月と炎の伝説

しちみ

第一幕 陽光は若き命の糧となる

序章 伝説のささやかなる始まり

第1話 食事の香りは出会いの薫り

  天の使いは、寒い夜にやってきた

  人々は、彼を旅人と思い丁重にもてなした


  人心の良きところに触れた天の使いは

  旅立つ前に、人々に月を与えた


  この月は、清き心の持ち主に宿り、その者に力を授ける

  月の力は宿主を守り

  そしてあなた方の暮らす土地も守るだろう

  月ある限り、この地には安寧が約束されるだろう


  言葉と一粒の光を残し、天の使いは砂漠の中に去っていった



     ※



 穏やかな陽光降り注ぐアハルの町は、平穏という名のまどろみの中にある。人々の営みは今日も淡々と、しかしどこか熱を持って繰り返されていた。


 慌ただしく通りを歩く商人の横を、構うものかとばかりに悠々と猫が歩く。その姿を見つけ、家から出たばかりの少年が目を輝かせた。しかし、彼の興味はすぐに別の場所へ移ろう。彼の自宅近くの広場から、明るい声が聞こえた。言葉を繰り返す少年少女の声はきれいに揃って、青空の下に弾ける。


 広場のそうされていない一角を占領している子どもたちは、五歳から十二歳まで。年齢も性別も、髪や肌の色もさまざまな彼らは、土に書かれた文字に見入っていた。


「あ、なるほど。これで『オレンジを一個ください』になるんだ」

「十、はこう。えっと、二十はこう。三十、四十、五十……」


 嬉しそうな黒髪の少年のそばで、数字をひたすら書いている少女が眉根を寄せる。金色の髪に白い肌と、西洋人らしい特徴を持つ彼女はけれど、西洋人の少ないアハルの町にも持ち前の明るさですっかりなじんでいた。


 負けず嫌いなところがある彼女は、途中で手が止まっても辛抱強く考え続けた。だが、子どもの忍耐の限界である。頭が痛くなりそうになった少女は、観念して「教師」を見上げた。


 気の強いまなざしを受けたのは、彼女のそばで静かにしていた若者だ。少年というには落ちついた雰囲気を持ち、青年というには幼いおもちをした彼は、夕日のような優しい色の瞳で少女を見下ろす。彼女の悔しげな様子に気づくと、優しさと苦みのまざった笑みを浮かべた。


「アイシャ、わからないところがあった?」

「むぅ……六十がわからない!」

「ああ――六十はね、こう」若者は、少女から突きだすように渡された木の棒を受け取ると、ゆっくりと土に文字を刻む。あっと目をみはっている彼女に、ほほ笑みかけた。


「最初が六と似てるでしょ? 合わせて覚えると忘れないと思うよ」

「うん」きゅっとひきしまった表情でうなずいた少女を見、若者はふと思い立って言葉を継いだ。

「アイシャはよく数字を書いてるよね。数字、好き?」

「好きよ。おもしろいでしょ、数字って。それに、数字を覚えたら、お買いもののとき、だまされないもの!」


 胸を張り、誇らしげに言う少女を若者はまじまじと見返してしまう。それから、ふっと笑いの息をこぼした。


「たくましいなあ」

「将来は、立派なお嫁さんになるんだもの! イゼットのお嫁さんになってあげてもいいのよ」


 ませたことをささやいた少女に、若者――イゼットは少し困った顔を向ける。とりあえず、「ありがとう」とだけ言ってきれいな金髪をなでた。内心、どう返したものかと戸惑っていたことに、気づかれたくはない。少女はどこか不満げな表情になったが、彼女がなにかを言う前に、別の子どもがイゼットを呼んだ。


 今月に入ってから、二日に一回の頻度で開催されている子どもの勉強会は、広場に親たちがやってくることで終わりを告げる。この日も昼前になると、広場に大人の声が響いた。


 家族のもとへ帰ってゆく子どもたちを見送りながら、イゼットは大きく息をつく。そばの建物の壁際に寄せていた荷物と槍をかついだところで、女性の声が彼を呼んだ。


「イゼットさん」


 呼ばれて、イゼットは振り向く。優しいほほ笑みを浮かべる女性と目が合った。豊かな金色の髪と、吸いこまれそうな青い瞳――アイシャの母親だ。娘を伴わない彼女に若者は愛想のよい挨拶を投げかける。やわらかく返した彼女は、変わらぬ調子で言葉を続けた。


「いつも娘がお世話になっております。ご迷惑をおかけしていないでしょうか」

「迷惑だなんて、とんでもない。アイシャは勉強熱心ないい子ですよ。最近は、数字が好きになったみたいで」


 女性はイゼットの報告を楽しそうに聴いてくれる。母親にとって、娘の様子が聞けるというのは、それだけで嬉しいことなのかもしれない。人の親になった経験のないイゼットは、漠然とそんなことを思った。


 ちょうどそのとき、友達と別れたらしいアイシャが母親の腕にしがみついた。


「ねえイゼット。いつまでアハルにいるの?」

「ん?……ああ、もうそろそろ出ようかと思ってるんだ」

「えーっ!?」


 目を輝かせる少女に、イゼットはばつの悪さを覚えながら答える。とたん、彼女は予想通りにねた表情になった。駄々をこねはじめそうな様子に気づいた母親が、娘に目線を合わせて頭をなでる。


「アイシャ、最初に聞いたでしょう。イゼットさんには行かなきゃいけないところがあるんですよ」

「そ、そうだけど。聞いたけど……」


 小さな声は動揺と不機嫌のせいか、やけにとがっている。イゼットは「言ってなくてごめんね」と謝ったあとに、槍を脇に抱えて彼女の頭に軽く手をやった。


「用事が済んだらまた来るよ」

「ほんと?」


 うなずいてみせると、アイシャはあっという間に機嫌を直した。また会える保証をしてもらえたのが、よほど嬉しかったらしい。切り替えの早い娘は、自分の母の呆れたような微笑に気づかなかった。


 少女は弾んだ心を抱えたまま、イゼットのすぐそばのものに興味を示した。彼が槍を手に持ちなおしたのを見て、それをじっとながめた。


「そういえば、イゼットはいつも槍を持ってるよね。ひょっとして、使えるの?」


 無邪気な問い。だが、それは若者の胸をしたたかに打った。息をのんだ彼は、しかし顔のこわばりを隠そうと、やわらかい笑顔をつくる。


「……いや。あんまり得意じゃないんだ。これは身を守るために持ってるだけ。何もないよりましだし、武器を持っていれば、悪い人も少し警戒してくれるからね」

「ふーん。そういうもの?」


 首をかしげる少女の瞳には、確実に疑念の色があった。子どもは人の心の動きに敏感だ。町の子どもの中で、アイシャは特に鋭い。けれど、彼女はイゼットに追及を仕掛ける前に、母親にうながされてしぶしぶ家路いえじについた。母にも娘にも、しなければいけない家仕事は多いのである。

 小さくなってゆく親子の背中を見送った青年は、軽くため息をついてから身をひるがえす。


 さすがに長い時間子どもたちの相手をしていると、体力を使う。腹の訴えに気づいたイゼットは苦笑した。大通りに行けば何かしら売っているだろう。なにを食べようかと、他愛もない考えごとに意識を向けて、ささくれた心をそっとなだめた。



 イゼットはアハルに根を下ろしているわけではない。ある場所を目指す旅の途中、路銀ろぎん稼ぎと補給のために寄っただけだ。庶民らしからぬ教養がある彼は、その知識を生かして代書屋だいしょやをしながら旅の資金を稼いでいるのだが、アハルはイゼットの想像以上に文字の読み書きができない人が多かった。仕事中に知り合った男性から子どもたちへの講義をお願いされたことがきっかけで、ここ一月、先ほどのような勉強会を開いていたのだ。

 だが、お金もじゅうぶんに稼げて、必要なものも揃った。そろそろ、本来の旅へ戻らねばならぬ頃である。


 大通りに足を伸ばしたイゼットは、ひとつの屋台の前にいた。ラフマジュン(ひき肉をのせた薄いパン)を売っているこの店のあるじとはすっかり顔なじみになってしまっている。


「へえ、もう出るのか? さびしくなるな」

「お世話になりました。用が済んだら、また来ますね」

「待ってるぜ。次には嫁さんの一人くらい連れてこいよ」

「……そんな無茶な」


 談笑しつつも、野菜とひき肉を手早く薄焼きパンで巻いた彼は、それと引き換えに銅貨を受け取ったあと、なぜか軽く顔をしかめた。ふしぎに思ったイゼットは、すぐ、彼が自分ではないものを見ていることに気づく。視線を追いかけた彼は、目を丸くした。


 いつからだろう。彼の後ろに、一人の子どもが立っていた。子どもといっても、勉強を教えている子らよりは年上のようだ。赤を基調として、細かな装飾があしらわれた布を身に巻いていた。独特な衣装を包み隠すように汚れた外套がいとうを着ている。しかし、ヒルカニア絨毯じゅうたんのように華やかな衣は、隠し切れてはいなかった。子どもが少し動くたび、銀色の首飾りが繊細な音を立てる。ただでさえ大きな目をはっきりと見開く子どもは、イゼットを――その先の屋台をずっと見つめているらしい。


「坊主、欲しいならそう言え」


 熱い視線に耐えかねたのか、店主が呆れた声を出す。子どもはなぜか驚いた様子で半歩退いた。ばれていないと思っていたらしい。そう思ってもしかたないかもしれない。実際、イゼットが気配に気づかなかったのだから。


「す、すみません」

 予想よりも高い声で謝った子どもは、それから決まり悪そうにうつむいた。

「でも、今、お金がないんです……」


 今にも泣きそうである。イゼットは戸惑ったが、店主はさらに困っていた。うなり声を上げそうな彼を振り返り――イゼットは、小袋から再び銅貨を取り出した。


「同じもの、もうひとつ下さい」

「え?」

 子どもが頓狂な声を上げると同時に、店主も目をみはった。彼はさりげなく顔を寄せてくる。

「やめとけ、イゼット。一回優しくすると後が面倒だぞ」

「それは俺も考えましたけど……あの子、そういう感じじゃなさそうですし……」


 乞食こじきや貧民街の孤児なら確かに、一度慈悲をかけるとその後どんどん要求されて気づけば身ぐるみを剥がされた――ということは十分にあり得る。だが、後ろの子どもからは、乞食のような荒んだ気配は感じない。


「それに、放っておくとこの店を見つめたまま気絶しそうですよ、あの子」

「……しかたねえ奴め」


 店主はとげとげしく呟いたが、やはり店を見つめたまま気絶されるのは嫌なのだろう。もう一品イゼットに渡したのと同じものを作り、銅貨を受け取ってくれた。お礼を述べたイゼットは振り返る。子どもは、同じ姿勢のまま、今度はイゼットを見つめていた。

 黒に限りなく近い茶色の瞳が、戸惑う若者の顔を映し出す。その瞳の力強い輝きに吸い寄せられそうになったイゼットは、慌てて取り繕った。


「どこか隅の方で食べようか」


 子どもは、唖然とした顔のままうなずいた。


 腰を落ちつけて食事ができそうな場所を探しだすと、子どもは感謝の言葉を添え、ルーと名乗った。軽い自己紹介を終えるとルーは、大人の男に引けを取らぬ勢いで、ラフマジュンを平らげた。そのあまりの勢いに、イゼットの方が食事を忘れて見入ってしまったほどである。


 ルーは食べ終えると両手を合わせた。


「ほんっとうに! ありがとうございます! ボク、ここ三日、お金がなくて何も食べてなかったので助かりました!」


 三日って、と呟いたイゼットはしかし、すぐに気を取り直した。


「いいよ、気にしないで。それより、口にひき肉がついてる」


 気になっていた事実を指摘すると、ルーは「はわっ!?」とふしぎな声を上げて、口もとの汚れを必死にぬぐった。笑いをこらえた若者は、ようやく自分の食事にありついた。羊のひき肉は、存外臭みが少なく食べやすい。味付けはそこそこ濃いのだが、ほんのり甘味のあるパンがそれを上手に中和してくれている。少し冷めてしまったが、じゅうぶんに美味だった。


「君は……はじめて見るけど、旅でもしてるの?」

 雑談のつもりで話しかけてみると、ルーは表情を輝かせた。

「はいっ。あの、今、修行の旅をしてるんです」

「修行?」

「ですっ。大人と認めてもらうための、修行です」

「通過儀礼か……でも、そんな慣習初めて聞くな」


 指を懐紙でぬぐいながら呟いたイゼットは、記憶をたどる。だが、やはり、「成人のために旅をする」という話には思い至らなかった。彼がそこを尋ねる前にルーの方が話しかけてきた。


「そうだ! 修行の関係で……お尋ねしたいことがあるのですが」

「ん? なんだい」

「この近くに洞窟があるはずなのですが、どこかわかりますか」


「洞窟」口の中で繰り返したイゼットは、アハル周辺の地図を頭の中に描いた。そして思いついたひとつの場所のことを舌に乗せる。


「それ――もしかして、北の小さな洞窟かな。そばに渓谷けいこくがあって、昔は渓谷への抜け道として使われることがあったらしいんだけど」

「北、ですか。目印になるものがありますかね」

「どうかな……。岩の陰になってるから少し見つけづらいってことくらいしか……」


 イゼットは、宙に視線を泳がせた。そもそも今話題に出している洞窟を真剣にながめたわけではなかったので、記憶が曖昧なのだ。「あんまり役に立たないね、ごめん」と頭をかくと、異民族の子は手を振った。


「それだけわかればじゅうぶんです。ありがとうございます」

「う、うん。修行……って何するのか知らないけど……頑張ってね」

「はい!」


 元気よく返事をするなり、ルーは駆けだした。

 まさか、今から行くつもりだろうか。心配になったものの、それを口にする機会すら逸したイゼットは、とりあえず小さな旅人の無事を祈っておいた。

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