6 悲劇的-6-
丘を降り、木柵を越えたところで二人の足は止まった。
広がる光景は既に彼らの知る町ではなかった。
入口近くにあった畑は茶とも黒ともつかない色の土を掘り返され、農具と思しき木片や金属片も散乱している。
奥に目を向ければ民家はことごとく焼き払われ、ほとんどは柱はおろか基礎すらも破壊されていた。
全壊を免れた家も壁をごっそりと削り取られ、今にも倒壊しそうである。
「なんで、こんなこと…………」
惨状にシェイドは膝を折った。
一縷の望みさえ残してくれなかった光景にソーマも眩暈を覚えた。
焦げた土と砂と石が延々と続くこの一帯は、人も虫の一匹さえも存在しないのではないかと思わせるほど惨たらしい。
「ここまでやるのかよ……!」
ソーマは歯噛みした。
自分が生まれ育った町を踏み躙られた屈辱は、理性だけでは抑えきれない。
貧しいながらもそれなりに賑やかさのあった町は、もう彼らの記憶の中にしか存在しない。
目に映るのは死の色だけだった。
「あんたたち……」
どこかから声がした。
二人は顔を見合わせ、声のした方へ走った。
数件の家が焼け落ち、折り重なるようにして堆くなった瓦礫の中に彼女はいた。
「おばさん!」
彼女はわずかに残った壁にもたれかかっている。
足の上には木材が覆いかぶさり、身動きがとれない状態だ。
さらに悪いことに腹部には撃たれた痕があった。
「おい、ばあさん! しっかりしろよ!」
木材を払いのけ、ソーマが呼びかける。
彼女は焦点の合わない目で懸命に二人の顔を見ようとした。
だが頭をもたげるのも苦しいようで、すぐに項垂れてしまった。
「よかった……あんたたちは無事、だったんだね……」
彼女――ミンはしわがれた声で言った。
高温の煙を吸ったことで喉と肺を損傷し、その口調には矍鑠とした店主の面影はどこにもなかった。
呼吸は荒く、額には大粒の汗をかいている。
シェイドはすぐに銃創に治癒の魔法を施した。
「突然、あの艦がやって来て、何もかも壊されたわ。なんとか逃げて……きたけれど、機械の人形に……」
「おばさん、しゃべらないで! 回復が遅くなる!」
アメジスト色の光はミンの傷口に吸い込まれて消えていく。
だが魔法は効力を発現せず、彼女の息遣いは荒くなるばかりだった。
「あたしは……いいのさ、もう……それより早く逃げるんだよ、あんたたち…………」
「しっかりしてくれ! ばあさん! 気力を持つんだ!」
魔法が万能でないことは彼も分かっている。
回復力を倍加させる魔法を用いても、彼女自身に治癒能力がなければ効果は薄い。
「ばあさん、頼む! またパンを焼いてくれよ! 毎日買いに行くからさ! あんたが死んだら、誰があのパイを焼いてくれんだよッ!」
彼女が少しでも生きる気力を持ってくれれば、シェイドの魔法がそれを助けてくれる。
完治には至らなくても死を防ぐことはできる。
ソーマはそれを訴え続けた。
ミンはおもむろに顔を上げ、二人の顔をしっかりと見つめた。
「逃げなさい……逃げる、のよ……」
ほとんど聞き取れない声でそう言い、彼女は右手を差し出した。
「ばあさんッ!」
だがソーマがその手を取る前に、彼女の命は尽きた。
触れるハズだった二人の手は互いのちょうど真ん中ですれちがう。
「おばさん! おばさん!」
シェイドはなおも魔法を行使したが、ソーマがそれを止めた。
そしてミンの首元に触れ、脈が停止しているのを確かめると黙祷を捧げた。
「………………」
シェイドは感情のない目でミンを見下ろす。
人間の死に直面することの意味を正しく理解できていなかった彼は、いつまでもそうしていた。
「行くぞ」
散歩にでも行くみたいにソーマは言った。
その冷たすぎる口調が何を言わんとしているかは、シェイドにも分かっていた。
「うん…………」
ここに留まるのは危険だ。
ドールに見つかるかもしれないという命の危険もあったが、彼女の死に冷静さを奪われ判断力を喪失する恐れもあった。
彼女が言ったように、生き延びなければならない、と。
それが自分たちの義務だと二人は思った。
だが、その前に――。
彼らがまだ親の庇護を必要とする子どもで、しかもその存否が明らかでない以上、確かめておかなければならない。
「ねえ…………」
「分かってる。母さんたちの様子を見に行く」
死の色に塗りあげられた廃墟を歩み、誰とも分からない亡骸を踏み越える。
二人は焼け焦げた遮蔽物に身を隠しながら、生まれ育った家を目指す。
その方角に一輪でも花が咲いていれば、まだ明るい可能性を見いだせた。
だが現実には見る者の心に安らぎをもたらす草花はすべて灰となって風に流されていた。
風が運ぶのは土と血の匂いだけだ。
(まさか…………)
ソーマは怯え、恐れた。
ミンの死を見届けた後、漠然と抱きはじめていた恐怖だった。
(生きてるのは、もう――俺たちだけなのかもしれない……)
ソーマは肩越しに振り返り、幼馴染の顔を見た。
彼はまだその考えに至っていないようである。
(クソ……ッ!)
何度か迂回を繰り返し、家の近くまで戻ってきた二人はあやうくその場に倒れ込みそうになった。
そこには何もなかった。
赤と茶と黒が等しく混じり合った地面が、数時間前より少しだけ隆起していた。
住居と什器と人だったものが堆積していたのだ。
無計画に住居を建てたせいで、いくつもの行き止まりがあった路地は消えた。
生活雑貨を売っていた商店も、要らないものを持ち寄って交換していた広場も、子どもたちがお化けが出ると恐れて近づかなかった空き家も、ここにはもう存在しない。
靴底に熱を感じながら土の中を歩く。
何もなくなっても、家がどのあたりにあったかくらいは分かる。
もうあの曲がりくねった道を歩く必要はない。
途中、シェイドはソーマと別れて別の道を進む。
血の匂いがいっそう強くなり、彼は足元に目を向けた。
見なければよかったと後悔する。
砂礫の隙間から何者かの手が覗いていた。
爆撃の熱に晒されたようで、糜爛した皮膚から細い骨が突き出している。
「…………?」
風にあおられて何かが動いた。
それを認めた彼は散らばった木片に足をとられながら、ゆらゆらと揺れるそれに手を伸ばす。
「母さん…………?」
指先に触れたのは布きれだった。
灰色の中、存在を示すように瓦礫の奥に続いているそれは、煤を被ってはいるものの水色の衣服の一部だと分かった。
「母さん! 母さんっ!」
それが母のものだと気付いたシェイドは、周囲の瓦礫を取り除いた。
「待ってて! すぐに助けるからッ!」
積み重なった石を投げ捨て、砂礫をかき出していくうちにようやく全体が見えてくる。
なんとか片腕が奥まで届くようになった時、彼の顔は青ざめた。
冷たいものが指に当たった。
冷たく、固い何かが。
「………………」
彼は絶望する。
全身に火傷を負い、あまつさえ数発の銃創を残した母親を見て。
「あ、ああ……ああ…………!」
塵埃と血液にまみれた、その姿を見て。
「かあ……さん……ッ!」
顔だけはほとんど無傷だった。
もともと色白だった彼女は、今もひどい悪夢に魘され続けているかのように、苦悶の表情を浮かべ、目を閉じたまま息子を見上げている。
「なんでだよ! なんで……ねえ、なんで! 母さん!」
彼は慟哭した。
血に濡れた手で土をかきむしった。
声にもならない声を上げ、何もかもを恨んで呪った。
奇跡が起こって母が蘇生することを願った。
彼女が何気なく目を開け、毎日のように聞いていた言葉――おはよう、シェイド。今日も早起きね――をかけてくれる姿を思い浮かべた。
「シェイド…………」
そうだ。
聞き覚えのある、この声だ。
「母さん…………?」
いま、たしかに彼女は彼の名を呼んだ。
閉じられていた目が、ゆっくりと開く。
「母さんッ!」
生きていた!
母は生きていた!
シェイドはすぐさま治癒の魔法を発動させる。
言いつけなど守っている場合ではない。
後でどれだけ叱られてもいい。
約束を破った悪い子だと失望されてもいい。
生きていてくれさえすれば――。
「……シェイド…………」
彼女はもう一度、愛する息子の名を呼んだ。
「にげなさい……はやく…………」
瞬く間の出来事であったから、彼女は何が起こったのか、今がどのような状況であるのかを正確に把握できていない。
一度目の砲撃がここからわずか十数メートルの地点に着弾し、その爆風になぶられ、気が付けば彼女はシェイドに見下ろされていた。
だが今が一秒を争う大事であることだけは分かった。
まだかすかに感じる鈍い痛みや、目に焼きついている閃光が危険を知らせている。
「はやく…………」
だから彼女は言った。
「待ってて! こんな傷、すぐに治してみせるから!」
「シェイド…………」
霞んだ視界の中に、きっと自分と同じ表情をしているであろう息子を思い浮かべる。
(最期に逢えて、良かったわ…………)
彼女は生を諦め、そしてそれを彼に託した。
「――いきなさい」
伝えるべきことを全て伝えると、彼女はゆっくりと目を閉じた。
「母さん……?」
光の粒子は弾け飛んだ。
魔法など無意味だと思い知らせるように、四散した光は中空に溶けて消えた。
「いやだ! いやだ! ねえ、母さん! 起きてよ!」
震える手で、彼は何度も何度も治癒を試みる。
しかしもはやそれは意味を成さなかった。
シェイドの魔法には、死者を蘇らせる力はなかったのだ。
「ああああぁぁぁ……ッッ!」
彼は慟泣した。
奇跡が起こって、彼女が蘇生することを願った。
だがその目が開くことは二度となかった。
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