第148話 願いの果て 2
暗い中へ落ちていく。
何も見えない。何も聞こえない。
ただ、ひどく眠くて、気分が悪かった。
いっそ、意識を失くしてしまえた方が楽なのかもしれない。
体がじっとりと重くなる。泥の中にいるみたいに、ゆっくりと、沈んでゆく。
――気のせいだろうか。なにか、聞こえた気がする。
自分を追いかけてくるみたいな、音が。
やめてほしい。さっさと眠ってしまいたいのに。
音が近づいてくる。本当に少しずつ。けれど、確かに近づいてくる。
気持ちが悪い。胸が苦しい。
音のせいで、余計に体の中がかき混ぜられている気がする。
なのに、なぜだろう――聴こうとしてしまう。
『――――ト』
聞きたくない。
『――ちゃだめです』
聞きたくてたまらない。
『戻ってきてください、イゼット!』
「ルー?」
声が、黒い世界に反響する。
彼女の名前を呼んだその瞬間、朦朧としていた意識が澄み渡った。けだるさは残っているが、引きずり込まれるほどではない。
イゼットは、思わずあたりを見回した。ルーの姿はどこにもない。けれど、先ほど聞こえた声は幻聴などではなかったはずだ。
どういうことだろう。
イゼットは思案にふけりそうになって、けれど大急ぎでそれを打ち消す。
考えたところでしかたがない。確かなのは、ルーに助けられたということだけだ。
「大丈夫だよ、ルー。俺は絶対戻る」
届かないとわかってはいる。だがイゼットは、彼女に向かって呼びかけた。
「きちんとやることをやってから、君のところに戻るから」
「目」を閉じて、また開く。そしてイゼットは、周囲を、眼下に広がる物を観察した。
先ほどよりも明らかに多いよどみの集合体が、不気味にうごめいていた。いや、もはや波打っているというべきかもしれない。時々そのうちの一筋がこちらへ伸びては引っ込んでいく。まさに腕のようだ。考えただけで、鳥肌が立つ気がした。
気色悪い。短くはない人生の中で、初めて心の底からそう思った。
深呼吸して、『月』の力を探る。「両腕」を黒に向けてまっすぐに伸ばした。早く終わらせてしまおう、と決意して、力の河に意識を飛ばす。
「さて。しゃきしゃきいきますか」
声に出さずに呟いて、イゼットは再び力の汲み上げに取りかかった。
今までのようにしていたのではきりがない。
できる自信はなかった。今でも不安はある。一方で、今ならできるだろうという、奇妙な安心感もあった。
きっと、一人ではないと確信しているからだ。
集中する。
しゃらしゃら、しゃらしゃら、見えぬ世界に、耳を澄ます。
集中する。今までより、深く、強く。
流れる光に「手」を伸ばす。光は「瞼」を突き抜けて、イゼットの視界を白金色に染め上げる。神経が焼き切れそうなほどのまぶしさに、けれど彼は臆せず「指」を広げた。
つかむ。引っ張る。引き上げる。
熱い。からだが焼けそうだ。苦しい。息ができない。それでも、ここで止まるわけにはいかない。今やめたら、動けなくなる。おそらく同じことを二度はできない。そこで
だから、そうなる前に、そうならないために、彼自身が終わらせる。
月光を、引き上げる。限界を迎えそうなイゼットの脳裏に、懐かしい声がこだました。
『大丈夫ですよ、イゼット』
「うん」
『君は一人じゃないです』
「わかってる」
『ボクは、いつまでだってそばにいますから』
「ありがとう。いつも助けられてばかりだ」
『中』から『外』へ。『浄化の月』の力を、一息で、放出した。
『だから、負けないでください。勝たなくていいんです。負けなければいいんです』
「そうだね。俺は、負けないよ。君がいてくれるから、負けないでいられるんだ――ルシャーティ」
光が渦を巻き、帯となって、暗黒を切り裂いた。ざわざわと空間が振動する。光は間もなく、うごめく闇を上下からのみこんだ。
これが、のちに歴史となる、幾度目かの大規模な『浄化』だった。
※
イゼットに声をかけ続けていたルーが、はっと顔を上げる。槍にまといつく光が急激に強くなったことに気づいたのだった。
槍からあふれ出た光は、まるで液体のようにあちこちへ広がる。息が詰まりそうなほどの熱が押し寄せて、ルーは思いがけずよろめいた。
「わわっ」
イゼットの肩をつかんで、なんとか耐える。だが、その直後、彼女はぎょっと目をみはった。
流れ出していた光が、急に槍の先端へ向かって動き出したのだ。まるで生きているかのように動く光は、槍の穂先でじわじわと膨れ上がっている。その光景は言葉を失うほどきれいだが、同時にひどく不気味だった。
膨れ続ける光は、あっという間に二人の頭をすっぽり覆えるほどになる。すると、その光のかたまりは、一気に収束して空へ飛び出した。
白い筋が灰色の雲を切り裂き、払う。甲高い音が連鎖して、空じゅうで光が弾け、粒となった。小さな粒たちは、風に流されるようにしてこちらへ落ちてくる。
「これはこれは、さながら輝ける雪だな。見事なものだ」
「――シャハーブさん」
陽気な声に誘われて、ルーは呆然としたまま振り返る。美貌の旅人は、その視線に応じるように片目をつぶってみせた。
「一時はどうなることかと思ったが、上手くいったようだ。やれやれ、大したお坊ちゃんだぜ」
力の抜けた彼の呟きに、ルーもほっと顔をほころばせる。その間にも、光り輝く雪は大地に溶け、そのたびにくすんだ土が鮮やかさを増した。
魔法のような光景に、ルーもシャハーブもしばし目を奪われていた。しかし、突然聞こえたうめき声により、二人の意識は現実に引き戻される。
ルーが、とっさにかたわらの若者の肩を抱く。その肩が、間もなく震えた。槍を握りしめたままよどみの大地へ潜りこんでいたイゼットが、ここでようやく薄目を開ける。
「イゼット! 戻ってきたんですね!」
「おお、起きたか。それは重畳。『浄化』を達成したものの戻ってこられなくなった宿主も、過去に数人いたからな」
さらりと恐ろしいことを口走った青年を、ルーは横目でにらみつけた。そうしている間にもイゼットは、槍に寄りかかりながらかぶりを振る。
「なんとか上がってこられた……しんどかった……」
地を這うみたいな声で呟いてから、イゼットはのろのろと頭を上げた。自分を見る二人に気づくと彼は、疲れ切った様子の顔でなんとか笑みを形作る。
「ただいま、戻りました」
弱々しい彼の挨拶に、二人は今日一番の穏やかな笑顔で応じた。
「お疲れ様、宿主殿」
「おかえりなさい!」
二人の声がけに小さくうなずいたイゼットは、安堵したように息を吐く。しかし、直後、彼は目を剥いた。
「うわっ、なんだこれ!?」
自分の肉体の惨状に今さら気づいた若者は、しんしんと浄化されてゆく大地に、濁った叫び声を響かせる。ルーとシャハーブは、顔を見合わせたまま黙ってしまった。彼らとしては、なんとも答えようがなかったのだ。
「ちょ、ま、なんで俺血まみれになってんの!?」
「落ち着け、落ち着け。『反逆者』どもの妨害のせいだ。覚えはあるだろう」
「覚えはそりゃあ、ありますけど……。えええ……『表』ではこんなことになってたんですか。怖……」
イゼットは青ざめて身震いする。ルーたちは、その様子を最初こそ苦笑して見ていたが、やがてその顔をこわばらせた。彼の顔色がどんどん悪くなっていくことに気がついたのだ。ふらついたイゼットを、ルーとシャハーブが慌てて両脇から支える。
「い、たい」
低くうめいた若者に、シャハーブが生ぬるい視線を向ける。そこににじむ感情は様々で、なんとも形容しがたかった。
「これだけ傷ができていれば、それは痛いだろうよ。さっきの様子を見るに
「そういうことは、早く、言ってくださ……」
抗議の声は、途中でかすれて消えてしまった。ルーの脳裏に、初めて『反逆者』に遭遇したときの記憶がよぎる。我を失いかけた少女を引き戻したのは、シャハーブの一声だった。
「ルー。その槍、預かってやれ」
「あっ……はい!」
ルーは、慌ててイゼットの槍を両手で抱える。先ほどまで光に包まれて神々しく映っていた槍は、いつの間にやら見慣れた姿に戻っていた。
「イゼットの容態が落ち着くまでは、ここでじっとしているとしよう。『反逆者』はフーリに任せるしかないしな」
「はい。ええと、止血とかしなくて大丈夫でしょうか……」
「そうだな。傷の深いところだけは処置しておこう。ほかはとてもではないが手が回らん。『浄化の月』があるから、まあ大丈夫だろう」
今なおうめくイゼットと楽観的な台詞を吐いたシャハーブを、ルーはしばらく交互に見つめていた。しかしそんなことをしていても仕方がないと思い直して、かぶりを振る。
この場の誰のものでもない声がしたのは、そんなときだった。
「うわ、ひでえザマだな。ちょっと見ない間に何したんだよ、おまえら」
ほんの半刻ほど聞かなかっただけなのに、ずいぶん懐かしい声だ。その方に視線を投げかけて、ルーは黒瞳を輝かせた。
「メフルザードさん、無事でよかったです」
「そっちもな。ほれ、おまえらの相棒も一緒だぞ」
流浪の男は、太陽と月の名を持つ馬たちとともに、どこぞの岩陰から現れた。少し見ない間に砂ぼこりまみれになった彼は、血まみれでうめいている弟子をにらんだ後、「あとで尋問だな」と呟いて頭をかいたのである。
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