「夫がもしもいなくなっちゃったらどうするの」という問いに、私はこうして答える。
私は。元来の性格がいろんな意味で「強い」せいか、「強い」たぐいの質問を投げかけられることも、ままある。
自分ではあまり強いという自覚はないのだが、まあ、だからこそ、私の本質的なところがどこかあきらかに「強い」というあかし、とも言えるだろう。
とくに対話的な場面において、私はけっこう強いらしい。
最近は自覚ができてきたぶん、いままでよりは、マシだなんて思ってるけど(こういうとこかしら……)。
そのせいか、私自身だけでは対話の想定に不足と思われるのか、こういった質問を投げかけられることも、ままある。
それは、「もしもなつきさん(作者)の旦那さんが、どうにかなっちゃったらどうするの――」って。
いちどやにどや、さんどではない。また、特定のだれか、というわけでもない。いろんな場面で、いろんな状況で、いろんなひとたちから、私はなぜか、「旦那さんがもし、」という想定を、投げかけられたことがあるのだ。
そうしたら、ひとりでしょ。
そうしたら、助けてくれるひとがほしいでしょ。
まあ、だから、「振る舞いを考えなさい」ということなんだろうが――。
みなさん、ご存知――か、どうかは、うん、わからないが、この連載でもここカクヨムでもいろいろと連載している通り、私は夫を愛している。
ほんとうに、愛している。
世界でいちばん愛しているし、世界で唯一愛しているといってもいい。
ほんとうに、ほんとうに、たいせつなひとで、突き詰めれば自分よりだいじだ。
夫がいるから私は生きていけるんだといつも思う。
私は自分自身のことをあれこれ言われるのは耐えられる(究極的にはそういうのがどうでもいいんだと思う)んだけど、むかしから、他人を出されるのは、これはじつはルール違反だろうと考えている。これはなにも夫に限らず、親や、親戚や、まあ私はいないがきょうだいや、友人でも、「他者を絡めない」というのは、ルールレベルのマナーだと考えている。
私が気に入らないのなら、「あなたが」と主語に置けばいいわけで、「あなたの親しいひとが」という主語になるのは、これはおかしいだろうともうずっとむかしから、考えている。
だがまあ、それは「あなたの常識でしょう」と言われれば、その通りでもあるので――まあ、そこは、いったんさて置くとしても、だ。
しばらく、悩んでいた。
もしも夫がどうにかなってしまったら。
私は、ひとりぼっちになるのだろうか。
もしもの場合を、想定して。
私は、夫がいなくなっても、ひとりでここで生きられるよう、努力をするべきなのか――?
そうやって、悶々と悩んでいたのだが。
ある日、あるとき、風の爽やかで気持ちのよいタイミングで、
私は、ふっと、そしてすとんと、「なんだ」ということで、答えが見えた。
そもそも、なんでひとりで問題あるんだ。
もともと、私はひとりだったじゃないか。
もちろんそう言えば即座に、「あなたは社会とともに生きているでしょう」「ひとりで生きているわけじゃないでしょう」という言葉が、想定できる。
だから私は続けてきっとこう答える。
「私は、もし夫がどうにかなっちゃったなら、海外に行きます。もう、この国には、もういない。こことはまったく別の社会で、生きてゆきます」
突拍子だと、思われるだろうか。だが、これはすくなくとも、私にとっての、たぶん正解だ。このことがわかった瞬間、ほんとうに心が軽くなった。
もちろんひとりでは生きていけないのだ。もちろん。ある程度の年齢となってきたいまでは、それがなおさらわかる。
でもだから私はそんなことになったらもう「ここ」にいるのをやめる。
海外に行って、いまぜったいに知り合いじゃないひとたちと、まったく新しく、新しいコミュニケーション、かかわり、生きかた、社会で、生きていく。
すくなくとも、「夫がいなくなったら」という問いかけをしてくるなかで、それ以上生きようとは思わない。
誤解しないでほしい。私は、「この国にはもう頼るべきひとがいない」なんてことを、言いたいわけではない。私を助けてくれるであろうひと、ちからになってくれるであろうひと。それも、いざとなったら。そういうひとと、ありがたいことに、私はたくさんのかかわりをもてた。
血のつながりがあり、私をずっと助けてくれて、私のほうがこんどは助け続けたいひとたち。
ほんとうに生涯つきあっていきたいひとたち。
本質的で、根源的な恩人のひとたち。
いらっしゃるのだ。ありがたいことに。いろんな関係性において、いろんなかたがたが。
もちろん、それは、ここカクヨムでも例外ではない。ほんとうに。
だから私が「そうなったら海外ゆきます」という答えを用意したのは、
「夫抜きでもやってけるためにもっとあなた自身をどうにかしなさい」という言葉に対して、真正面から悩むのではなく、「そう言うならまあほかに行きますね」と言える、そのための具体的な場所として、私は、「海外」を発見したというのみだ。
幸い、私は英語がそれなりにできる。生きていくすべも、日本よりは、むしろ海外のほうが見つけやすいほどなのだ。
海外に行ける能力ならある程度すでに身につけているし、私は、いざそうなればそうできると自分自身が、よく知っている。
ただ私は夫がここにいるから、ここにいる――それだけのことであって、もしその前提が崩れるのなら、私は、もうここにいる絶対的な理由も意味も、ない。
もちろんさきほど書いたように、私は、一生かかわりをもちたいひとたちだって、この国には、いろんな関係性において、何人も何人もいらっしゃる。
だが、逆説的なようだが、そういったかたがたとは、たぶん私がどこに行ったって、よいかかわりができるって、思うのだ。
先日、夫にこのことを話した。
いろいろ書いてきたが、とはいえ私の振る舞いであくまで仮定の話とはいえ夫がある種の危機に晒されたのはほんとうなので、申し訳なく、言葉がつかえた。
けれども夫は言ってくれた。
「うん。そうしたら、フランスとかに行きな」
と。
優しく。
たぶん、それは、ほんとうのこと。
「フランス! フランスは大変そうだよ。だってフランス語の発音ってやばい」
「じゃあどこがいいの?」
「うーん、アメリカかな? やっぱアメリカっていろんなひといるでしょ。私みたいな、アジア人でも、その巨大な多様性のなかでは目立たず生きれると思うんだ……あっ、でも、イギリスもいいね。私のやりたい分野的には、あの国も……」
心が、軽くなっていくのを感じた。
そして、いまも、その答えは、私をまたひとつ軽く、強くしてくれたって、思うのだ。実感するのだ。感じるのだ、だから、書いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます