第三章 狩人たちの誇り

第23話 国境の町

 ひとけのない森の中ほどには、自然の旋律が満ちている。木の葉がそよぐ合間から鳥のさえずりが響き、水の音に獣たちの歓呼が重なって大地の空隙を流れていった。


 足音、二つ。自然の大合奏に割って入った土のざわめきは、すぐに合奏の中に溶けこんだ。少年と、若い男。二人の人間が森を行く。わがもの顔、というよりは、森に馴染んでいるようであった。


「退屈だな」


 男が憮然とした様子で土を蹴る。少年は連れであるはずの男に関心を示さず、地を走るリスを目で追っていた。


「おまえはずいぶん楽しそうだけどな」

「あんたの視野が狭いだけだろう。猛獣みたいに走り回ってばっかりいないで、足を止めてまわりを見たらどうだ」


 辛辣な少年に対し、男は軽く肩をすくめる。その目はなぜか、楽しげに細められていた。近所の幼子を見る大人のようでもある。


「俺には自然をでるなんてことはできねえからなあ。おまえのようにはいかねえさ」

「よかったな。この森を抜けて半日も行けば、愛でるものもないよ」

「ますます退屈になるだけだな」


 男は眠そうに天をあおいで、伸びをする。その頭上を小さな鳥が通りすぎたが、彼は風が吹いたときほども関心を示さない。


「あーあ。おもしろい奴にばったり出くわさねえかなー」


 男のぼやきを少年は聞いていなかった。森の片隅に生えたキノコ類を熱心に見つめ、毒の有無を判定していたのである。



 ※



 イゼットが差し出した紙の束を見て、依頼人の老婆は顔をほころばせた。


「まあ、もう終わったの?」

「はい。これですべてです。代筆まででよろしかったですか?」

「十分よ。本当にありがとうねえ」


 イゼットに老婆は少女のような微笑を向け、紙束を受け取る。遠方の息子に出す手紙だというそれを、宝物のように抱えた老婆は幾度も若者にお礼の言葉を述べた。


 家の前で見送りに立ってくれた老婆に手を振って別れを告げたイゼットは、人々がひしめき合う道を歩く。仕事の余韻が冷めはじめると、頭の中でざっと金銭の計算をした。路銀として十分なだけの稼ぎを出せたとわかると、安堵の息を吐く。


「何せ次はペルグ王国……何が起きるかわからないからな」


 今いるここ――マークーから西に行けば、ペルグ王国に入る。かねてより文化の交流地と呼ばれた王国は、今や西方の帝国ロムリカの属州だ。西洋人の礼儀、西洋人の法がものを言う地域を通ることになる。今のうちに資金を稼ぎ、物資を揃え、何が起きても対応できるように構えておきたいところだった。


 とはいえ、肩肘を張ってばかりで疲れが出てもいけない。異国情緒あふれる街並みをながめたイゼットは、ひときわにぎわう西南の通りに目を向けた。露店や屋台が立ち並ぶ通りには、人いきれと食欲をそそる芳香があふれている。マークー名物屋台通りだ。人通りの多いところを避けるようにしている彼が、屋台通りを見やったのには理由がある。――彼がじっとしていると、ややして、人混みの中から小さな影が飛び出してきた。


「イゼットー! お仕事お疲れ様です!」


 緊張も疲れも吹き飛ぶ、底ぬけに明るい声を上げ、一人の子どもがイゼットの方へ駆けよってきた。色鮮やかな民族衣装を薄汚れた外套で隠し、銀の首飾りや腕輪を揺らすその子どもは、一見すると少年のようにも見える。だが、その子の少ない荷物の隅っこには、女性が頭に巻くマグナエと呼ばれる布があった。


 南から来た異民族・クルク族の少女ルーは、笑顔満点でイゼットを出迎えると、左手を突きだした。白い手には、こんがり焼けた串焼き肉ケバブがにぎられている。焼いてもらって間もないのか、肉汁がいい感じに光っていた。


「お昼ごはん確保しておきました!」

「おお。ありがとう」

「ちょっと待ってくださいね。ナンも売ってたので買ってみたんです」


 イゼットが串焼き肉ケバブを受け取ると、ルーは右腕に抱えていた袋をあさる。


「何も通りの真ん中でやらなくてもいいと思うよ」

「あ、そうですね」


 目を瞬いたルーの手をひいて、イゼットは通りの端に歩いていった。そこは屋台の客が集まる場所なのだろう。小さな天幕が張ってある。中までは入らず、天幕のすぐ手前で足を止めた二人は、やや遅めの昼食にありついた。

 串から外した羊肉をナンで器用にはさみながら、イゼットは口を開く。


「それで、検問所の方はどうだった?」

「人がいっぱいでした。空気がピリピリしてましたね」


 ルーは、肉を巻いたナンにかぶりつく前に、西――つまりヒルカニアとペルグの国境の方角を一瞥する。


「検問所のおじさんに旅の人が怒鳴ってたり、逆に商人さんが追いかえされたりしていました」

「そっか……噂には聞いてたけど、そこまで殺伐としてるのか」


 イゼットは嘆息して、ナンをかじる。


 元来、ペルグ王国とヒルカニアは時に戦争と交易を繰り返して対等といえる関係を保ってきた。その均衡が崩れたのは、十数年前、ペルグ王国がロムリカ帝国の属州になってからだ。西から来た統治者たちにとってみれば、隣国の人々は遠き血の繋がりも民族の絆もない他人である。そして、逆もまた然り。お互い警戒してしまうのも、無理ないことではあるのだった。


「とりあえずは、騒ぎを起こさないようにすることだ」

「ですね。飾りものも隠しておいた方がいいでしょうか?」

「そこまでしなくてもいいと思うけど……念を入れるのは悪くないか」


 強くうなずいたルーが、最後の一口のナンを口に放った。いつの間にそんなに食べ進めていたのか、と目を丸くしたイゼットは、淡く苦笑してから自分のナンをようやく胃に収めはじめた。



 ヒルカニアとペルグを繋ぐ門――つまり検問所は、マークーの西の端にある。一見小さな隊商宿にも見える建物のまわりは、人でごった返していた。汗と香水と獣のにおいがあたりに充満している。臭気は、屋台通りを抜けた頃から感じていたが、検問所に近づくといっそう濃厚になった。イゼットとルーは思わず顔を見合わせる。自分たちも馬を連れている手前、文句は言えないが、においがきついという事実は変わらない。


 人混みをかき分けてから検問の列に並ぶこと、二刻弱。ようやく二人の番が回ってきた。痩身そうしんの男は、まだ子どもともいえる旅人二人をうさんくさそうに見ている。イゼットは男の顔を一目見るなり、「ラクダみたいだ」と思ったが、気づかなかったふりをした。


「通行証か身分を証明するものは、持っているか」

 とげとげしい言葉とともに、右手を突きだされる。隣に立つ少女が、不安げに見上げてきた。彼女が通行証などを持っていないことは想定の範囲内だ。イゼットはつとめて穏やかな態度のまま、上衣の内側からぶ厚い木の板を取り出す。ぎりぎり片手で持てる長方形のそれをラクダ顔の男に差し出した。男は板をながめまわしたあと、つまらなそうに鼻を鳴らし、板をイゼットに突き返した。


「通れ」


 ペルグ側を指さし、とことん無愛想に男は言う。若者は気づいていないかのような態度でお礼を言い、後ろの人に場を譲った。


 人の流れに乗って検問所から離れてゆく。検問所の男の姿が人混みに隠れて見えなくなった頃、手を引かれるまま歩いていたルーが、興味深そうにイゼットを見つめた。


「イゼット、さっきの板はなんですか?」

「傭兵の仕事用の身分証。このあたりでしか通用しないけど」

「傭兵?」


 荒事に関われないはずのイゼットの口から、荒事の専門職のことが出てくるとは思っていなかったのだろう。ルーがきれいに首を傾ける。イゼットは少し視線をさまよわせて、間もなくルーの額のあたりを見た。


「前に傭兵の人と一緒にいたことがあって。その時にもらったものなんだ」

「そうだったんですか。その方は今どうしているんですかね?」

「うーん。今ごろはペルグのどこかを放浪してるんじゃないかな」

「もしかしたら、会えますかね」


 目を輝かせる少女に、若者はやわらかく笑いかける。


「そうだね。運が良ければ、会えるかもしれない」


 思い出を慈しむ言葉は、異国へ繋がる空を穏やかに流れていった。

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