴る。甲高いサイレンなら食事の時間、食料が配布される。低いサイレンなら消灯の時間、世界は暗闇に包まれ寝なくてはならない。それがこの街のルールだ。昔からそうのだ。
ゴミ捨て場と同じで、食料を得られる場所は決まっている。サイレンが鳴れば人々が雪崩のように押し寄せる。この街の人間が同じ目標をもって集結するのはこの時くらいなのではないか。
ハンチとニットも食料が得られる場所に向かった。案の定人だかりができている。食料は縦長の建物に地上から三メートルくらいの高さから取り付けられている、四角いダクトから排出される。ぽん、ぽんと決まったリズムで小袋が投げ出され、人々が天に向かって手を伸ばし掴みとろうとしている。腕がないものは圧倒的に不利だが、この世に公平性を求めるほうが間違っている。運と強さがあるものが生命を維持できるのだ。腕が無かろうが食料を得られる者はいる、逆に腕があっても力無き者は何も得られず他の人間から踏みつけられていた。
ニットが前に出ようとしたが、ハンチが止めた。
「いいよ、待ってな」
彼女が何か言おうとしたが聞こえないふりをして、ハンチは奪い合いの乱闘場に乗り込んでいった。
怒号と悲鳴、誰か誰かを攻撃した音、混ざりに混ざり合ったカオスな空間からハンチは割とすぐに帰ってきた。手には潰れた小袋が二つ、鼻からは血が滴っていた。鼻血を腕で拭い、肌に赤い筋ができた。ハンチが歩くたびに腕と同様に血の跡ができる。何も得ることができなかった者の中身が付着した鉄パイプから滴り落ちたものだった。
元の場所に戻ったがニットの姿がない。まさかまたつまらないことを考える輩に絡まれて、連れていかれたのかと不安になる。するとニットはハンチが行っていた場所からふらふらと出てきた。彼女は大事そうに小袋を抱えていた。顔は安心しているのかほころんでいたが、目の周りは赤くなり口の端からは血が出ていた。
まずい。ハンチは急いでニットの元へ駆け寄り、抱きかかえてその場を離れた。食料を手に入れても安心してはいけない。目的の物を入手した瞬間が最も油断し、危険なのだ。隙を見逃さず、横から奪おうとする者も少なくない。他者から見て、ニットは格好の的だろう。事実、ニットの背中には殺意にも似た視線が集中していた。ハンチはできるだけ視線が届かない場所にニットを運んだ。
食料を得られる場所からだいぶ離れた。さすがに鉄パイプと人一人を抱えて走ると疲れる。ニットを下ろし、座り込んで荒く呼吸をする。大口を空け五、六回吸って吐いてを繰り返したら口の中が乾いた。
「待ってろって言ったでしょ」
脇腹の痛みのせいか、早鐘のごとく心臓が鼓動しているせいか、ハンチが予想していたよりも、責めているような声が出てしまった。しかし、ニットは怒られていると思っていないのか、表情を崩していた。小袋をハンチに差し出す。
「ハンチがあたしの分もとってくるつもりみたいだったから、あたしはハンチの分をとってきたよ」
ニットの言葉に、ため息をついた。小袋を受け取ると、彼女に向かって二つ投げて渡した。
「ありがとう。でも一つでいいよ」
そういって、一つを投げ返してきた。ハンチはそれをすぐに再び投げて渡した。
「いい。私あんま食べないから、ニットが食べな」
ニットは困った顔をする。ハンチだって困った顔をする。互いを思いやった結果、気持ちが渋滞していた。
「じゃあこうしよう」
ニットは小袋を空けた。中には手のひらサイズのパンが入っていた。手触りはカチカチのかさかさだった。それを半分に割る。
「半分こ。これならいいでしょ?」
何がいいのか。ハンチは口に出そうとしたが止めた。時間を気にする必要なんかないが、時間の無駄と判断した。半分になったパンを受け取り、残りの袋を開ける。
二人で地べたに座り、おへその柱を眺めながら食事をした。せっかく唾液で潤ってきた口の中の水分を容赦なく吸収していくが、これにはもう慣れた。昔はもう少しまともな食料が得られていたはずだが、時間がたつたびに質も下がり、量が減っていった。昔からこんな感じだと言うものもいたが、それは鈍感なだけで現実を見ていない。しかし、いくら現実を直視したところでどうにもならないこともある。彼女たちは与えられなければ栄養は得られない。自分たちが何から与えられているかは知らない。
ハンチは自分たちがなんのために物を食べているのかは理解していない。腹が減る、物を食べたら納まる。それは分かる。食べることで人体にどんな影響があるのか分からないし、味気がまるでないものを舌で転がしても楽しくはない。まだ自分の鼻水を舐めていたほうが味を楽しめるのではないか。必要だが必要ない行為を煩わしくすら思う。
それでもニットが居るときは、無駄な行為もましに感じた。何故だか分からない。分からない、知らない、分からないことだらけのハンチの人生だがこのことだけは事実と認識できていた。
ハンチが先に食べ終わり、続くようにニットも食事を終えた。物足りなさを感じながら、パンが入っていた袋をポケットに入れた。
ニットが服の中に隠していた絵本を取り出してページを捲った。
「これ、何かな?」
ニットが示したのは花だった。
「分かんない」
「これは?」
犬だった。
「分かんない」
「これ」
鳥だった。
「分かんない」
「じゃあこれは?」
「それは……地面でしょ」
「でも、なんだか違うよね」
ニットが地面を軽く叩く。硬い音がして、ひんやりとした鉄の感触がした。絵本に書かれた地面の色はくすんだ錆び混じりの鉄の色ではなく、濃い茶色だった。それに描き方のせいなのか、柔らかそうだ。
絵本の世界と、街が存在する世界は大きなギャップがある。絵本の世界は木や花などの植物が生えているが、彼女たちの世界にそんなものはない。代わりといってはなんだが煙突がいくつもあるし、植物の根のようにパイプが複雑に絡み合っている。鳥は飛んでいないが、もこもことした何か、排煙や水蒸気がどこを見ても空へ上っていた。
不思議な絵の世界には、二人の知識にないもので溢れていた。
「これを描いた人は、どの辺りに住んでいたんだろう。見たことないものばかり。
その人が住んでいる場所に行けばあるのかな」
「まだ生きているか怪しいけどね。それ、だいぶ古く見えるけど」
この街では人間の入れ替わりが激しい。気づいたら人は死んでいて、気づいたら
新しい人間が産まれている。人間は長く生きられないし、新しく産まれても、だいたいは出産するときに死ぬ。これで人間が絶滅しないのだからすごいことだ。
ニットは突然目を大きく開き、絵本を穴が空くのではないかと不安になるほど見つめた。次に空を見て、今度は絵本を見る。再び空を見た。
「どうかした?」
「ねえ、この空おかしくない?」
「色のこと?」
「そうじゃなくて。雲の量が少ないと思うんだ」
言われてみれば確かにそうだ。色ばかりに意識が向いていたせいで、もう一つの違和感に気が付かなった。本の世界に広がる空には雲が数える程しかない。しかし彼女たちの世界の空は雲で覆われていた。
ニットは興奮した様子で言ってきたが、ハンチはあまりピンとこない。
「だから?」
ニットは好奇心は旺盛でいろいろなことを探ったり、調べることをライフワークにしている。だが知識が付けば、単純に頭がよくなるわけではない。知識があるだけだ。それをまとめて整理し、自分の発言にすることが得意じゃないので、ニットは言葉を探して押し黙った。こうなれば時間がかかることがしばしばある。ハッチはせかさず待った。視線は柱へ向けた。見つめていたらニットが考え辛いだろうからだ。
ハッチ自身も考えることが得意ではない。この世界では考える、考察すること自体が、あまり重要ではないからだ。目的も義務も使命もない。この世界の住人はそんなものを、とっくに忘れてきた。
得意ではないが、ただ待っているのも退屈なので、ニットの唸り声をBGMに彼女の気づきの意味を考えてみる。視線は柱から雲へ移した。
キーワードは雲だ。雲は煙突から出るのは白や黒で、空で混ざり合い灰色になる。もこもこで、どこまでも沢山あって。絵本の中みたいに少ない量は、ハンチの人生の中では見たことがない。
貧相な語彙力で言葉を絞り出すが、泡のように浮かんでは消えてを繰り返した。
やっぱり考えるのは苦手だなあ。なんて思い、視線を泳がせた。雲から建物へ、道を歩く人へ、最終的に柱へ戻った。この街で最も目立つ存在、反対方向を見たりしなければだいたいどこからでも見える。この街の象徴ともいえるが、誰もが呼ぶ名称はない。おへそ、なんて場所を示す名前はニットがつけたもので、おそらくこの二人の間でしか通用しない。つまり名前なんて、少なくてもこの世界では重要ではないのだ。あそこのあれ、ここのあいつで成立する。しなければしないで意思疎通を諦めればいい。互いで呼び名を決めるのはある意味で異常な行為で、二人が周りから疎まれている原因の一つだ。例え他の人間を殺してでも異常を排除する。これもまたある意味で、非常に人間的行動なのかもしれない。
ハンチとニット。名前も体もある二人は、この世界でどこまでもイレギュラーだった。
世界で一番背の高い柱は雲の中まで続いていた。そういえばあの柱はどこまで続いているのだろうか。もしかしたら雲の上まで伸びているのかもしれない。雲の上とはどこだ。どうなっている? ハンチの中で、今まで考えたことのないことばかり浮かんだ。
「雲の上……」
「え?」
「え?」
無意識に声が出てしまい、ニットが反応した。自分が喋ったことに気づいていなかったハンチは、なんでニットが反応したのか分からなかった。
「雲の上って?」
「いや、雲の上ってどうなってるのかなって」
ハンチの言葉に何か閃いたらしく、ニットは目を大きく開いた。
「そうだ……そうだそうだそうだよ。雲の上だよ!」
「え、なに、どうしたの」
「雲の上なら青い空があるかもしれない! 雲が青い空を隠してるのかもしれない!」
ニットは力強く、雲と柱のつなぎ目の部分を指さした。
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