第112話 旅人が語るには

「つ、疲れた……」


 寝具を広げるなり、イゼットはため息と声を同時に吐き出した。それは、彼には珍しい弱気な言葉である。強がる余裕もないのだった。アハルへ来るまでの旅路の疲労もあるのだろう。両肩に重石が乗っているかのようだ。


 イゼットの声を聞いたルーが、苦笑する。


「人気者でしたね。イゼット」

「こうなる気はしてたけど……予想以上にきつかった」


 小さい子どもは、どうしてここまで元気なのだろう。昼間、子どもたちにまとわりつかれたことを思い出しながら、イゼットは敷布に顔をうずめた。


「みんな元気そうでよかったです」


 ルーがにこにこしながら寝具を広げ、呟く。イゼットは「うん」と言おうとしたが、声が発されることはない。ルーの言葉が終わる頃には、彼は眠りの海に旅立っていたのである。



 翌朝。宿を出てすぐ、二人は町のざわめきに気がついた。アハルはふだん穏やかな時間の流れる町だから、ささいな変化ももくに留まりやすい。


 軽く首をかしげているイゼットたちのもとに、小さな人影が駆けてくる。この町に住む少年だ。両親は酒屋をやっていて、彼も仕事を手伝っている。今も朝から、お客さんのところへ麦酒を持っていった帰りなのだそうだ。


 その少年が、町のざわめきの理由を教えてくれた。


「おもしろい旅人さんが来てるんだよ。歌とかお話とか、いっぱい聴かせてくれるんだってさ。おれも、仕事終わったら聴きにいこうと思ってるんだ!」


 少年は両目を輝かせ、腕を全力で振っている。イゼットとルーは、彼の前で顔を見合わせた。


「詩人さんってことですかね。どんな感じなんでしょう?」

「ルー……さては、すごく気になってるね」


 黒に限りなく近い茶色の瞳は、くるりと丸くなって輝いている。イゼットは思わず声を立てて笑った。


「俺も少し気になるし、行ってみようか」


 このところ成果のない資料検索ばかりで鬱屈としていたところだ。歌なり物語なりを聴いて、気分転換をするのもよいだろう。このときは、そんなふうに軽く考えていた。


 次にその旅人がなにかを披露するのは、昼を過ぎてからだという。それまでの間に物資の買い足しを済ませたイゼットたちは、その足で町の広場へ向かった。軽い昼食を終えた子どもたちや親子連れが、興味津々で集まっている。彼らの視線の先にいた旅人を見て、ルーが目を丸くした。イゼットも驚きを隠すことはできなかった。


 旅人は思ったより若い。見た目だけなら、イゼットより二つか三つほど年上、という程度だろうか。帽子をかぶり、厚手の衣をまとっている。服装だけならどこにでもいそうな旅人だが、その相貌は秀麗というにふさわしかった。彼がちらりと視線を動かすと、子どもたちの後ろにいた娘たちの中から、黄色いざわめきが起きる。その様子を、ルーが心底不思議そうに見ていた。イゼットは、肩をすくめるだけで、なにも言わなかった。


 青年は、聴衆の数を確かめるように、広場一帯に視線を巡らす。一巡すると、ついに口を開いた。


「ご清聴のみなさんに、まずは感謝を申し上げよう。名もなき旅人のもとへ足を運んでいただけたこと、たいへん嬉しく思う」


 よくとおる声が、広場を満たす。青年は流麗に帽子を取って礼をした。その帽子をさりげなく、みずからのかたわらに置く。イゼットは思わず眉をひそめた。芝居がかった声の裏に悪意はない。むしろほのかな善意すらくみ取れる。しかし――それだけでもない。人間はけして善意だけで動く生き物ではないが、それを隠そうともしない人は、まれだった。


「今日はみなさんのために、とっておきの物語をご用意した。ある一人の旅人が、旅のさなかで出会ったもののお話だ。ぜひ最後まで聴いていっていただきたい」


 それでは、とひとつ咳払いした青年はその後、朗々と語り出した。


「ヒルカニア黄金時代の終わり――世が再び戦乱の嵐に覆われようとしていた頃。あるところに、一人の旅人がいた。気ままに大陸を渡り歩いていた旅人は、東西の架け橋たるペルグ王国で、不思議な噂を耳にした。王国の西端に、伝説の賢者の書物が隠された館がある。その館には、なんでも願いをかなえてくれる、『全能の書』というものがあるらしい――と」


 イゼットは息をのむ。思わず隣を振り返ると、相棒の少女もこちらを見返してきていた。旅人はむろん、聴衆に埋もれた二人の反応など知らない。知らないままに、語りは続く。


「その噂が気になった旅人は、森へと入った。奇妙なことに、森には生き物がほとんどおらず、静まり返っていた。旅人は、ぶきみな森に恐れをなすことなく、奥へ、奥へと進んでいった。が、そこで、旅人は怪物に出くわした。見た目はほとんど狼だ。だが、狼たちの体は青白く、どこかぼんやりとしていた。そう、まるで幽霊のように」


 青年の声が一段低くなり、子どもたちの中から小さな悲鳴が上がる。それとは反対に、イゼットとルーは少しずつ表情を険しくしていった。沈黙は、固い。


「狼たちに剣は通用しない。旅人は、囲まれてしまった。絶体絶命の危機だ! 一か八か、逃走するか。ここで獣に殺されるか。旅人が選択を迫られていたところに、これまた奇妙な子どもが現れた。子どもが『止まれ』と言うと狼たちは止まり、『引け』と言うと狼たちは消えていった。


 旅人には、子どもこそがあやかしのように思えた。彼の肌は新雪のごとく白い。髪も月光を閉じ込めて糸にしたかのようだ。なんと、瞳にも色がなく、どこまでも透き通っていた。白い体に白い衣をまとった子どもは、喜びも悲しみも、決して顔に表れなかった」


『白い人』


 その一文が、ふいにひらめいて、イゼットは声を上げそうになった。ファルシードの書付の中にあった、さも重要度が低いような言葉。それがここへきてあぶりだされ、急に存在を示しだした。


 まさか。しかし、確信するには証拠が足りない。イゼットは驚愕を押し殺し、あくまで聴衆の一部であり続ける。


「子どもは狼たちのことについて、旅人に謝罪した。旅人は逆にお礼を言って、どうしてこんなところにいるのか、と尋ねた。子どもは、ここに住んでいる、と答えた。そう。その子どもは、噂の館に住んでいるというのだ。

 子どもは、伝説の賢者の友人だと言った。しかしこのときでさえ、賢者は昔話の中の人物である。旅人は半信半疑のまま、館へ案内してもらった」


――その後、旅人は『全能の書』の正体を聞く。そのような書じたいは存在しなかったが、館には魔法の道具があまた眠っていた。そして、旅人が館をとぶらった日の夜に、魔法の道具のことを聞きつけた敵国の将軍が館を襲う。旅人は子どもと協力して将軍を追い払い、二人の間には友情が芽生える。そういう、筋書きであった。


 なめらかな口上とともに語りが終わると、広場のあちこちから拍手が沸き起こる。子どもたちのはしゃぐ声と拍手とがあふれる中で、三人のよそ者だけが沈黙していた。一人は悠然と、後の二人は重苦しく。


 イゼットは、槍を握りしめて考え込む。この話に出てきた白い子ども――それが、天上人アセマーニーなのではないか? それは当然、思いつくことであった。しかし、だとするとあまりにも。『叡智の館』と古代の天上人アセマーニー。マーレラーフからこっち、どちらの話にもほとんど出くわさなかった。『叡智の館』に至っては、ほんのりとした噂話すらも拾えなかったのだ。その二つが見事に合致した話をここで聞いた。真偽もわからぬ――嘘と真がそれぞれどれだけ含まれているかも知れぬ、物語。それは手がかりにはなるだろう。しかし、なにかがイゼットの頭の中に引っかかっていた。


「このお話、なんなんでしょう。それに、あのお兄さんも……」


 ルーがぽつりと呟いた。それがあるいは、イゼットの引っかかりの正体であったかもしれない。イゼットは、遠くに見える旅の青年に目を向ける。片目を閉じ、甘く笑った彼と、視線がぶつかったような気がした。



 一大行事が終わると、人々は青年のかたわらの帽子に銅貨を入れてから、ばらばらと散っていった。それぞれが、それぞれの居場所に戻っていく。子どもたちは、興奮の余韻冷めやらぬ中、通りへと駆け出していった。


 青年はそれらを見送って、ときどき手を振っている。彼を、じっと見ている者がいた。ルーだ。彼女は今日、マグナエを巻いていない。アハルの住人のほとんどが、彼女をよく知っていたからだ。黒髪の下で、茶色の双眸がちかりと光る。


「あっ、ルー?」


 とっさに制止しようとしたイゼットをよそに、ルーは青年のもとへ走っていく。青年は、彼女に気づくと、一瞬だけ意外そうに目をみはる。けれど、すぐに優美な笑顔を見せた。


「お兄さん。さっきのお話、とても楽しかったです!」


 言うなりルーは、まだひっくり返ったままの帽子に銅貨を二枚、入れた。青年は笑みを深める。


「それはよかった。君のようなかわいらしいお嬢さんに喜んでいただけて、俺も嬉しいよ」

「かわいらしい? ……は、あまり言われたことないですよ?」

「それは、それは。世の男どもの目が節穴ということだな」


 音楽的な声が、笑う。ルーは少し頭を傾けて、すぐに元へ戻した。


「あのお話は、どこかの民話ですか? 初めて聞きました」

「初めて聞くのは当然だ。あの話は俺の創作だからね」

「そうさく?」

「作り話ということだ」


 ちょうどそこで、イゼットが追いついた。ルーは目を丸くしている。イゼットも、表面上は青年に礼を取っていたが、驚いていた。青年はあくまで落ち着いている。投げ銭を数えて袋に入れ、帽子を拾ってかぶる。一連の動作も、いちいち優雅だ。


「なかなか上手いこと作れていただろう?」

「は、はい……。でも、森の館はありますよね。えっと、そういう民話が」

「ほう!『叡智の館』をご存じか。お嬢さんも、連れのお兄さんも、相当に博識と見える」


 不敵に目を細めた青年の方へ、ルーが身を乗り出した。イゼットはふいに、まずい、と思ったが――思ったときにはもう遅い。


「『叡智の館』のこと、詳しいんですか? ボクたち、その館を目指しているんです。探したいものがあって」


 青年の目が、さらに細くなる。笑っているようだったが、目は決して笑んでいなかった。ルーもそこでなにかを察したらしい。顔をこわばらせて、身を引いた。


 相変わらず、青年の表情や気配から敵意は見えない。歌うように「なるほど、なるほど」と言って顎をなでた。


 乾いた風が広場をなでる。薄く土埃が舞った。それは人々の顔を薄く覆い隠す。やや置いて、青年の笑声が茶色いヴェールを引き裂いた。


「あそこへ行っても、君たちが求める物はないぞ。だが、まあ、行く価値はあるかもな」

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