当たり前のように過ぎゆく日々はけっして当たり前ではない

 そもそもどうしてこんな連載をしているのか、考える。

 あらためて、という感じだが、そうだ、あらためてなのだその通りに。


 夫と、だいじなだれかといれるということは当たり前のことではない。私はいつもその奇跡を噛みしめている。人間の後悔や不安というのはたいてい、過去のことか未来のことであって、「いま」にだけ集中していれば、人間というのはたいてい幸せだとよく聞くし私もけっこうその通りだと思うのだけど、私は、やはり、そう考えると過去のことでうじうじ未来のことでくよくよ、無意味に気持ちを不安定にさせるさががあるようだ。むかしよりずっとマシになったとはいえ、やはり。


 たとえば過去がほんの少しズレただけでも私たちはいまいっしょにいないと思う。それはほんとうにタイミングとしか呼びようのない、あやふやで曖昧で絶対性や確実性などとはとてもとても程遠いもので、ほんとうに、人間関係や環境や状況のたったひとつズレていたら、私たちは、いまべつの場所にいると思う。それは空虚なたぐいの甘ったるい想像なんかではけっしてなく、「いま、ここに、肌感覚でとなりにある可能性」という、ほんとうに本質的で根源的でひやっとすることだ。気持ちが、いつも底冷える。あのとき、あのとき、たったひとつだけ、偶然、違ったほうだったら。ただ、それだけでいっしょにいない。そう思うと、私はいつもたまらなく宇宙の真ん中にでも放り出されたような気持ちになる。そしてだからとなりにいれるいまが余計に愛おしい。いま、ここにいっしょに、当たり前のようにいれることは、けっして当たり前ではない。


 そして私は元来が哲学などというものを専攻している身であるからか、未来というものに対しても鋭敏いや実態は過敏である。れーてん、れーなんぱーせんとの可能性。そんなもんに脅えて暮らしたってしょーもない。くるときはくるし、こないときはこない、平穏に過ごせる。確率論の思考遊びではなく私は、私たちはじっさいの日々を生きているのだし、それこそ私が以前に書いた「未来にいまをつぶされたくない。」ってなことだ。でも私はほんとうは未来でいまをつぶされがちな、ほんらいはそちらの性質たちなんだよねえ。だから、「つぶされたくない」とかゆって希望のかたち、いうなれば希望形きぼうけいなんだし。



 そんなことを考えているとますますますます毎日夫と暮らせるこの日常は、当たり前じゃないな、と思えてくる。




 どんなに気持ちは確固として美しいつもりでもそれはそれとて日々というのは流れるようにただ景色のように淡々と物語らしくなくつづいていくものであって、

 日常というのは、けっして毎日がドラマではなく、小説にできるようなものではない。

 どんなにどんなに自分のたいせつな気持ちを主軸にしても、

 日々のつまらないことに、日常に、いろんなことは埋没していく。



 そんななかでも。

 夫と――あのときはまだ彼氏という関係性だったが、はっとすることとか、心うごいたこと、そうでもないけど「彼といる」ということ、



 そういうのをつなぎとめたくてなんとか私はメモを取り続けていた。

 それが、なんだかんだもう……二年、三年前くらいのことだ。




 そして、そういうのをもっとつなぎとめたくて、

 私は、夫との日常を書いている。





 当たり前の日々が当たり前じゃないことをシビアに自覚しながら、それでもそれがつづいていくものだと、根拠のない強い気持ちをもってして、でも、そのなかで、いちばんやわらかいところをまもるために、こんな連載をしている――気がする。




 つかみとりたい。つなげとめたい。

 ほっておけば日々のなかにただぼんやりと消えていく、たいせつなものを。たいせつなことを。ものごと以上の、だいじなそれを――。

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