第6話

 ♡―♡―♡―♡―♡


 ――月日はあっという間に大きく流れる。


 雫は、来る日も来る日も海渡と過ごし、少年だった海渡は、今はもう立派な青年の姿へと変わっている。そして、海渡もまた、来る日も来る日も雫に会い続けた。

 いつもと変わらない他愛ない話をし、雫に物語を読み聞かせる。雫はそんな囁かな日々が幸せだった。

 いつしか一人と一匹は本当の『友達』になった。

 だが、こんな些細な日々が幸福なものへと変わっても、雫の心もまた次第に大きく変わっていた。

 海渡のことが段々好きになっていたのだ。

 最初は好意からくるものだと思っていた。けれど、同じ湖に住む魚達にその事を話すと、それは恋だと言われた。


「それって、恋だよぉ!」

「だって、会うと胸が痛くなるんでしょう?」

「でも、それは幸せの痛み!」

「会えない日がくると寂しい気持ちになる!会いたくなる!」

「なら、それは恋だね!」


 その話を聞いて以降、雫は自分の気持ちに困惑する。そして改めて、自分の本当の気持ちを知ってしまったのだ。

 雫は、この気持ちを諦めようと思った。話も通じず生きている種族が違うのだから――しかし、毎日湖に訪れては笑って話しかけてくれる海渡のことを想うと、その気持ちを捨てることは出来なかった。


「これが、恋なのね…」


(きっと、人魚姫もこんな感じだったのね。些細なことが嬉しくて、でも気づいてもらえないのが悲しい。そして、何よりも彼が愛おしい…)


 雫は湖の中で溜息を吐く。すると、小さな泡が下から上へと流れていった。


(あぁ…人間になりたい…)


「でも…きっと、あの子は驚いて逃げちゃうわ。それに、私だって気づかない…」


(それでも――)


 そう思った瞬間、突然、頭の中に声が聞こえて来た。それは、どこか妖艶さがある大人びた女性の声だった。


 《私を呼んだのはお前かい?美しい東洋のお魚さん》


 雫は、ハッと我に返り辺りを見回す。しかし、辺りには自分以外誰もいなかった。

 声の女性は、クスクスと笑う。


 《探しても無駄よ。私は、そこには居ないからね》


「だ、誰?」


 雫は恐る恐る声の主に質問をする。


 《私?私は、そうねぇ…人間や他の者は、私のことをだと言うねぇ》


 その言葉に雫は息を飲む。


「ま、魔女…?」


 《そう。声が聞こえたから、お前に話しかけたのよ》


「私が、魔女を呼んだ…?」


 そんな覚えは全く無いと思いたかったが、正直、雫には自信がなかった。

 もしかしたら、心の奥底で密かに呼んだかもしれない。


 《して、お前の望みは何かしら?まぁ、言われなくてもわかるけどね…》


「え?」


 《人間になりたいのでしょう?お前達の願いはそうだからね。あの美しい声を持つお姫様もね…》


「それって、人魚姫……ですか?」


 《そうよ。……最後は泡となり消えたけれど、今になれば懐かしい思い出ね》


 雫は、そんな魔女の声音が少し寂しそうに聞こえた。

 もしかして、悲しんでいるの?と、聞こうとしたけれど、それを口に出す前に魔女はもう一度雫に問い掛けた。


 《さぁ、もう一度聞くわ。お前の望みは何?》


「私、は……」


 雫は人魚姫のような結末を迎えるのではと不安に思っていた。

 けれど、雫の心は決意で溢れていた。

 雫は魔女に願う。


「願います。私は…私は、人魚になりたい」


 その願いを聞いた瞬間、一瞬驚く魔女の声が聞こえた。そして魔女は、何故か笑った。


 《あはははっ!人魚に?また、不思議な望みね。理由を聞いてもいいかしら?美しいお魚さん》


「え?あ、はい…。確かに、私は人間になりたいです。でも、人間になっても彼は私を受け止めてくれるかわからない…生きる世界が違うから…。けれど私は、彼と話しがしたい!私のことも知ってほしい!人間として寄り添えなくても、友として傍にいたい!」


 《友、ねぇ…。お前は、その人間を愛しているのかしら?》


「はい。心から」


 《そう……》


 魔女はそう言うと小さな溜め息を吐いた。


 《お前の望み聞き入れた。特別にタダでお前を人魚にしてあげるわ。ただし、お前に一つ呪いを授ける。これは、かつての人魚姫の呪い――お前が愛おしいと思う人間が、お前の姿を見て恐怖で驚いたり、叫んだり、逃げ出した場合、お前の身体は泡となり消えるだろう》


「泡に……」


 《それでも願うかしら?》


「はい」


 そう返事をした瞬間、辺り一面に蛍のような淡い光が現れた。

 光は次第に強く輝く。雫は、その光が眩し過ぎて目を開くことが出来なかった。眩しい光は少しずつ闇夜に溶け、雫は恐る恐る瞳を開いた。


「っ!?こ、これは…人間の、手……?」


 突然目の前に現れた細く白い手に驚く雫。それが自分の手だとわかると、今度は確認するかのように自分の顔に触れた。

 触れた瞬間、ふにっとした感触が掌から伝わり、雫は慌てて底に落ちている割れた鏡を拾う。


「人間の顔だわ!」


 ――雫は、魔女の魔法によって魚の姿から人魚の姿へとなっていた。


 長い睫毛に夜を吸い込むような大きな瞳。名雪のように白く滑らかな肌。宵闇のように美しく艶やかな漆黒の髪は、月の光を反射してキラキラと輝いている。

 何処から見ても美しい人間にしか見えない――が一つだけ違うところあった。

 それは下半身だった。

 下半身だけが、いつもと変わらない魚の姿だったのだ。


 ――正に、東洋の人魚。


 雫は、ふと魔女の言葉を思い出す。


 《これは、かつての人魚姫の呪い。お前が愛おしいと思う人間が、お前の姿を見て恐怖で驚いたり、叫んだり、逃げ出した場合――お前の身体は泡となり消えるだろう》


(彼は、逃げるかしら……)


 雫は瞳を閉じると、海渡が雫を見て恐怖で驚き、逃げてしまう姿が頭に過(よ)ぎった。


「……っ!!」


(そんなの、耐えられない…!)


 今にも泣き出しそうなぐらい悲痛な表情になる雫。

 雫は、ゆっくりと湖の中から夜空を見上げる。まるで、今の雫の気持ちを表してるかのように美しい月が雲の中へと隠れた。


「でも、私は、それでもいいと願ってしまったから……」


 雫は膝を抱え横になる。長い髪が水中の中でフワリと浮かぶ。

 雫は自分の結末はどうなるのか、本当に願ってもよかったのだろうか?と、希望と不安を両方胸に秘めながら静かに眠りについたのだった。

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