第6話 石と月光の深淵
坂を下りるときも、凹凸を利用しながらなんとか飛びおりた。途中、何度か死ぬかと思ったが、地面に足がついたので、どうにか生還したのだとわかった。途方もない疲労感に肩を落とすイゼットの横で、ルーはけろりとしている。クルク族は、いったいどういう体のつくりをしているのだろう。心から気になった。しかし、個人的な好奇心はひとまず脇に置いておくことにする。
ルーの指摘したとおり、坂の横の壁に、先ほどまではなかった穴があいていた。あの杭を押しこむと抜け道が現れる仕組みだったのだろう。二人はどちらからともなく歩きだし、抜け道を出た。
短い道の先には、狭い空間。そして、向かう先には不自然なほどにきれいな穴がある。穴の先には長い道があるようだ。道の先はとにかく、暗い。
イゼットは穴の左側、岩壁に再びケリス文字の文章があるのを見つける。今度はすらすらと文章を読み、熱心に見上げてくるルーを振り返った。
「『この先、光の通じぬ闇の道。恐れぬこと。声を聞くこと』って書いてある。今度はそのまま、って感じだ」
「でも、声を聞くこと、ってなんでしょうね」
ルーが首をかしげる。イゼットは気まずい表情で頬をかいた。
「なんとなく、心当たりはあるけど……実際に確かめた方が早いかも」
「む、なるほど。では、さっそく行きましょうか。しゃきしゃきと」
「また、しゃきしゃき……」
軽く顔をしかめる若者をよそに、ルーはやる気満々で歩きだす。イゼットも、一応は
穴の先、闇の中に踏み込む。その瞬間、闇にからめとられたように、
「イゼットさん、こうなるってわかってたんですか?」
「なんとなくね。『光の通じぬ闇の道』ってわざわざ書いてあるくらいだから、
イゼットが淡々と答えると、ルーは感動したように吐息をこぼした。
「ボクはそこまで予想できなかったですよ。イゼットさんは頭がいいですね」
「はは……ありがとう。頭がいい、かどうかはわからないけど」
言葉の後半は、吐息のようにかすかな呟きだった。ルーは、声にも、言葉ににじんだ自嘲の響きにも、気づかない。
暗闇の中でも、二人は黙々と進んだ。暗黙のうちに先頭に立っていたルーは、
「なんだかここ、嫌な感じがします」
寒そうにしてあたりを見回す。闇の中、黒に限りなく近い茶色の瞳が鋭く輝いて、一粒の光を落した。
少女の呟きに、若者は曖昧な
イゼットはあえてなにも言わず、前にある少女の頭を軽くなでた。ルーは少々驚いていた様子だが、嫌がりはしない。むしろ元気を取り戻したように、軽快に歩きだした。二人分の足音が、まっ黒い世界にこだまする。
ややあって、またルーが足を止めた。今度は、不安からではない。彼女は壁を指さしながら若者を顧みた。
「イゼットさん、また文章がありました!」
「え、そうなの? さすがに、ここまで暗いと読めないんだけど……」
イゼットがうめくように返すと、ルーは息をのんだ。自分の視力が尋常でないことを忘れていたらしい。イゼットは、今は見えない少女の表情を想像して、ほほ笑んだ。
「大丈夫。なんとかするよ」
言うなり彼は天をあおぎ、唇を開いた。隙間からこぼれ出たのは、この大陸のどこの国の言語とも違う、奇妙なことば。瞠目するルーをよそに、イゼットは淡々とそれを紡ぐ。闇の中、埋没してしまった者たちを呼び集め、彼らと静かに交渉する。交渉は緩やかに進み、終わった。
イゼットとルーの間に光の粒が集まる。それはひとつの球体となって、闇の道を
「え!? い、今……何をしたんですか……!?」
いつもははつらつとして響く声が、少しかすれている。
「光を
黄金色の球に指をかざす。かすかな熱を感じた。
「精霊の力を分けてもらう……? アグニヤの里の、
「多分、同じだよ。巫女と
現在、ロクサーナ
ロクサーナ聖教も
つかのま、ぽかんとしていたルーが、イゼットに向けてきたまなざしは、
「イゼットさん、覡だったんですか?」
「専門家ではないけどね。少しだけ、そういう勉強もした。……たいしたことは、できないよ?」
「でも、そうやって精霊の力を借りられるわけですね。すごいなあ」
ルーは、尻尾をちぎれんばかりに振る子犬のようにはしゃいでいる。
あまり経験したことのない空気に、イゼットは戸惑いを隠しきれない。とりあえず彼女から目をそらし、ケリス文字の文章を読み解いていくことにした。
暗闇の中で、二人は何度かケリス文字の文章とからくりに遭遇した。なんとかして仕掛けの一つひとつをくぐり抜けていく中で、イゼットは精神力が削ぎ取られてゆくのを感じている。へこたれないのは元気な少女がいるおかげだった。
「ここまで周到にいろんな仕掛けをほどこすなんて……いったい奥に何があるっていうんだ?」
この道に入ってから四つ目のからくりをくぐり抜けたとき、イゼットはなにも考えずひとりごちていた。前に立っているルーが、まんまるの目を向けてくる。
「実際行ってみないと、なんとも言えませんね。でも、ボクらの文字で書かれた詩がどこかにあるのは、間違いないです」
「詩?」
思いがけず返ってきた答えに、イゼットは目をみはる。ルーは、やけに神妙な顔つきでうなずいた。
「十五か所ある修行場の果てに書かれた詩の内容を『持ち帰る』こと……それが、修行の旅の目的なんです」
「なるほど。――って、十五か所もあるの!?」
つい自然にうなずいたイゼットは、衝撃の事実に絶句した。一方のルーは「はい、これからが本番なんです!」と、むしろ張り切ったように笑う。やっぱり奇妙だ、とイゼットはうなった。
「詩の内容を知ることに価値があるのか、詩にたどり着くまでの行程に意味があるのか、それはボクにもわかりません。なにしろ……詩の内容が謎だらけなので」
「そ、そっか。本当に変わってるな。クルク族はみんな、大人になるためにそういうことをしなきゃいけないの?」
ルーは、笑顔で首を振った。
「『修行の旅』はアグニヤ
「ちょっと待ってどこも物騒すぎる」
イゼットもまあまあ長いこと旅をしているが、クルク族の人と何かしらの関係を築いたことはなかった。ルーが、はじめてのクルク族の知り合いだ。ゆえに知らないことばかりなのは当然である。が、知れば知るほど、クルク族は常軌を逸した民族なのではないかと思えてくる。
ただ――それでも彼らが、笑い、怒り、悩みもする人間であることには変わりない。
なんともふしぎな心地だった。
「クルク族に興味がわいてきたな」
イゼットが苦笑してそう言うと、ルーは一瞬きょとんとした後、花が咲いたようにほほ笑んだ。
「ボクでよければ、いろいろお話ししますよ!」
「本当? ありがとう」
クルク族の少女は、実に嬉しそうにうなずく。それから弾んだ声で「何が訊きたいですか?」と切り出した。暗闇に対する不安は、どこかに飛んでいったようである。
クルク族談義をしているうちに、『光の通じぬ闇の道』といわれていた、細い道を抜けた。広い空間に出る。影の精霊の圧力から解放されたからか、光の精霊たちが活気づきはじめた。イゼットの前の光がふうわりと広がり、二人の周囲を煌々と照らしだす。
茶色く、ごつごつした岩が天地と左右を囲んでいる。奥の壁までは遠く、天井は今までにないくらい高い。都市の大きな礼拝堂くらいの高さがある。
「ここは……」
あたりを見回しても、岩ばかり。変わったものはほとんどない。ただ、イゼットは、自分のすぐ左の壁に、またケリス文字の文章が刻まれているのを見つけた。文章に軽く目を通してから、ルーを振り返る。
「読んでいい?」
「もちろんです」
ルーは力強くうなずく。真剣な表情の彼女に、イゼットもうなずき返す。そして、文章を慎重に読み上げた。
「『石の番人を制せよ。力の源は、月光なり。石の番人は満月に動き、新月に眠る』」
自分の声を聞きながら、イゼットは眉をひそめる。
今までの文章と感じが違う。より詩的で――危険な感じがした。
彼は連れの少女に意見を聞こうと、いつもどおり振り返る。
瞬間、足もとからものすごい衝撃が突き上がってきた。遅れて、轟音が響く。
「なっ――」
「わあっ!?」
二人分の悲鳴が重なった。強烈な地響きは、それすらもかき消した。
イゼットは慌てて踏みとどまる。ルーも、驚きはしたものの、危なげなく体勢を立て直していた。ほっとしたのもつかのま、イゼットは唐突に、頭痛をおぼえて頭を押さえた。
現実が遠ざかる。残像が脳裏をよぎる。
淡い光と、誰かの声。
覚えのない情景に重なって、記憶にある風景が押し寄せた。
崩壊の音。
赤い炎。
あの人の涙。
嘲笑。
光る破片。
音が、色が、情景が入ってくる。
彼は瞬間、『石と月光の修行場』の名を思い出した。その意味のすべを知り――そして、その意味のすべてを、忘れた。
悲鳴じみた声を聞き、イゼットは我に返る。なにか奇妙なものを見ていた気がするが、その内容はまったく思い出せなかった。地震はいつのまにかおさまっている。ただ、なにか別の気配がした。広い空間には不自然な圧迫感。風のようなうなり。大きな岩が動くような音。
「ルー?」
少女を振り返る。そして、瞠目した。
彼女はまさしく言葉を失った様子で、前を見ている。もともと白い肌から血の気が失せて、さらに白くなっていた。
「イゼットさん、あれ……」
かろうじて、彼女は声をしぼり出す。イゼットは、ルーの視線を追いかけ――みずからの目を疑った。
眼前に、石が立っていた。
正しくは、石を人の形に固めたようなものが、三体。それがただの石人形でないことは明らかだ。人の目にあたる部分に、赤い光が灯っている。
石の人形たちは、時折身じろぎをしながら、二人を見下ろしている。彼らが
目のような光の瞬きが、強くなったような気がする。そのとき、イゼットの脳裏に言葉がひらめいた。
『石の番人を制せよ』
イゼットは、はっとする。文章の意味を唐突に悟った。
しかし――彼の思考が体に伝わるより早く、『石の番人』が巨大な腕を振りかぶった。
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