第18話

 翌日も、雫と海渡はいつもの場所でいつものように楽しい時間を過ごしていた。


「――そしたら、子供が泣いちゃって。なんとかお母さんを見つけれたから良かったけど、泣いちゃった時は流石に焦ったよ」

「ふふっ。ねぇ、海渡」

「ん、なに?」

「外の世界は楽しい?」


 海渡は湖の中に足をつけ、子供みたいにぶらぶらと動かす。その度に水が跳ね、水面が揺らいだ。


「そうだね。楽しい時もあるかな…。色んなものを見るとね、楽しいって思うことも悲しいって思うこともあるだ」

「悲しい…?」

「うん」

「今は、悲しい?」

「え、今?」


 雫はコクリと頷く。


「そんなことないよ。今は、凄く楽しい。それに幸せでもあるかな」

「幸せ…」

「雫と二人でこうしている時間は楽しいし、幸せだよ」


 雫は海渡の手にそっと触れる。最初は驚いたけれど、海渡は手を引くことはせず雫の手をギュッと握った。雫は海渡が握り返してくれたのに嬉しく、自然と顔がほころんだ。


「私もね、幸せよ」

「雫…」

「外の世界は気になるけど…海渡とこうしているだけでも楽しいの。胸がね、温かい気持ちになる…」


 そう言うと、海渡はクスリと笑った。


「僕と同じだね」

「海渡…」


 その時、誰かが草を踏み湖に向かってくる音が聞こえてきた。

 雫と海渡はお互い顔を見合わせる。海渡は緊張した面持ちで雫の背を軽く押した。


「雫、隠れて…!」


 雫は黙ったまま頷くと、不安な顔をしながら湖の中へと潜り息を殺すように身をひそめた。

 そして、雫が湖から消え少しした後、木の後ろから見知らぬ男性が現れた。それは海渡より年上の黒いスーツを着ている背の高い男だった。


「君は誰かな?」

「……まず、貴方が誰なんですか?」


 海渡は、男を睨む。男は海渡の睨みなど諸共せずにクスリと笑った。


「それもそうだね。これは失礼した。私は、水地茂みずちしげる。ただの商人だよ」

「商人?」

「あぁ。最近ある噂を耳にしてね。この湖に『人魚』がいるっていう噂をね…」

「――っ!!」

「君は知っているかい?人魚の肉は不老不死とされ、その歌声は誰もが魅了する女神の声として評されていることを」

「…………」

「世の中には、物好きな爺さん達が山程いてね。中には、人魚の肉を目当てに…中には、檻に入れ見目を楽しむ為に。ペットにし、商品として高値で闇市に売りに出す者……用途は人それぞれだ。私は、そんな人間の娯楽の為に品を探す役といったところかな」


 茂はそう言うと、掛けてある銀縁の眼鏡をクイッと上げる。そして今度は、茂が海渡に向かってひと睨みした。口元は微かに笑っていて、海渡は何故だかゾッとした。


「それで、もう一度聞くけど…君は誰だい?」

「……海渡」

「苗字は?」

「………」

「ん~。言えないってことかい?」

「………」


 海渡は黙ったまま何も答えなかった。茂は、そんな海渡の態度に怒りもせずニコリと微笑む。

 きっと、他の人ならその笑顔に騙されるだろう。しかし、海渡から見たら茂の笑顔はどこか嘘くさいものだった。まるで、ピエロの仮面を被っているような感じがしたのだ。


「まぁ、いいさ。ところで、君はどうしてここに?」

「それは……ただの散歩です」

「ほぉ。こんな夜更けにかい?」

「別にいいでしょう」

「確かに。私には関係の無いことだ。突然だが、君は人魚の噂は信じると思うかい?」


 茂は、眼鏡越しにジッと海渡を見つめる。何かを探られているように感じた。

 この男にとってはただの質問でも、海渡にとっては真偽を問われている気分だった。


「信じません。人魚なんて物語の中しか存在しない生き物です」

「そうか。…君は、意外と現実主義者のようだね」


 茂は顎に手をやり何かを考える。そして、自分の中で納得するものが見つかったのだろう。茂は海渡に背を向け、来た道を引き返そうと歩き出した。しかし、最後に何か言いたいのか、その足はピタリと止まり茂は再び海渡に向き合った。


「そうそう、君に一つ忠告しよう。大事な物は大切に保管しないと、いつか、消えてしまうかもしれないよ?まるで、ブラックホールに吸い込まれるようにね…」

「――っ!!!」


 それだけ言うと茂はニコリと微笑み、再び木の影へと闇に紛れるように消えって行った。

 海渡は、茂が消えた場所をジッと見つめる。その表情は何処か険しかった。

 湖の中から一部始終を見ていた雫は、茂が去るのを確認すると恐る恐る湖から顔を出す。


「……海渡」


 海渡は名前を呼ばれハッと我に返る。そして、その時初めて気がついた。

 自分が知らぬ間に拳を強く握り締めていたことに。

 雫は不安気な顔で、もう一度海渡の名を呼んだ。


「海渡……?」

「大丈夫だよ」

「うん……」


 雫は小さく頷くと傍に寄り、海渡の肩に頭を置いた。海渡はそんな雫の濡れた髪を優しく撫でた。


(君は、僕が守るから……)

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