第40話 世界は冷たく、温かい

 町で唯一の医者は、北の岩山をさらに削ったような顔に渋面を刻んだ男だった。よれよれの上着を着ていたが、その端々に巫覡シャマンのお守りや道具入れをぶら下げているのを見つけ、イゼットは目をみはる。彼らが医者や薬師くすしを兼ねていることは珍しくないが、イゼットがそういう人に会ったのは久々のことだった。


「よろしくお願いします」


 ひとしきり事情を話して最後にそう頭を下げたが、医者の返事はない。よく見たら多少顎を動かしていた、ような気もする。


「腕は確かだよ。大丈夫」


 イゼットが少し不安になったとき、優しいささやきが左隣から聞こえた。若者の傍らに立っていた宿の主人が耳打ちしてきたのだ。顔を上げるとおちゃめな笑顔が見えて、イゼットはほっとした。ただ、安堵していられたのはこの時までだった。


「症状を聞く限りはただの風邪だと思うが……実際に見ないと断定はできんな」

 道すがらそうこぼしていた医者は、静かな足取りで部屋まで行って、静かに扉を開けた。元の場所で薄い布団にくるまっている少女のそばに行き――姿をのぞきこんだ瞬間、顔色を変えた。


「おい」


 低く発せられた一言は、誰に向けられたものか判然としなかった。顔を見合わせた若者と男性の間に、冷たい刃が差し込まれる。


「クルク族だなんて聞いてないぞ」


 イゼットは放心した。訊き返すことすらしなかった。右肩から頭のてっぺんに、痛みが走る。受け止めきれなかった言葉は、頭の中をただ滑る。吐き気を催すほどの余韻を刻み付けて。

 一方、宿の主人は医者の言葉を繰り返した後、目元を厳しく引き締めた。我に返ったイゼットがものをいう前に、医者の方へと半歩踏み出す。


「悪かった。知らなかったんだよ。けど、彼女は見ての通りの状態だ。診断くらいは――」

「何度も言わせるな。俺はは診ない」


 吐き捨てるなり、医者は立ち上がる。ルーには一瞥もくれない。先ほどよりも荒々しい足取りで、イゼットたちの横を通り抜けようとする。


「だいたい、知らないってのも嘘だろ。あんたがクルク族の銀細工のことを知らないはずがないんだ」


 部屋を出る寸前、ぞっとするほど低い声でそうささやいた医者は、宿の主人の制止も聞かず去ってゆく。イゼットは立ち尽くしていた。怒りも戸惑いも超越して、呆然とするしかない。よれた上着に不釣り合いな護符の極彩色が、強く目に焼き付いた。



 医者が去った後の宿は、心地の悪い静寂に包まれる。それを打ち払ったのは、男性のため息だった。


「すまないね。子ども相手なら妥協するだろうと思ったんだけど」

「いえ……こちらも最初に話しておくべきでした」


 言いつつも、イゼットの胸のあたりにはまだ不快な感覚が残っている。なにかに似ていると少し考えて、思い出した。実家にいた頃、長兄が母を「れ」と呼んだときの気分と同じなのだった。ただ、あの時、母のセリンはその場にいなかった。


 自分たちが使っている客室をのぞきこむ。ルーは掛布を頭からかぶっていた。少し震えているようにも見える。こみあげるものから目をそらそうとすると、体の方に叱られた。


「アルトヴィンのお医者さんは、彼だけなんですよね」


 うずくまりたいのをこらえてイゼットが恐る恐る尋ねると、男性はうなずいた。


「それに、よそへ行っても対応は変わらない。このあたりでは巫覡シャマンが医師を兼任していることが多いのだけれど、ほとんどがクルク族を嫌っているんだ」


 状況の悪さとやるせなさに、イゼットは黙り込んでしまった。


 ただの風邪なら、医者にかからずとも治せる。しかし、万一厄介な病気だったときに対処が遅れたら、命に係わるのだ。診断だけはつけてもらいたいが、そもそも受け入れてもらえないのでは仕様がない。


 万事休すか、と頭を抱えたとき――若者の脳裏に、色あせた記憶がよみがえった。


「あ……そうか、医者……」


 朝日の色の瞳に光がともった。それに気づいたのだろうか、男性の表情も変わる。


「心当たりがあるのかい」

「はい。ただ、その方はギュルズに住んでいるんです」

「ギュルズ、ということはイェルセリアか。きついね」


 男性は乱暴な手つきで頭をかいた。言いたいことはイゼットにもわかる。アルトヴィンからギュルズまではそう遠くない。ただし「遠くない」というのは、健康な人が馬に乗って行くという前提での話だ。

 今のルーには、これまでのような移動はきつい。歩くことすらままならない人間が、馬に乗れるはずがないのだ。とはいえ、『彼』のほかにあてはない。


 イゼットの方こそ頭をかきむしりたくなった。痛いのと悩ましいのと情けないのとで、頭の中がぐちゃぐちゃだ。気が狂いそうだった彼はしかし、宿の主人の一言で我に返る。


「外で少し待っておいてくれるかい」


 いきなり彼がそう言いだした真意はまったくわからない。けれど男性の表情は真剣そのものだ。イゼットは、何が何だかわからないままにうなずいた。


 その後しばらく、イゼットは看板の下で佇んでいた。男性はというと、宿の横手の小屋の中へ入ったきり出てこない。その小屋も男性の所有地だったことは驚きだが、動揺しきった若者の心を静めてくれるような話ではなかった。

 壁にもたれて、さらに待つこと半刻。ようやく男性が小屋から出てきた。両手で大きな荷車を押している。小柄な人間一人くらいなら寝られそうだ。荷車をごろごろ押してきた男性は、それをそのままイゼットへ差し出した。


「持っていくといい。気休めにしかならないだろうけど、布も詰めてみた。君たちの馬は立派だから、これならなんとか引っ張れると思うよ」

「えっ……いいんですか」

「もちろん。もう使わなくなったものだから、用が済んだら売るなり解体するなりしてくれて構わない」


 イゼットは口元を引き結び、男性に向かって深々と頭を下げた。


 部屋に戻ったイゼットは、ルーの様子を見ながらこれからのことをぽつぽつと話した。隣国の町までかなり無茶をして行くことになる。ルーに負担をかけないようにはしたいが、ゼロというわけにはいかない。だからこそ、ルー自身も心の準備ができていた方がいい。そう思ってのことだった。

 ルーは辛そうにしつつも、時々相槌を打った。それだけでも、イゼットはほっとした。


 布団にくるまる少女の様子を気にしつつ、出立の支度を進める。部屋の中はいつになく静かだ。二人でいるのに、一人でいるような気になってくる。

 荷物を一通りあらためて、袋の口を閉めたとき。布団がもぞもぞと動いた。


「あの、イゼット」

「うん? どうしたの」

「……ごめんなさい」


 手を止めた。思わず、ルーの方を見た。布団があるので表情は見えない。けれど、聞こえる声は震えている。


 イゼットは何に対して謝られているのか、すぐにはわからなかった。しかし、医者のことを思い出したとき、頬をはたかれたような気がした。逃げたい、けれど逃げてはいけない。喉を焼く懊悩をおさえこむ。


「いや。俺の方こそ、配慮が足りなかった。ごめん……」

「違うんです。ボクは、あんなの、慣れてます。でも」


 言葉が途切れる。再び紡がれた言葉は、嗚咽おえつまじりだった。


「イゼットは、痛い、でしょう? 今だってがまん、して」

「ルー」


 このにはかなわない。心の端に生まれた思いは、別の強い情念にかき消された。何を言えばいいか、どうしていいのかわからない。気持ちが定まらないまま、布団のそばに体を寄せる。全身の震えを悟らせないよう気をつけながら、布団の上から少女の背中をさすった。


「大丈夫。俺は、大丈夫だから」

「でも」


 ほとんど泣いているような声を上げたルーは、けれど言葉を続けなかった。


 幼い子をあやすように、イゼットは背をさすり続ける。すすり泣く声が少しだけ大きくなって、すぐに小さくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る