第42話 足りない存在

 小さい頃、狩りの後に川で遊んだことがある。水に体ごと入ったのは、確かそのときが最初だった。

 きれいな水ではなかった。灰色にも茶色にも見える濁り方をした川で、けれど彼女と兄弟たちは馬鹿みたいにはしゃいだ。好奇心にかられた彼女は、水底まで泳いでそこから上を見てみた。水の中から見る空は案外きれいなのだと、族長が漏らしていたのを思い出したのだった。濁っていたので空はまったく見えなかったが、下から上へと全身をひっぱられるふしぎな感覚が印象に残った。今でもよく覚えている。


 まどろみの中で感じたのは、水底から空を見ようとした時とまったく同じものだった。曖昧な自分という存在が、消えかけた輪郭を保ったまま、ふわふわと浮き上がる。


 水面が近づいた。そのとき彼女は、重い瞼をこじ開けた。見えたのは、空でも水でも兄弟の顔でもない。花の細工が施された籠の中で揺れる、赤くて丸い灯。


 静かな場所。苦くて青い匂いがする。植物だろうか。植物の匂いにも色々あるが、この手のものは好きじゃない。口の中が湿ると、ところどころがひりひり痛んで、匂いとよく似た苦みがいっぱいに広がった。


「……うえ?」


 ルーが久しぶりに出した声は、自分でも意味がわからないものだった。しかも出てきた声は集落近くの名前を知らない草よりもトゲトゲしている。自分に自分で驚いた。何度も目を瞬くが、赤い灯しか見えない。


 手を動かしてみた。なんだか遠い。自分のものではないかのようだ。それをゆっくり上にずらして、耳たぶに触れる。肌と、それから金属の冷たさ。それに触れて、音を聞いて、ようやく感覚が戻りはじめた。


「ああ、起きたんだね。具合はどう?」


 知らない女性の声が、少し訛ったペルグ語を紡ぐ。ルーは首をかしげる代わりに、また瞬きした。彼女はいまだに、置かれている状況がよくわかっていない。頭の中は疑問符だらけだ。


 丸い灯を遮って、日焼けした女性の顔がのぞき込む。頭を覆うマグナエに似た布と、ルーに似た色の瞳。眉が濃くて、線は細くて、唇はふっくらしている。見たことのない美人を前に、ルーの頭はとうとう機能停止しかけた。それを寸前で防いだのも、見知らぬ美女だった。


「大丈夫? ひょっとして、ペルグ語はわかんないかな」

「あ、えと、びっくりした、だけです」

「おお、よかった。驚かせて悪かったね」


 なんとかペルグ語の文章をひねり出して答えると、彼女はほっと息を吐き、笑った。美人だが、その笑顔は少年を思わせる。ルーも無意識のうちに肩の力を抜いていた。


「調子はどう? どこか痛いとか、気分が悪いとか、ある?」

 ルーは首を振ろうとしたが、なんとなく辛かったのでやめた。


「ちょっと、ぼんやりするっていうか、頭の中がぐらぐらします……。でも、前よりいい、です」


 前、という言葉を口にして、ルーは変な気分になった。なにか大事なことを忘れている気がする。

 答えた女性の声は明るかった。


「そう。発疹もなくなったし、薬が効いたみたいだね。よかった」


 紙になにかを書く音がする。それもまた、少女の記憶をしつこくつついた。だが、それとは別のことも、気になった。


「ほっしん? って、なんですか」

「あれ、知らない? 赤いブツブツがいーっぱい広がるの。あんた、両腕に出てたんだよ」

「うぇええ!?」


 ルーは思わず両腕を顔の前にかざす。自分の腕にそんなぶきみなものがあったとは、信じたくなかった。腕輪がないことに気が付いたが、たぶん「赤いブツブツ」を見るために外されたのだろう。想像して、ぞっとした。


「あんたが罹ったのは、もっと小さな子どもに多い病気なんだ。重症化することはほとんどないんだけど、あんたはクルク族だから、あたしたちとはわけが違ったんだろう。――ここに来られてよかったね。じゃなきゃ最悪死んでたよ」


 謎の女性は淡々と恐ろしいことを言う。布のふちを彩る可憐な花模様が、悪い儀式の飾り物に見えてきて、ルーは逃げ出したくなった。むろん、彼女の内心など知らない女性は、なにかを書き続けている。


「いやしかし、あの子本当に頭がいいね。読みが完璧に当たってた。あの子が適切に対処してくれたおかげで、あれ以上悪化せずに済んだんだろうな」

「あのこ?」

「ああ、イゼットね。あんた、あの子の連れなんでしょ」


 名前を聞いた瞬間、ルーの頭の奥に火花が散った。今まで忘れていたものが、燃え盛る炎のように噴き出して、頭の中を焼いてくる。


 いるはずの人がいない。聞こえるはずの声が聞こえない。


 今さら思い出した。思い出すと、それがおぞましいことのように感じられた。苦しみもがいていた頃に、背中をさすってくれた手のぬくもりは、どこへいってしまったのだろう。


 顔のまわりが熱くなって、視界がぼやける。女性が慌てて身を乗り出してきた。


「ちょ、どうしたの!? どこか痛いのか!?」


 違う、と言おうとしたが、泣いてしまって言葉にならなかった。ぼたぼたとこぼれた涙は顔からあふれて寝台を濡らす。


「どこ、に」

「へ?」

「けが、してるんですか? だいじょうぶですか?」


 半ば泣きわめきながらそう言ったルーは、答えを求めつつも、女性の声を耳に入れていなかった。

 赤ん坊みたいで情けないとは思う。けれど、自分でもふしぎなほどに自制がきかない。怖くて怖くてしかたがない。


「あー……もしや……。悪かった、泣くほど動揺するとは思わなかったんだ」


 そんな言葉も、頭を抱える彼女の姿も、ルーにはほとんど届いていなかった。



     ※



「君ねえ。無理して心身を酷使するなと、昔何度も言ったじゃないか」

「……すみません。わかってはいたんですが、あのときは無視してました」

「正直だねえ、相変わらず。いや、いいことなんだけど」


 医師ドクトルバリスが、中途半端に伸びた前髪をかき上げて天を仰ぐ。反対にイゼットは、うなだれていた。垂れすぎて机に突っ伏しそうな勢いである。


 ギュルズに着く直前くらいで彼の記憶は曖昧になり、どこで途切れたのか思い出せぬまま診療所で目を覚ました。聞くところによると、ギュルズの門前で落馬寸前のところを町の青年に保護され、そのまま四日間意識を失っていたらしい。診療所で最初に見たのは、安堵しているのか呆れているのかわからないバリスの細い目だった。視線は痛かったが、馬鹿なことをした報いだと思って真っ向から受け止めた。


「ああちなみに、連れの子は快復に向かってるよ。もともときちんと治療すれば治る病気だからね」

「……ありがとうございます」

「まあ、それが仕事だから、気にしないで。ただ、彼女、最初に起きた時に動転して泣きわめいたらしいよ。君がいないからって」


 医者の痛烈な一言に、イゼットは今度こそ突っ伏した。正面に置いてあったからの器に頭をぶつけなかったのは奇跡か、戦士の勘ゆえか。


「病人を不安がらせてどうするんだ」

「うう」


 ぼそっと放たれた言葉に、イゼットはただうめいた。返す言葉もない。

 若者が撃沈した直後、痛快な音がした。顔を上げたイゼットの目の前で、今度は医者の男が撃沈していた。背後に立った女性――彼の妹ベイザが、書類の束で思いっきり頭をはたいたのだろう。


「その辺にしとけ。もう十分反省してるでしょうが」

「おーいベイザー。禿げたらどうしてくれるんだ」

「親父はいまだに髪多いから、兄さんも禿げないよ。無用な心配」


 片手を腰に当て、一方の手で書類の束を突き出すベイザは、兄にまったく容赦がない。


「患者相手に説教長くなんの、兄さんの悪い癖。そんなことしてる暇あったら、ルーちゃんの様子見てきて。兄さんじゃないとわかんないとこあるんだから」

「承知しました助手殿。……ったく、僕とメフルザードにはすっげ厳しいのに、イゼットには甘いんだから」

「日頃の行いの差ですよ、先生ドクトル


 鋭すぎる言葉でもって、ベイザはバリスを居間兼診察室から追い出してしまう。とぼとぼと病室へ向かったバリスになんとなく手を振ってから、イゼットは椅子にもたれかかった。


 ギュルズの隅っこにある診療所は、彼の記憶にある頃からほとんど変わっていない。小さな部屋の手前には、机と椅子と、本と食器が少し。その奥にはバリスの文机と、医療器具の数々。薬の入った瓶の数と患者名簿の厚みは当時よりも増している。


 部屋のひとつひとつは小さいが、奥行きはかなりあるうえ、部屋数も多い。有り余る部屋を病室として使っているのだった。


「イゼットも、そろそろちゃんと食べなさいな。って、朝の残り物で悪いけど」


 ベイザの声で物思いにふけっていた自分に気づき、イゼットは瞬きする。ふと机を見ると、いつの間にかすぐ前に、肉と野菜の煮込み料理が入った器が出てきていた。丸々とした鶏肉と色鮮やかな野菜がスープにつかって輝いている。


「そういうのなら食べれそうでしょ」


 向かい側に腰かけたベイザが、楽しそうに片目をつぶる。イゼットは曖昧に笑った。


「ありがとうございます。これもベイザさんが作ったんですか」

「兄さんが作れると思う?」

「いえまったく」


 口にしてから、イゼットは思わず吹き出した。この兄妹はまったく変わらないらしい。ベイザも、腹を抱えて笑っている。


 ひとしきり笑って、お祈りをしてから、イゼットは煮物を食べはじめた。一口食べると懐かしくなって、その後はしばらく無心で食べ続けた。ベイザはその間ずっと、にこにこしてそれを見ていたようだ。人心地ついた時、彼女が白い歯をこぼすのを見た。


「あんたがいた頃は楽だったなあ。家事分担できて」

「いい訓練になりましたよ」

「それならよかったよ。ずぼら医者の世話が負担になってなかったか、心配だったんだけどね」


 兄に対して辛辣なのは、どこで誰といても変わらない。そんなベイザにイゼットが苦笑するのも、あの頃と同じ風景だ。けれど、その中でなんとなくむなしさを感じるのは――元気な少女が隣にいないからなのか。


「ルーちゃん、かなり元気になってるよ。さすが、クルク族は強靭だね」


 心の揺らぎを読み取ったかのような言葉に、イゼットは顔を上げる。上げてから、うつむいていたことを知った。のんびりとした様子のベイザはしかし、昔のように憂いを含んだ目をしている。


「そう、ですか」

「ん。もう大丈夫。だから、あんたも思い詰めなさんな」

「……思い詰めているつもりは、なかったんですが」

「でも、そうだったからあんな無茶したんでしょ。仕方がなかったとはいえ」


 日焼けした手が伸びて、イゼットの髪をわしゃわしゃと撫でる。子ども扱いされているようで微妙な気分だったが、ふしぎと抗議する気は起きなかった。


「まだ無理はしないで、ここで少し休んでいきな。一人でいるのがきついなら、あたしでも兄さんでも、雑談相手になるから」


 ギュルズの風によく似た言葉は、傷口に染み込む。顔を見せたくなくて伏せたイゼットは、それでも小さくうなずいた。

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