第2話 事件のあらまし

「時に、あんたは離婚したそうだね。なに、結婚なぞ一時的な結び目に過ぎないのだから、気にすることはない。生涯解けない結び目なんてものはないものだし、この結び目のように、どんなにきつく締めていてもあっけなく解くことができるようになっている結び目もある。そんな結び目に命をかけてぶら下がるのはナンセンスだと思わんかね。あんたが読んでいた『首吊りアクロバットの冒険』だってそうさ。もっとも、エラリー・クイーンとかいう若造は、結び目の意味を取り違えていたがね」

 老人はそういうとウエイトレスに「抹茶とすあま」と告げて、ポリーの顔を見つめた。

「ミルクとチーズケーキではないんですの?」ポリーは怪訝そうにたずねた。二年の間に何かが変わってしまったのかもしれないと思ったからだ。

 老人はいつも、新聞記事から迷宮入りしてしまいそうな事件を選んで、みんなの目の前にありながら誰もが見過ごしてしまっている小さな事実を指摘して、予想外の真相を言い当てきた。警察への協力などは一切せず、自分が解決できた事件のことだけをひっそりと語っているだけという見方もできたが、その話術と解決は魅力的なものであり、世の中に真相を知っているのは、この老人と自分だけなのだという背徳感に震えることもあった。

 ところが今、老人は実際の事件とは違う「探偵小説」にケチをつけようとしていたのである。

「だけど、この作者の作品は十分に本格派だと思いますけど」

 ポリーは、自分が書評を書くべき小説をなんとなく擁護したくなっていた。

「簡単に殺害できる道具が手近に四つもあったのに、なぜ犯人は手間をかけて、被害者を首吊にしたのか? なんて、興味をそそる問題です。それに解決だって十分に納得のいくものだと思いましたけど」

 老人は指の間でゴツゴツした結び目をいくつもこしらえ、羽織を留める紐まで、瘤だらけにしていた。

「あんたはまだ、その短編をきちんと読んでいないのじゃないかと思うね。仮にも、散々私のやり方を見てきたはずのあんたですら、その有様なのだから、世間一般の読者が煙にまかれるのも無理もないとは思うが。いいかね。要点をかいつまんで説明してあげよう」

 老人は抹茶をズッズッズ~と無作法に音をたてて啜り、口をくちゃくちゃさせながらすあまを一切れ頬張った。それから神経質そうに布巾で指を拭うと、懐から一枚の写真を取り出してテーブルに置き、再び組紐を弄びはじめた。

「アトラス一座というアクロバットの一座の写真だ。アトラスというのは、怪力のブリンカーホッフのまたの名で、命名したのは妻のマイラだ。こやつは小柄な張り切ったアクロバット女で、なかなか男好きする顔と体をしている。周りの男を虜にする何かを持っていたんだな。こやつめはそれを武器として使っていて、この一座の実質的な中心だったようだ。被害者はこのマイラだった。

 一緒にアクロバットの練習をした後、先に楽屋を出たブリンカーホッフは、なかなか帰宅しないマイラを夜通し心配して、翌朝早くに、交番のお巡りを説き伏せて一緒に周辺を探し回った。その際、劇場に鍵がかかっていて入れないことも、お巡りと確認した。6時30分。鍵係のペルク老人が来て楽屋口が開くと、共同楽屋でマイラが首吊り状態で事切れていたんだ。

 それからはおざなりの捜査さ。関係者はまず置いておくとして、首吊りの状況から確認しておこうか。

 マイラは荒縄を首にふた巻きまかれてその横に結び目Aがあった。その縄はスプリンクラーの横管に結び目Bで結わえられていた。床から足は1フィート。後ろの壁に壊れた脚立が転がっていた。マイラは口紅のついたタオルで手と足を縛られて吊るされていた。捜査陣が気にしたのは、結び目Bだった。それがさっきやってみせたゴルジイ結びの片割れだった。無論、まだこのときは『見たことのない結び目だ』という程度の情報しか得られていなかったがね。

 そして登場人物だが、まず一番の役者は、酔っ払って登場し現場をかき回した劇場支配人のジョー・ケリーだ。この男が、マイラと愉快な仲間たちのいざこざを、聴かれもしないのに騒ぎ立てたから、わたしは、『ハハン。こいつは陽動だな』とピンときた。リチャード・クイーン警視たちは、『しめしめ。これで関係者の動機が明らかになる』とほくそ笑んでいたことだろうよ。まったく、警察というのは一度だって自分たちより知能のある犯罪者がいるなどと想像したこともないのさ。この犯罪は、エラリーという若造がいうように、『異常』だ。だが、真相は、それは想像以上に『異常』だったのだ。

 ウェスタン低音歌手で投げ縄の使い手、テックス・クロスビー。レスラーのような風体と繊細な指先を持つわれらがゴルジイ。人妻マイラと色恋沙汰の輪舞を踊っていたのは、この二人。夫のブリンカーホッフとの三つ巴だな。あとは興行師ブレグマン。こいつは殺人のあった当夜、ブリンカーホッフとマイラが新しい演目の練習を終えた後に、ブリンカーホッフと契約面の打ち合わせをすることになっていて、現にホテルで会っていたらしい。時間がはっきりしないが、真夜中過ぎだろう。芸人の一日とは長いものだね。

 ともかくこの事件では、警察の唯一の美点であるはずの『無駄なほど細かく行き届いているはずの瑣末な事実の羅列』が機能していないときている。全く。馬鹿は馬鹿なりに汗を流さねばならんというのにだ。おそらく、クイーン父子に頼りすぎているからさ。

 マイラの殺害時刻とされた真夜中のアリバイがありそうなのは、家に戻っていた鍵係のペルク老人と、飲んでいた酒場がはっきりしている喜劇役者の小男サム。ああ彼も縄芸を持っているよ。縄とじゃれるという罪のないやつだがね。つまり、マイラを巡る三つ巴の連中には、みなアリバイがなかった。ここまではいいかね」

 私は老人の声を聞き漏らすまいと詰めていた息を大きく吐いた。

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