第80話「幕間――History of His story」

 昭和三十年の世界から再び時空間跳躍タキオン・ドライブを始めた直後。

 UFOの船内で、一息ついた柳生十兵衛が現れた。

「さて――そろそろ説明してくれないか」

 十兵衛は「はかせ」に問いかける。

「お前はなぜ、俺たちを助けた? お前は奴らの仲間ではなかったのか?」

 十兵衛はこの自分たちを助けた妙に乳の大きな女をいまだ警戒していた。

 そんな十兵衛に対してはかせは、

「うわやっべ! 昭和三十年といったら、まだチクロ入りのお菓子が売っていたじゃん! うわー、うわー、失敗したぁー。駄菓子屋に行ったら昭和の時代に消えていった幻のお菓子をいっぱい食べられるチャンスだったのにぃー。くっそぉ~、だいたいチクロに発ガン性があるだなんて科学的な根拠に乏しい話をいまだに信じている規制してる日本政府がおかしいんだよなぁー。ねーねーみんなー、もう一回だけ昭和三十年にUターンしてもいい?」

「……人の話を聞け」

 十兵衛はツッコミを入れるが、トムソン少年はというと、慣れた顔で溜息をつくだけだった。

「はかせに目的なんて、ハナっからありませんよ。だいたい〈時空管理局〉に身を置いていたのだって、はかせにしてみれば、ちょっとした気まぐれに過ぎないんですから。どうせ組織を裏切ったのだって、単に面白そうだったからってだけですよ」

「――ああイグザクトリィ。統計学的に見ても明らかだ」

 このボブという黒人の少年は、妙に統計学にこだわりがあるらしかった。

「おいおい心外だなー。私だってちゃんと考えがあって行動することくらいあるよー」

 はかせはよっちゃんイカを咥えながら頰を膨らませる。



 この言葉に、その場にいる全員がはかせの方を振り向いた。

「アメリカだと……?」

 十兵衛はその単語を、かつて江戸城で三代将軍徳川家光の稽古をしていた最中に一度だけ聞いたことがあった。

「それは確か、俺が産まれる百年ほど前に西洋の異人たちが発見したという、東の海の向こうの新大陸のことではないのか?」

 十兵衛の言葉、はかせは目を見開いた。

「……驚いたな。どうやら君はレールガン女子高生の歴史干渉による記憶の改竄の影響を受けていないようだね。ふふ、どうやら君たち剣豪たちに兵器女子高生たちと同様、一般人とは異なる剣理セカイを生きているらしい」

「ちょ、ちょっと待ってください。そもそもなんではかせがレールガン女子高生と関わりをもってるんですか? はかせは長井零路と敵対していたはずじゃなかったんですか?」

 トムソン少年が言った。

「もちろんレールガン女子高生とは敵対しているよ、今でもね。でも――

「……?」

「どうやら、トムソン君もまだ事の真相が見えていないらしいね。ふふん、これは実に初歩的なことなんだよトムソン君。

 ……でもその件については、まだ教えてあーげないっ☆」

 はかせは眼鏡をくいっとあげていたずらっぽく笑いかけた。

「……ホーリィ・シット! 俺にはまったくわけがわからない。はかせは一体なにを考えてるんだ!」

 ボブが頭を抱えて叫んだ。

「なーにを言っているんだい君。だいたい私がアメリカを消させたのだって、もともとは君のためだったんだよ。なあ――米国風黒人少年ボブ君?」

「え?」

 ボブは虚を衝かれたような顔をした。

「――覚えていないかな? レールガン女子高生によって歴史が改変される前、かつての君は。だがれっきとしたアメリカ人の血が流れているにも関わらず、米国風黒人少年ボブと呼ばれた君は誰よりもアメリカを憎んでいた。単に米国風に肌の色が黒いだけであって、君の心はフランスに憧れる日本人だったんだ。だから、君は神に願った――

「はかせは――俺の願いを叶えただけだっていうのか? ……オーマイガー」

 ボブは青ざめた顔で呟いた。

「なーに、君は統計学と駄菓子をこよなく愛する私の同好の士だからね。――だけど、レールガン女子高生の力でアメリカ大陸が消えたことによる歴史への影響はあまりにも大きかった。だってアメリカ合衆国がなければペリー来航もその後の日米関係も無くなってしまうし、世界の構造そのものが大幅に変わってしまう」

「……」

「だからこそ、この世界は変わってしまった歴史を修正し始めた。歴史というものはバネのように自らの形を一定に保つ復元力があるんだよ。江戸幕府が崩壊したあとの歴史にしても、たとえば四代将軍に紀伊大納言頼宣が就任するという形で歴史の修正がかかった。。たとえば東京から大阪へ行く時に、乗り物や道筋を変えても方角さえ合っていれば同じ大阪に着けるように、歴史は他の出来事で釣り合いが取れるようになっているんだ」

「……」

「アメリカ大陸の消滅でも、紀伊大納言の征夷大将軍就任と同じことが起こった。幕末の日本には黒船が来航する代わりに、異世界からやってきた謎の〈敵〉が現れた。その〈敵〉は太平洋戦争の終戦後は自ら王を名乗って、我々が今から向かう時代の日本の中枢を実行支配している」

「……〈敵〉」

「うん。そうだ。――さて、そろそろ君たちの話も聞かせてもらおうか。なにしろその〈敵〉の正体については、ゴリラ文明が発達した並行世界からやってきた君たちの方が詳しいはずだからね」

 二人の少年は一斉に十兵衛とゴリハルトの方を振り返る。

「……」

 それまで沈黙を守っていたゴリハルトは、目を閉じてゆっくりと語り始めた。

「すべては――この私が悪しき闇の力に飲まれたことが始まりだった。お前たちの住む世界に多大な迷惑をかけている彼奴は――私であって私ではなく、しかしまぎれもなく私から生まれた私自身の別側面オルタナティブ――」

 そしてゴリハルトは、ついにその〈敵〉の名を告げた――。




「――その名を、だ」



 ***



 佐々木燕という女がどういう人間かについて、他者に伝えられるほど私が理解しているとは思えない。

 けど、少なくとも私と彼女が普段どんな話をしていて、彼女とどんな関係で、彼女からどんなことをしてもらっているかについて話すことはできる。

 その日の放課後、鞄に荷物を詰めて自宅に帰ろうとした私を、佐々木燕は目敏く引き留めた。

「こらっ、伊織ちゃんまた髪をベタベタにして!」

 燕はまるで母親のように私を叱りつけた。

「いつもいつもちゃんとお風呂にはいれって言ってるじゃない。伊織ちゃん最後にお風呂入ったのいつ⁉」

「――ん? あー……」

 ひい、ふう、みい、と私は指折り数える。

「……十日前?」

「こらぁぁっ!」

 燕の振った竹刀を、私は一寸の見切りで避ける。

「もう、女の子なんだから毎日ちゃんとお風呂に入らなきゃ駄目でしょ! 周りからくさいって思われたらどうするのっ! ほら、今から寮のお風呂に入るっ!」

「――いい」

「いいも悪いもないッ! ええいっ、問答無用! そっちが脱がないってならこっちが身ぐるみ剥いでやるゥっ!」

「ちょ――」


 ――佐々木燕という女は、一言でいえばお節介焼きだ。

 毎日毎日頼まれもしないのに私に纏わりついてきて、こうして私の世話を焼こうとする。

 他人との距離感という概念が抜け落ちているのか、まったくもって理解に苦しむ。

 十分後、私は燕に無理矢理学生寮の彼女の部屋に連れこまれていた。

「はーい、伊織ちゃん脱ぎ脱ぎしましょーねー。ほら、両手を挙げてばんざいして。ばんざーい」

「……」

 私がしぶしぶ両手を挙げると、燕は私のシャツを手際よく脱がせる。

 ここまで来れば私も観念するほかなく、燕にされるがままに全裸になった。

 別に隠す意味もないので手を横にしたまま私がそのまま棒立ちしていると、燕は私から一歩下がって全身を一目眺めると、

「やば……伊織ちゃん超エロ可愛い。お姉ちゃん鼻血出そう」

 と言って、鼻頭を押えた。

「いや、もう出ているんだが」

 燕は鼻からポタポタと血を落としながらも私と共に浴室に入っていった。私はいつものように彼女に背を向けて風呂場の椅子に腰かける。

「はぁ~~っっ‼ 伊織ちゃん可愛いっ! 椅子からちょっとはみ出しているお尻との肉かありえないレベルでエロい! ねえ⁉ 洗う前にちょっと頭皮の匂いかがせてもらってもいい⁉」

「……おい、頭を洗わない私の頭はくさいんじゃなかったのか?」

「伊織ちゃんのに匂いなら、くさくてもいい匂いだもん! ふぉるもん? ――とか、そういうのがいっぱい出てるんだもんっ!」

 ……おそらくはフェロモンの間違いであろう。ホルモンでは牛の内臓だ。

「ふぇひひぃ~~、伊織ちゃんの匂いだぁぁ。処女の香りがするぅ~~」

 燕は私の髪を鼻に近づけて深呼吸をする。

「……」

 私は溜息をついて、燕の好きにさせた。

 燕と一緒にいると、いつもこうだ。

 お馴れ合うつもりはないと何度私が拒絶しても、燕は決して私から離れようとしない。

 とにかくすごいフレンドリーさに、いつも丸め込まれてしまうのだ。

「……」

 そして、卜伝部長に指摘されたように、私もそんな燕に徐々に影響を受けつつある。こうして彼女と二人で裸の付き合いをするのにも、すっかり慣れっこになっている。

 ……慣れっこになっている自分が厭だった。


(――もう、終わりにするべきなのかもしれない)


 これが私の勘違いなのだとしたら、それでも構わない。

 いつまでも曖昧なまま、燕と友達でいつづけることは私にはどうしてもできなかった。

 燕はシャンプーをたっぷり泡立てて私の髪を洗い始める。

「……なあ、燕」

「んんー? 何かな何かなー」

「なぜ、私にそんなに構うんだ?」

「えー。そんなの伊織ちゃんが可愛いからに決まってんじゃーん。はい、ばいきんまん」

「人の髪で遊ぶな」

 燕は泡立てた私の髪を逆立てて二本の角を作っていた。そうして鼻歌を歌いながら次々に私の髪を様々な形に変えていく。曲の内容は判らないが、どうせ古いロボットアニメの曲か何かだろう。

「――私ね、初めて伊織ちゃんに会ったとき、なんだかもったいないな、って思ったんだ。だって伊織ちゃんはこんなに可愛いのに、髪はボサボサで肌は荒れ放題だし、言葉遣いも男の子みたいだったしさ。いいかい若いの。可愛い女の子は、可愛くあり続けるのが周りに対する義務なんだよ」

「……」

 燕の言葉は、剣士である自分には理解しがたい価値観の言葉だった。

 ……あの男もまた、そんな男だった。

 九州という異国の文化が多く流入してくる土地の、細川家小倉藩という大藩に仕えていたあの男は、放浪の牢人であった私には想像もつかない高い教養と美意識を持っていた。

 晩年の私が熊本で水墨画を描き始めたのも、今にして思えばあの男からの影響があったのかもしれなかった。

「……本当に、それだけなのか」

「それだけって?」

 燕は曇り鏡の中で小首を傾げる。

「お前が私に関わりを持った本当の理由は、私の外見などという皮相的な理由ではなく――私が宮本武蔵わたしだったから、お前は私に関わりを持とうとしたではないのか?」

「――」

 燕の手が、止まった。

「宮本伊織――この名前に、聞き覚えがないとは言わせない」

 私は語り続ける。

「――宮本伊織は、かつて小笠原家に仕えていた宮本武蔵わたしの二番目の養子の名前だった。小倉碑文などと称して、私の生前の事績を後世に遺したのもまた、この不詳の息子の仕業だ。……そして現在いまはこの名は、

「……」

「そして、かつて宮本武蔵と決闘した――否、武芸者のなかで、最も有名な人物の名前は、かの燕返しの秘剣を遣う佐々木小次郎という男だった。だが多くの者の想像に反して、実際には決闘は行われず、佐々木小次郎は宮本武蔵と決闘する前に別の者によって斃された。あのいきなりやってきた、長いレールガンをもった女子高生によって……」

 宮本武蔵の晩年の著書である「五輪書」には武蔵の戦歴は六十余度の決闘と書かれているだけで、輝かしい決闘伝説の模様は意外にもほとんど書かれていない。「天下の兵法者にゆきあい」と記述されているのは吉岡一門との戦いを指しているものと思われるが、最も有名な巌流島の決闘については記述さえされていないのだ。

「――書かなかったのではない。宮本武蔵は

 私は言った。

「巌流島の決闘とは、宮本武蔵にとって生涯で唯一の、果たせなかった果たし合いだった――そしてその戦いの模様を書かずして、他の決闘の模様を綴るのはあまりに不自然に思われた」

「……」

「そしてあの日、レールガン女子高生がこの古武術研究会を訪れた日、お前はレールガン女子高生を見て何かを怖がっているような顔をしていた。あれは他ならぬレールガン女子高生こそが、佐々木小次郎おまえを殺した相手だったからではないのか?」

「……」

 燕は何も言わない。

「――なあ、教えてくれ。お前は本当に、あの佐々木小次郎の転生した姿なのか?」

「だとしたら――」

 燕が言った。

「私が佐々木小次郎だったとして、それが一体なんだっていうの? 佐々木燕が佐々木小次郎で、宮本伊織が宮本武蔵だったとしても、佐々木燕は宮本伊織の友達で、それで――それでもういいじゃない。どうして私たちが、そんなことにこだわらなきゃいけないの?」

 燕は一気に捲し立てた。心なしか、その声色が震えて聞こえる。

 疑いが――確信へと変わった。

「お前にとってはそうなんだろう。だが、宮本武蔵にとっては違う」

 言葉を続ける私の脳裏に、いつか卜伝に言われた言葉よぎる――。

 だが――それもまた覚悟の上だった。


「宮本武蔵が佐々木小次郎に出会ったら、もとより殺しあうほかない」


 私は洗面器に溜めた湯を浴びて泡を落とすと、燕に訣別の言葉を告げた。

「……そっか」

 浴室の鏡に映る燕の表情は曇り硝子に遮られてよく見えなかったが、私は燕がどんな表情をしているのか知っているような気がした。

「結局、こうなるしかないんだね。どんなに仲良くなっても、私と伊織ちゃんは、最後はこうなる運命なんだ……」

「ああ、お前も佐々木小次郎ならわかるはずだ」

 結局――燕もまた同じ剣豪ひとでなしだったということだ。ひとでなしの私たちには、こうした普通の人間の生活は根本的に相いれない。

 いわば我々は、人間のふりをして生きているようなものだ。

「――違うよ」

 だが、燕は首を振った。

「全然違う――伊織ちゃんは全然わかってないっ!」

「――燕?」

 燕の声に、私は怪訝な声をあげる。そんな私に、彼女はその一言を告げた――。



「――だって伊織ちゃんは、一度私に殺されているんだもの」



「――」

 息が、止まった。

 燕の言葉が何を意味するのかまるで理解できないのに、私はその言葉を聞いた瞬間、全身の肌が粟立つような戦慄を覚えた。

「――なにを、言っている?」

 ようやく声を発した私に、燕は静かに語り始めた。

「そのままの意味だよ。伊織ちゃんは覚えていないかもしれないけど、宮本武蔵が伊織ちゃんになって私と果し合いをしたのは

「そんなバカな――」

 口を開きかけたが、燕の言葉に遮られる。

「私、嬉しかったんだ。あなたに最初に出会ったとき、私は生前には果たせなかった宮本武蔵との果し合いを、もう一度できるチャンスに恵まれたんだから。だから私たちは今と同じように友達になって、同じように同じ時を過ごして、そして――同じように最後は殺し合うことになった。どちらが勝っても恨みっこなしだって、肩を叩いて笑いあった。でも――でも、決闘が終わって、伊織ちゃんが血溜まりの中で死んでいるのを見たとき、私はやっと取り返しのつかないことをしてしまったことに気づいた。私の親友は、もう二度と帰ってこない、もう二度と会うことはできないんだってことに――ようやく気がついた」

「……」

「そんな時、またあの長いレールガンを持った女子高生がやってきて、私は彼女に伊織ちゃんにもう一度会いたい、もう一度友達をやり直したいって、そう願った。私の願いは、彼女によって叶えられた。けれど、もう一度私の目の前に現れた伊織ちゃんは、

「それが――現在いまの私だというのか。……私がお前に負けたと?」

 信じられない話だった。

 だが、思えば燕は――この女は私に初めて会った時から、まるでずっと以前からの友だったかのように馴れ馴れしいフレンドリーな態度だった。

 もしそれが、私の錯覚でも彼女の人との距離感の取り方の問題でもなく――――。

「……こんな話、やっぱり信じられないよね」

 燕が言った。

「でも、たとえ伊織ちゃんが信じてくれなくても、私はもう二度とあんな思いはしたくない。その気持ちだけは――伊織ちゃんに信じてほしい」

「……」

 私は何も言えなかった。

「……だからさ、やめよ? いま話したことは全部忘れて、明日からまた友達でいようよ。日曜になったら、また美味しいお店に行こうよ。卜伝先輩も誘って、三人で一緒にタピオカミルクティーを飲もうよ。きっと楽しいよ。……私たちが殺し合わなきゃいけない必要なんて、なにもないんだよ……」

 そう言う燕の顔は、いつも通りのはじけるような笑顔で。

 それと同時に、今すぐにも壊れてしまいそうな――泣き顔だった。

「……」

 私は言葉を躊躇った。

 ここで私が彼女の言葉に首肯して、彼女と同じように笑いかければ、私たちはまだ間に合うのかもしれない――そんな誘惑に、心が惹かれさえした。

 だが――私は静かに首を振った。

「……お前の話は、確かに信じがたい話だ。それでいて、私にはお前が嘘を吐いているようには見えない」

「……」

「……だが、仮にお前の話が真実だったとして、それならなおさら、私は宮本武蔵わたしを殺した佐々木小次郎おまえを斬らなければならない」

「――」

 燕が息を呑む声が聞こえた。

 そして私は燕にその言葉を――感情を――――『呪い』をかけた。


「……われ若年のむかしより、兵法の道に心をかけ……天下の兵法者にあい、数度の勝負を決すといえども、勝利を得ざることなし。……諸流の兵法者にゆきあい、六十余度まで勝負すといえども、一度もその利を失わず……」


 それはかつて――宮本武蔵わたし自身がその最期に遺した言葉であった。

「それが宮本武蔵わたしの唯一の誇りだった。天下一の兵法者・将軍家兵法指南役の座を柳生に奪われ、晩年に至るまで大藩に仕えることもなく、ようやく細川家に身を置いたときにはすっかり年老いて、そうして剣豪としての生涯を終えた私の――唯一の誇りがそれだ」

 それは、誇りと呼べるものですらなく。

 なかば、意地にさえ近い言葉であった。

「ゆえに――武蔵は勝たなければならない。宮本武蔵の生涯に『敗北』の二文字はひとつとしてあってはならないんだ」

「……」

 だが、その意地を通さずして、私は宮本武蔵わたしであることはできなかった。

 燕はしばらく押し黙ったあと、ようやく口を開いた。

「……そっか」

 背後から、燕の囁くような声が聞こえた。

「だったら、私たち――明日からは敵同士だね」

 ようやく、彼女もその覚悟を決めたようだった。

「それなら、私も宮本武蔵あなたに負けるわけにはいかない。私は佐々木小次郎だから――武蔵の剣にただ斬られるつもりはない」

 燕はそう言って立ち上がると、浴室の戸を開けた。

「私はもう一度剣の鬼となって――宮本武蔵あなたを殺す」

「ああ――それでいい。そして私は、必ずお前を殺すだろう」

 もはや――我らの間に感傷は不要いらず。

 そこに流れていたのは、ひたすらに殺意のみであった。

「風呂から上がったら、今日はこれで帰って。……果し合いのその日が来るまで、私はもうあなたに会う気はない」

 そう言って、燕は私を残して脱衣所へと去っていった。




 そしてその言葉通り――その翌日から燕は一切学校に来なくなった。

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