ゴルジアン・ノット事件 ―隅の老人、首吊りアクロバットの冒険を検証する
新出既出
第1話 隅の老人現る
婦人記者ポリー・バートンは、短かった結婚生活を精算して二年ぶりに、
古巣のイヴニング・オブザーバー紙と、このABCショップでの11ペンス分の昼食の習慣に復帰していた。かつてお決まりの席だった隅のテーブルに座った彼女は、変わらない味と景色とに感慨をおぼえた。だがもちろん、すべてが同じというわけにはいかなかった。二年のブランクは彼女を芸能ゴシップから文化欄へ移動させ、そのどちらかといえば退屈な取材(本を読んだり、映画や演劇評を書いたり)に物足りなさを感じていた。だが、物足りなさの本当の理由は、一人の奇妙な老人の不在に他ならないのだった。
二年前まで目の前に座っていたあの奇妙な老人は、相変わらず新聞の隅をつついては、警察の無能ぶりを嘆いているのだろうか。彼女は、ここに来れば必ず襲ってくるであろうと予想していた追憶に浸った。思えば、彼女があの奇妙な老人の犯罪の証拠を暴いたりしなければ、今も、世間のこんがらがった結び目を鮮やかに解く手際に見惚れていたに違いなった。
食後のコーヒーをすすりながら、書評を書かねばならないミステリー小説に目をはしらせていたポリー・バートンは、その短編の論理的構成にしだいに引き込まれていった。こういう具合に、あらゆるピースがかっちりと嵌って揺ぎ無いミステリーには、なかなかお目にかかれないだろうと思った。すると突如、目の前にキイキイした耳障りな声が響いた。
「まったく、世の中には馬鹿が多くていけないね。ちょっと自分に才能があると自惚れると『ギリシア棺の謎』のときのような失敗を重ねることになる。この『首吊りアクロバットの冒険』なんかでね」
ポリーが、ハッと顔を上げると、薄い色の少ない髪を変な帽子で覆って、大くて角ばった黒眼鏡の奥の水色の瞳が印象的な老人が、ツイードの上に見たことのないインバネスのようなものを羽織って、彼女を覗き込んでいた。
「まあ。お元気そうでなによりですわ。そして、ぜんぜん変わらないんですのね」
「まあな。しばらく日本という国を旅していた。あの国のすばらしいところは、『結ぶ』という文化の豊かさだな。このHAORI(羽織)も、前を止める紐をいろいろ選ぶことができるし、KUMIHIMO(組紐)という、しなやかで強くて美しい紐がたくさんあった。WAHUKU(和服)というものは、一枚の布を帯で結んで成り立っているし、FUROSHIKI(風呂敷)や、MIZUHIKI(水引)など、結びにこめられたメッセージの多彩さといったら、あれはもうあの国の言語といってもいいだろうね」
老人はしだいに興奮し、ぶさらげていた組紐にいろいろな結び目をこしらえては、解いていた。
「その癖も…」
ポリーは、二年前に最後にこの店で会ったときのことを思い出して、沈んだ声を出した。
「ああ、この結び目のことかね? わしは結び目には目のないほうだからね。見たことのない結び目を見たらモノにしたいと思うのさ。だからあの時わたしが、犯行現場に残されていた特別な結び目をこしらえることができたからといって、あの老婦を殺したという証拠にはならないさ。ほら、こんな具合だ」
老人はそういうと、細長い手でポリーの右手をそっとつかみ、手にしていた鮮やかな紐であっという間に奇妙な結び目を作った。そして、目にも留まらぬ速さで、老人自身の右手にもまったく同じようにみえる結び目をつくり、互いの腕を紐でつないでしまった。
「何をするんですか。痛いからはずしてください」
「この結び目は、フーディーニやダベンポート兄弟が考えたものを、例のアトラス一座のゴルジイが改良したものなんだ」
ポリーは「アッ」といって、テーブルの上の本を見た。今、老人が言った名前は、この『エラリー・クイーンの冒険』の中の、今まさに彼女が読んでいた『首吊りアクロバットの冒険』に出てくるものだったからだ。
「この結び目の優れている点は、まずとても簡単に結べること。第二にとても強く、引っ張れば引っ張るほど固く締まること。第三に、こうすると両方の結び目がいっぺんに外れるということだ」
老人はそういって自分の手首の近くの紐を捩るように角度をつけた。すると、老人とポリーの手首をつないでいた結び目が両方いっぺんに、するりとほどけてしまったのだ。
ポリーは手首の紐の跡をなでながら、その非礼を責める気にはなれなかった。そして、自分がもうすっかり「老人が今日はどの事件を解決してくれるのだろうか」とワクワクしていることにも気づいていたのだった。
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